突然悪化した環境を前に私達は…
「ある日突然、環境が悪化してしまう」
という危機に遭遇したことは、誰しもあることと思います。
世の中は無常とは言いながら、
「どうしてこんなことになったのだ!?」
と、言いたくなるような悲惨な「変化」が時に私達には訪れます。
マンションに住んでいると、隣近所の変化が思いもよらない環境の悪化となることがあります。
人の入れ替わりもありますし、
人の状況そのものが変わることもあります。
そんな変化が、隣だけでなく、真上の部屋や真下の部屋でもいつ起きるとも知れません。
ある日から、
しょっちゅう怒鳴り声や物音が上の部屋から聞こえてくるようになったとか。
大音量の音楽の音漏れが頻繁にあって、気になって仕方なくなったとか。
その日まで、静かで落ち着いた環境で過ごせていたのに、
突然その快適が壊されて、日々不快感に苛まれなければいけなくなるのは、本当に理不尽な苦しみです。
ましてその為に、毎夜、安眠が妨害されるともなれば、悲惨極まりない環境の悪化です。
こういうことが、住宅事情ばかりでなく、いろんな場面で起きています。
異動のために変わった上司が、自分とのそりの合わない人で、急に職場が苦痛になってしまった。
通っている塾の先生が変わって、楽しかった授業が突然、苦痛になり始めた。
自分の店に、クレーマーの客がしょっちゅう来るようになって、接客仕事が辛い時間になってしまった。
家族が認知症になって、心配事が増えたり辛く当たられるようになり、生活が一転して不安と苦痛の毎日となってしまった。
などなど、
一つの変化で、快適だった環境が苦痛に満ちた場と一転してしまうことがあります。
「環境の悪化」
この問題は、誰にも何処にでも潜んでいる、人生の危機と言えるでしょう。
「諸行は無常」と言われるように、
あらゆるものは、「常」が「無」く、変わらないものは無い。
必ず「変化」してしまうということです。
そしてその「変化」は、自分に都合のいいものばかりではありません。
望ましくない変化。
ちっとも歓迎していない変化。
そういう「無常」が容赦なく訪れるのが人生なのですね。
「悪縁」を冷静に解析すると
「環境」のことを仏教では「縁」と言います。
自分にとって良い縁だったものが、悪い縁へと変わってしまう。
これが私達にとっての「環境の悪化」というものです。
悪化した環境によって、苦しまなければならない。
この危機を前に、私達はどう向き合い、どう乗り越えてゆけばよいのか。
それについて教えられているのが「因縁」という仏教の言葉です。
これは馴染みのある言葉だと思いますが、
仏教の「因縁生(いんねんしょう)」という教えから来ている言葉です。
あらゆるものは全て、「因縁生」であると仏教では教えられています。
すべてのことは「因」と「縁」とが揃って現れた「結果」である、ということです。
どんな結果も、「因縁」が揃って起きている。
ということは、
「因」だけあっても結果は起こらない。
「縁」だけあっても結果は起こらない。
「因」と「縁」の両方が揃って初めて、結果は起きるということです。
私の「苦しむ」という結果もまた、
「因」と「縁」とが揃って初めて起きる結果なのですね。
先程まで具体的にお話してきた「環境の悪化」とは、「縁」の話です。
確かに「縁」が悪化することは、私に苦しみをもたらす変化であることは間違いありません。
しかし、その「縁」によって、苦しまなければならない「因」は、他ならぬ私が持っていると、
仏教では教えられます。
「縁」は、私以外の外界の要素と言えますが、
「因」は、私自身の問題だということです。
例えば、
異動によって変わってきた上司という私のそりの合わない「人間」。
この人は私を苦しめる「悪縁」ということになりますが、
その「人間」のために、誰も彼もが苦しむというわけではないですよね。
その人の友達や恋人や家族は、とても心地よく付き合って幸せを感じているかもしれません。
もしかしたら、その上司の部下の中には心地よく仕事できるという人もいるかもしれません。
だけど私は、その人のために苦しんでいるわけです。
ということは、その人はあくまで、「私にとっての」悪縁だということです。
その「縁」によって苦しまなければならない「因」は、あくまで私が持っているということです。
「善い縁」とか「悪い縁」というのはあくまで相対的なものなのですね。
また、「その縁によって苦しむ」と言っても、
その苦しみの程度は人によって異なります。
「多少目障りだと感じる」ぐらいに影響を受ける人もいるでしょうし、
「自殺したくなるぐらい辛い」というぐらい苦痛を感じる人もいるでしょう。
同じ人と関わって、それほど影響が異なるのはその「縁」に触れる人の「因」の違いによります。
こんな面白い話を聞きました。
自然豊かな田舎暮らしの人が、都会に住む友人の家に泊まりに行った時のこと。
その都会の友人の家のちょうど真ん前に電車の線路があって、夜遅くまでひっきりなしに、
電車が走る音と振動が、その家に響き渡ります。
「こんな環境でよく生活しているな…さぞ、夜は不眠で苦しんでいるのではないか」
そう思っていたら、そんな電車の音や振動の中で、ぐっすりと眠りこけている友人の姿に驚いたそうでした。
ところが反対に、その友人が自然豊かな田舎の実家へ泊まりに来た時のこと。
その友人が、
「夜、眠れない」
と言うのですね。
理由を聞くと、
「風の音や、虫の声が気になって仕方がない」
のだそうです。
いやいやいや、あれだけの電車の轟音や振動の中で眠りこけている人が、何を言っているのか…
と思いますが、何が眠ることを妨げる「悪縁」となるかは、その人その人の「因」によって異なるようですね。
因縁から見えてくる苦難の突破口
「縁」だけで苦しみの結果は起こらない。
「因」だけでも、起こらない。
「因」と「縁」が揃って初めて、「私の苦しみ」という結果は成り立つのですね。
つまり、危機を乗り越える方法は2つ。
「縁」を変えること。
そして
「因」を変えること。
この2つです。
隣近所の騒音で苦しんでいるのなら、
「然るべき所へ訴えて、騒音を発している人になんとかしてもらう」
というのは「縁」を変えることに当たります。
また、
「騒音のない静かなところへ引っ越す」
というのも、「縁」を変えるということに当たりそうですね。
しかし、場合によっては、
当分の間は、離れがたい「縁」、変えようのない「縁」
というのもあるかもしれません。
「縁」を変える
という選択肢しか頭にない状態だったら、これはもう「絶望」しかありません。
しかし、
「因」を変える
という選択肢があることを、ぜひとも覚えておいて欲しいのですね。
たとえ自分を苦しめていると思える「縁」がそのままであっても
「自分」を変えることによって、
苦しみを乗り越えたり、
苦しみを和らげたり、
することができるということです。
そういう選択肢があることを、「因縁生」の道理に基づいて、よく理解しておくことが大切です。
もしかしたら、
「どう考えても縁が悪いのに、どうして自分が変わらなきゃいけないのか」
と、納得できない思いが出てくるかもしれません。
だけど、こう考えてみてはどうでしょうか。
「その悪縁を前にして動じない自分になることが、
自分が心から求めている結果に近づくことになるのではないか」
と。
例えば、
現在勤めている職場に、「苦手な人」がいるとします。
私にとってどうも苦手意識を感じてしまう人。
そんな人がいるとします。
(きっと思い当たる人がいる方が多いと思います。)
たまに、仕事でどうしてもその人と相談しなきゃいけない案件に出くわすと、正直、
「うわー」
と思うわけですね。
だけどもし、私が人生で目指していることが、
「人との関わりを広げて、多くの人に影響を与えてゆくこと」
だとしたら、たかが職場の「苦手な人」に対して、怖くてまともに話せないようでは、
そんな結果は得られないのではないか、と考えることもできます。
実は、「苦手な縁」に動じない「因」を自分の中に持つことが、
そのまま、自分が目指している「結果」を得るための「因」にもなるのではないか、
と考えることができるのですね。
ならば、「悪縁」となっているものを前にして、
自分の「因」を変える努力も、十分に意味を持つこととなります。
「もし、こんな苦手な人の前でも動じない自分になることができたら…」
これは、求めている結果に大きく近づくことになるのですね。
この「悪縁」と感じる人の存在が、自分が目指す道における具体的なステップになるということです。
「因縁生」の道理を観ることで、それまで見えていなかった突破口が見えてきます。
危機を前にしたときは、その危機の上に「因縁生」の道理を観てください。
そしてもう一つ、その危機を乗り越えた先の、自分が本当に求める「結果」は何なのか。
これを明確にすることが大切です。
危機を乗り越え、かつ、自分が本当に求める結果へとたどりつける「道」が、きっと見えてくるはずです。