無自覚な「自己主張」を「魅力」に転ずるために〜「自慢」と「自虐」と「演出」〜

「自慢話」は敏感に気取られる

「自慢話は嫌われる」
と、よく言われますよね。
しかも、「自慢話をしている」という空気って、すぐに相手に伝わってしまいます。
さりげなくしているつもりでも、相手はすぐに分かってしまいます。
「ああこの人、自慢がしたいのだな…」
あからさまに思わなくても、なんとなくそんな「空気」を感じていたりするものです。

その「空気」が、「なんとなく」のマイナス印象を帯びさせてしまう…
どうして「自慢話」って、嫌な感じを残してしまうのでしょうね。

ちょっと、想像してみましょうか。
目の前で誰かが(上司でも同僚でも誰でもいいのですが)、自分に向かって、「さりげなく」自慢話をしている場面を。
「さりげなく」ですよ。
あからさまに「俺はこんなにも凄いんだ」とは、言っていません。
だけど相手の話している内容から、あなたは分かってしまいました。
「ああこの人、自慢がしたいんだな…さりげなく、自分の有能さ、博識さを披露したいんだな…」
そんな時、「その人」からどんな空気が伝わってくるでしょうか。

多分、圧迫感のようなものを感じると思うんですね。
表情から、ジェスチャーから、声のトーンから、何か自分に対して「迫ってくるもの」を感じるのですね。
強烈な「私を見よ」という「要求」のようなものが自分にのしかかって来る。

…なんか嫌ですよね。
できれば、この場から離れたいような気持ちになるかもしれません。

まだ、「私を見よ」だけの要求ならいいのですが、そこに、あなたとの比較のようなニュアンスが入ったらどうでしょうか。
「お前よりも苦労してきているのだ」
「お前より努力してきているのだ」
「そのことをよく理解して欲しい」
そんな空気が自分にのしかかって来たら。

…ダッシュで逃げ出したくなりますよね。

基本的に、人は自分のことに一番興味があるもので、そこまで他人のことを知りたいと思っていないものですね。
よく、
「ああ、私はみんなに、こう思われているかな、ああ思われてるかな…」
なんて思って悶々としていると、
「いやいや、みんな自分のことで一杯一杯なんだから、あなたのことをあーだこーだと考えているヒマなんてないですよ。そんな心配はいらないですよ。」
とたしなめられたりしますよね。
これは本当に、その通りだと思います。

自分のことを考えてみれば分かります。
私達が「他人のことを考える」といっても、そんな人はごく限られた人だと思います。
今日、会う人会う人に対していちいち、
「この人はこうだった、ああだった…」
なんて、よほどの人間観察好きでない限り、そんなに考えないはずです。
それよりも、自分のことで一杯一杯です。

他人は、自分が思っているほど自分のことを考えてなんかいない。

これが現実でしょう。

「自慢をする」というのは、それを目の前の人に強要するようなものですね。
それはどうしても、相手にとっては違和感や微妙な心地悪さを感じさせてしまいがちなのですね。

余談ですが、私も自慢すること、あるんですけど(苦笑)
なるべくストレートに言うようにしています。
だって、どうせ自慢だってバレてるんだから。隠すだけ無駄というものですね。
なので、
「どうですか、これ、すごくない?」
と、子供みたいにニヤニヤしながら自慢するようにしています。ウザさ全開でいきます。
自分でも「自慢」ていう自覚ができますので、まあそこそこにしておくことができるという効果もあります。
「ちょっと、自慢していい?」
「今から、武勇伝を語らせてもらいます。」
「これ、自慢なんだけど。」
あえて「自慢します」宣言をしてから語ったりします。

「自慢話」をゼロにすることは難しい、ならば、せめて隠さない、変に気取らない、
というのが、今の所の私の心がけているやり方です。
どうです?なかなか上手い方法だと思いません? ←自慢話

「自慢」も「自虐」も本質的には共通して…

仏教では人間の欲の中でも特に強いものが「名誉欲」だと教えられます。
自分が、注目されたい。」
自分が、関心を持って欲しい。」
自分に、こう思ってほしい。」
自分を、自分を…
と、相手に対して、周囲に対して、アピールせずにいられない欲です。

無視されたり、誰にも関心を持ってもらえないことが、やっぱり辛いわけです。
「どこかで、誰かに認められていて欲しい。」
「何かしらの気持ちを、自分に向けてかけていて欲しい。」
「あの人に、気にかけていて欲しい。」
この願望は「切実」そのもので、常にそれに飢えているのかもしれません。

「名誉欲」の無い人はいないと、仏教では教えられます。
だから、自慢話をゼロにすることは、まず難しいことです。
あからさまな分かりやすい形ではなくとも、何らかの形での「自分」の主張を、私達は知らず知らずにしているもので、
そのことをよく自覚することが大切です。

今でもたまにやりがちなことなのですけど、
「自慢話をするまい」を意識する余り、逆に振り切れて、「自虐話」をやたらしてしまうということがあります。
やたらと、自分を貶める話をするというわけです。

いかに自分が物を知らないか。
いかに自分が非常識か。
いかに自分が優しくないか。
いかに自分が自分勝手か。

「自分を落とすことなら、相手も気分悪くないだろう」
と、どこかで思ってしまって、そういう話をあえてするのですね。

なんとなくこういうのは自慢話の逆のように思ってしまうのですが、実はそうでもなかったりします。
「自慢話」「自虐話」も、共に「自己主張」という点では共通しています。

それが「プラス(に見える)」のことであるか「マイナス(に見える)」のことであるか、の違いだけですね。
どちらも、目の前の相手に、そんなに知りたいと思ってもいない「自分のこと」を、一生懸命シェアしようとしている行為に違いはありません。

そこに
「私は自分で、自分のことをこんなように見ているのです。」
というアピールが入ってるので、「行為そのもの」をこれ見よがしに主張してしまったりして…

「自虐」の場合、「これは自慢話ではない。むしろその逆なのだ。」という意識を持ってやる分、自慢話よりも勢いがあったりするので怖いですね。
実は自慢とさほど変わらない「自己主張」を、自慢話よりも強い圧で相手にぶつけていたりするのだから。

どうせなら「演出」してやろう

万人共通の「欲望」の一つの「名誉欲」
これは、いつの時代でもどこの国でも文化でも、人間である以上、心の底に渦巻き続けています。
そして、何らかの形での「自己主張」をせずにいられないのが実態だということです。

だけど考えてみれば、そんなに人間、「名誉欲」が強くて、何らかの形で自己主張せずにいられないのであれば、みんな周囲から嫌われているかと言えば、そうではないですよね。

逆に、とても人を惹きつけ、人を楽しめ、周囲を盛り上げて、元気付けている人もいます。
そんな人もまた、私達と同じ「名誉欲」は持っているはずです。
そんな人と、「自慢話」のオンパレードで煙たがられてしまう人と、何が違うのでしょうか。

「名誉欲」の出し方が違うのですね。
どちらも「自分」という人間を「出している」ことに変わりはありません。
その原動力が「名誉欲」であることもまた、変わりません。
だけどその出し方がとても上手であれば、それは周囲に対するエンターテインメントにもなり得るということです。

同じ名誉欲でも、どうせなら「上手に演出してやろう」と考えることで、強烈な名誉欲を周囲へのエンターテインメントの提供に繋げることもできます。
実際に、魅力的なキャラクターの人は、私達の周りにいます。
もちろんテレビの中にも映画の中にも、魅力的なキャタクターで心を惹きつける人たちがいます。
テレビや映画ではまさに、製作者によって、魅力的な「人」が演出されているわけです。

名誉欲をひた隠しにしながら、だけど漏れ出ていてバレバレ…よりも
自虐に走って、だけど結局自己主張している状態…よりも

「こうありたい、こう見せたい、これなら自分でも好きだと思える」
そんな「自己」を精一杯演出していくことを心に決めることができれば、強烈な名誉欲のエネルギーは、周りを楽しませるための源泉にもなります。

「常に渦巻いている名誉欲」
まずはこの実態に目を向けることが出発点となります。
いわゆる「自己を知る」ということです。

そこから、せめて無自覚の自己主張の垂れ流しを極力防ぐという努力ができます。
そして、いい形で「自分」を演出してゆく努力にも、つなげてゆけることでしょう。