暗闇を走るような人生
年末年始を過ごした大阪の実家は、生まれ育った家でもあり、実家ならではの安心感がありました。
そしてまた京都に戻り、普段生活している部屋に入ると、そこにはやっぱり「住んでいる家」ならではの安心感があります。
実家は、生まれ育った家ではありますが、今は自分が日常的に生活している家ではありません。
それに対して京都の自分の部屋は自分の生活拠点で、自分が生活しやすいように配置していて、
毎日毎日、その部屋の家具や電化製品を使って生活しています。
そういう住み慣れた「自分の部屋」には、それ相応の安心感があるものですね。
ただ、そんな住み慣れた部屋でも、急に停電が起きて真っ暗になったらどうでしょうか。
「住み慣れているのだから、暗闇であっても平気で歩き回れる」
なんて人はいないと思います。
いくら自分が配置しているとは言っても、「真っ暗闇」だったらやっぱり、どこに何があるか、なんて確証がありません。
下手に動けば何にぶつかるとも知れません。
とても平気で歩き回るなんてわけにはいきませんよね。
ましてダッシュするなんて、とてもとても出来ないと思います。
「自分」で配置して、「自分」が使って生活している部屋でも、真っ暗闇の前では不安を拭い切ることはできません。
私達は自分の人生を生きています。
生まれてくる時代や場所は選べなかったかもしれませんが、その環境の中で「どう生きるか」ということは、自分で選択して生きています。
ちょうど、自分の部屋の家具や電化製品をどう配置するかを自分で決めるように、
自分の選択できる範囲内ですが、どんな服を着て、何を食べて、どんな人と付き合って、どんな勉強をし、どんなスキルを身に着けて…
これらを選んで、自分の人生を生きているはずです。
それでも、私達には常に不安の影を落とす「暗闇」があると仏教では教えられます。
それは、「自己に暗い心」です。
鏡を見れば、自分の外形を知ることもできます。
レントゲンで撮れば、自分の体内の様子も分かります。
自分のDNAの情報を自分で知るサービスもあると聞きます。
人間の科学文明で、色んなことを「明らかに」できるようになってきていますが、それでも未だ、科学をはじめとする人間の叡智の「明かり」が全く届かない領域があります。
それが、私自身の心の底です。
ここは、昔も今も真っ暗闇の中にあるのですね。
心の深海に潜む種
「いやいや、心の底といっても自分のことなのだから、自分が一番よく分かっているよ。」
と、言い切れるでしょうか?
たとえば、「海」と言ったら、あの青々とした、波が絶えず寄せては返す広くて大きな海…
そんなイメージを私達は抱きますね。
だけど私達がイメージする、そんな「海」は、本当の「海」のうちの2%に過ぎません。
そんな私達がイメージする「海」のずっと底に、太陽の光さえも全く届かない、「真っ暗闇」の「深海」と呼ばれる領域が98%存在します。
海の本質は「青々とした水」ではなく「真っ暗闇」と言えるでしょう。
そんな「海」と同じように、私達が自分の「心」を想像する時に浮かぶ、
「嬉しかった」「楽しかった」「悲しかった」「腹がたった」という色々な心の動き…
それは、「海」全体のわずか2%のごく表面の波の動きのようなものです。
じゃあその「嬉しさ」「楽しさ」「悲しさ」「腹立たしさ」等の感情はどこから起きてきたのか?
その出処をさらにさぐると、もっともっと深い心の領域へと迫ってゆくことになります。
どうしてこの場面で私は嬉しくなったのか?
どうしてこの人の言葉でこんなに私は悲しくなったのか?
なぜ、あの人の態度に私はこんなにイライラするのか?
もっと深い心の領域を探っていけば、その先には、海の98%を占める「深海」のように、真っ暗闇の心の領域が広がっています。
その心の底に、色々な感情を引き起こす元となる「種」が潜んでいるのですね。
植物の「種」は、そこに土、水、日光、温度などの「環境」が整えば、芽を吹いて果実を実らせる「元」ですよね。
ちょうど、「種」が「環境」に触れて、芽や果実を吹き出すように、
私達の心の底の「種」に、人や場所や物や雰囲気やらの「環境」が加わると、ある「感情」となって心の表面に吹き上がってくるのです。
そんな「環境」のことを、仏教では「縁」と言います。
心の底の「種」に「縁」が加わって、私達は日々色々な感情を起こして生きています。
私達が普段、「これが私の心だ」と認識している「心の動き」は、その表面化した感情ばかりです。
じゃあ、心の底にはどんな「種」があるのか?
私は、どんな「縁」に触れたときに、どんな「感情」を起こすのか?
それは、ほとんど自分では分かっていないということです。
ただ、真っ暗な「深海」のような「未知の心の領域」が広がっているのです。
歎異抄という仏教書にこのような言葉があります。
「さるべき業縁の催せば、如何なる振舞もすべし」
「縁」さえ来たならば、どんな振舞いでもするのが「私」というものだ。
こう言われるほどに、私達の心の底にひそむ「種」は、想像を超えるおびただしさなのですね。
奥底の暗闇を明確にすると…
心の底に、そんなおびただしい種を造り続ける元が、仏教で教えられる「煩悩」と言われるものです。
「煩悩」という言葉もよく知られていますが、イメージは人によって様々だと思います。
歎異抄では、煩悩の状態について、
「煩悩熾盛(ぼんのうしじょう)」と言われています。
「熾盛(しじょう)」というのは、「燃え盛る」ということです。
え、煩悩って、燃え盛っているものなの…?
と思われるかもしれません。
仏教で教える煩悩とは、非常に「激しい」ものなのですね。
勢いが半端ではありません。
一口に煩悩といっても色々ありますが、その代表が「欲」の心や「怒り」の心や、「妬みや嫉みや恨み」の心。
まさに「煩わせる心」ですね。
そういうものを人間は持っているな…
という認識は誰だってあると思います。
仏教は、それらを「燃え盛る火炎のように、常に激しく動きづくめである」と表されています。
「何かがあった時に、激しく湧き上がってくる欲望や怒りや恨みなどの心」と言うのなら分かりますよね。
目の前に、目もくらむようの美女が通りかかった時に起きる強い欲望…
冷蔵庫に入れて楽しみにしていたプリンを弟に食べられてしまった時に起きる激しい怒り…
狙っていたポストを同僚に持っていかれてしまった時に渦巻くおぞましい恨み…
縁にふれ、折にふれ、煩悩は激しく燃え盛るということは、想像できると思います。
ところが仏教では、その「縁にふれ、折にふれ」沸き起こるのは表面上の話であって、
その心の奥底には、自分でも気が付かないところで常に煩悩は激しく燃え盛っていると教えられます。
そして、その激しい煩悩が心の中におびただしい種を造り続けています。
「煩悩」について詳しく知るということは、この心の底に潜む種を詳しく知るということになります。
仏教では、このような私達の心の奥底の本質について明確に教えられています。
そして、真実の自己に目を向けるように、目を向けるように導くように説かれています。
そんな仏教は、私の心の底を映す鏡のようなもので、「仏教は法鏡である」と言われます。
真実の自己を知って、歩みだす人生は、自己に暗く、暗闇の中を突っ走るような人生から大きく変わります。
「心の底の煩悩」とはどんなものなのか。
また今後も、詳しくお話していきたいと思います。