隠しきれない「上から目線」
「上から目線を感じる」
という感覚がありますね。
「怒り」でも「悲しみ」でも「好意」でも「喜び」でもなく、「上から目線」。
その独特の感情が相手の言動に現れた時、
私達はそれを敏感に感じ取ります。
しかもその「現れ方」のパターンが実に多種多様です。
「頼んでもいないアドバイスをわざわざしてくる」とか
「自慢話や苦労話をしてくる」とか
「ダメ出しをちょくちょく入れてくる」とか
そういう分かりやすいものもありますが、
言葉遣いから「なんとなく」にじみ出ていることもあれば、
態度や仕草に現れていることもあります。
そして、それが出ていると、たいがい周囲はそれを敏感に感じ取ります。
「なんかこの人、上から目線だな…」
「なんでこの人、こんなに偉そうなのかな…」
不快感と共に、そういう印象を周囲は受け取っています。
本人にその自覚がなくても、周囲はそれを敏感に感じ取るのだから、なんとも恐ろしいものです。
私だって、いつどこで、気づかない内に周囲からそんな印象を持たれて、
微妙に距離を置かれてしまうか知れないわけです。
それにしても不思議なもので、
あえて、「偉そうな言葉」を言ったからといって、必ずしも嫌らしさを感じるとは限らないのですね。
冗談っぽく、「偉そうな言葉」を言う時ってあるじゃないですか。
何か教えるときにあえて、
「じゃあ今回だけは特別に、教えてあげよう」
とか言ってみたり
褒められた時に、
「まあこのくらいは、当然かな」
と気取ってみたり
それが全然嫌な感じがしなくて、むしろ微笑ましかったりするのですね。
逆に、丁寧な言葉遣いや適切な敬語で話してくる中に、
なんとなく不快な「上から目線」を感じてしまうことだってあります。
この、なかなか捉えどころのない「不快」の正体は何なのでしょうか。
どうしたら、「上から目線」の嫌な空気を出さないようにできるのでしょうか。
「自信」と「慢心」との変わり目
他人に不快を与える「上から目線」というのは、
心の中の「ある感情」が強く出てしまった時に、相手に伝わってしまうものなのですね。
結局は心の問題ということですね。
その「心」が全面に出てしまっている以上、何を言っても何をやっても、どこか「上から目線」を、
相手に感じさせてしまうことになってしまいます。
逆に、そんな「心」さえ出ていなければ、「偉そうな言葉」を出しても、嫌な感じはしないのですね。
だからこそ、その「心」を知ることが鍵となります。
仏教では、その心を「慢」と言います。
「慢心」とか「自惚れ心」などと言われるものですが、
仏教では「慢」と言われ、「煩悩」の一つとして挙げられています。
「煩悩」といったら、
欲望や腹立つ心や、妬んだり嫉んだりする心が最も代表的なものですが、
その他にも、まだまだありまして、
その一つがこの「慢」という煩悩です。
「煩悩」というからには人間の本質を成すもので、誰しも持っているものなので、
「慢」という煩悩を持たない人はいないと言えるのですね。
その特徴は、自らの能力や才能や持ち物や容姿など、
「優れている」と思っている部分を「どうだ」と誇示して、
他人を見下してしまう、という所です。
これは、「自信を持つ」こととは、別問題です。
ただ、「自信を持つ」ということなら良いことだし大事なことだと言われますね。
それと「慢心」とは似ているようで、大きく異なります。
この違いはとても大切なことです。
「自信を持つ」というのは、自分の未来に希望を持つことに繋がってゆくものです。
そしてこれは、「自業自得」の道理に則って自己をよく観察して、起きてくるものです。
「自業自得」とは、仏教で教えられる大切な道理のことで、
「自分の行いが、自分の未来を生み出してゆく」
という真理を教えたものです。
「自業」というのが、「自分の行い」のこと。
その、「自らの行い」に対して「自分は出来る。やれる。」と確信することが、自信を持つ事と言えます。
そうすれば、その「行い」が生み出す未来にも、希望を持つことができます。
これはとても素晴らしいことで、大切なことですね。
ところが、
ただ「出来る」と確信するにとどまらずに、その「出来る」ことを他人に誇示せずにおれなくなる。
そして「出来ない」他人のことを見下して、心の中で踏みつけてしまう。
そんな心が、人間には起きてくるのですね。
この、自分の優れた点を誇って他人を踏みつける「心」
これが、周囲に嫌な感じを与える「慢」の心です。
せっかく自分に優れた点があっても、それを確信できても、
そこから「慢」の感情を出してしまっては、台無しになってしまいかねません。
なぜ心から敬意を持てないのか
嫌な感じを出してしまう「上から目線」の逆が、
「相手に敬意を払う」
ということですね。
この心さえ持つことばできれば、「この人、なんか偉そう…」なんてことにはならないはずです。
ところがこれが意外に中々難しいものです。
口だけなら、いくらでも出来ます。
「皆さん、本当に立派ですね。」
「立派な方ばかりで、いつも学ぶことばかりです。」
「本当に私は、立派な人の縁に恵まれています。」
口でそういうことを言うのは簡単なのですが、
心から他人に対して敬意を払うのは、実はそう簡単ではありません。
口では褒めているようで、心中は「慢」の心が相手を見下している。
けっこう、そんなことになりがちなのですね。
どうしても他人のことは、見下しがちになってしまい、なかなか敬意を払えないというが実態です。
「慢」の心は、他人に対して歪んだ見方をさせてしまいます。
例えば、
専門的な知識を深め、それを使いこす能力を徹底的に高めている人がいたとします。
その知識と実力は誰もが認めるもので、相談すれば何でも答えてくれる頼もしい人材です。
一方で、人の心を掴むことに非常に長けた人がいるとします。
空気を上手に読んで、相手が喜ぶような事を絶妙のタイミングで言えるので、
上司や取引先の人の心を上手に掴んで、気に入られて、契約数を上げたり出世している、これまたデキた人です。
前者の人が後者の人を見れば、
「大した実力もないのに、他人に媚びへつらって出世している、中身のない人」
こんな風に見えるかもしれません。
逆に、後者の人が前者の人を見れば、
「専門バカで自分の興味のあることばかりに没頭して、
他人の気持ちを考えたり、周囲が何を望んでいるかが全然見えていない人」
と映るかもしれません。
ここまで極端にはならないにせよ、そういう傾向にはなりがちなのですね。
お互いにこう思わせてしまう心が「慢」の心です。
自分の優れている分野ばかりを重視して、その基準で他人をみるものだから、
自ずと他人は「見下す」対象となってしまいます。
それを防ぐためには、
自分も他人も、「自業自得」の道理に則って観察すること。
これが鍵となります。
それぞれが、その人なりの「努力精進」をしているというのが本当の所なのですね。
そして、
他人の「その人なりの努力」を、自分のこだわり基準のために見落としてしまっているのが実態です。
自分が大切にしていない分野の努力を、努力と認めることが出来ないのだから、
他人は見下し対象とばかりになってしまいます。
これでは、敬意を払える相手がほとんどいなくなってしまいます。
自分のこだわり分野以外の様々な努力があり、
様々な「自業自得」がある。
この道理に目を向けることが、自分も他人も冷静に観察するための鍵です。
自分が見落としまくっていた、他人の「努力精進」が見えた時、
素直に他人に敬意を払える気持ちが持てるはずです。
この気持ちこそが、「上から目線」の感情を出さない防波堤となるでしょう。