「他人」という興味深い存在
あなたは、「他人」に対して興味を持っている方だと思いますか?
私たちは人間社会の中で生きている以上、人と関係し合うこと抜きに生きていけません。
「他人」という存在は、どう生きるにしても、私たちにとっては無視でないものです。
「他人」の存在自体が私たちの生き甲斐になりますよね。
自分の色々な努力が、
誰かの為になっていたり、
また誰かが見てくれていたり、
また誰かと競っていたり、
そういうことがあるから頑張れるのだと思います。
もし、私にとって、
「あの人のために何かしてあげたい」という人がゼロで、
自分の頑張りを見てくれているという人もゼロで、
「この人に負けたくない」と思うような人もゼロ
だったとしてら、何かを頑張ろうという気持ちも起きないと思います。
「他人」の存在は、私たちにとって生き甲斐そのものと言えます。
それと同時に、私に悩み苦しみを与える存在でもありますね。
「あの人にどう思われているんだろう…」ということで悩んだり
「あの人にあんなことを言われた。あんな目で見られた。」ということで傷ついたり
「あの人のためにあれをしなきゃ、これをしなきゃ」と煩わされたり
何しろ「他人」は、とことん私たちを煩わせる存在でもあります。
そんな時は、「一人になれる時間」がとても恋しく思えたりします。
プラスにもマイナスにも、私に大きな影響を与えるのが他人ですね。
「一人では寂しいし、生きる甲斐も感じられない」
とも思うし
「一人で心静かに、誰にも煩わされずに過ごしたい」
とも思うし
ある意味とても興味深い存在が「他人」です。
そこで今回は、「他人」をみる仏教的な視点についてお話ししたいと思います。
というのも仏教では「他人」については
「全く違う、かけ離れた存在」
とも言われるし
「全く同じ、共通した存在」
とも言われるのですね。
「違う」とも言われる。「同じ」とも言われる。
仏教的にもやっぱり、とても興味深い存在が「他人」なのですね。
だけど他人に対して「違う」ようにも「同じ」ようにも思える感覚って、なんとなく分かりません?
他人に対して、
「自分とは全然違う」
「自分のことなんてとても理解してもらえそうにない」
「この人、全然理解できない」
というように感じることもありますし、
また一方で、
「やっぱり同じ人間だな」
と感じることもあると思います。
それは、誰に対しても同様のことが言えるのではないでしょうか。
生まれてからずっと一緒に過ごしているような家族にも、自分には到底理解できない面があるでしょう。
自分と全然違う環境で育ってきた、住む世界が違うと思える人でも、やっぱり同じ人間だと感じる面があるはずです。
姿も世界も違う「他人」
「私と他人とは全く違う」
ということについては、パッと見て分かりますよね。
姿形がまず、違います。
肌の色や髪の色や目の色が私たちと違う人たちは、世界には大勢いますね。
欧米の人たちなんかを見れば、私たちとは「違う」とすぐに感じるでしょう。
同じ「黄色人種」と言われる日本人と中国人や韓国人でもやっぱり「なんとなく」違うなっていう気がしますよね。
欧米の人ほどではないのですけど、それでもなんとなく中国人っぽいな…と思ってたら、だいたい当たっていたりします。
だけど、「どこが違う?」と言われたら、ちょっと説明に窮してしまいそうです。
なぜ「違う」と感じるのか分かりませんが、「なんとなく」としか言いようがありません。
そしてもちろん同じ日本人でも、「他人」である以上、姿形は違います。
自分と似た人を探せば、もちろんいるでしょうけれど、「全く同じ姿」という人はどれだけ探しても見つからないはずです。
双子であっても、やっぱりどこか違うでしょう。だから親ならその違いが分かるようですね。
他人からすれば、「どうやって見分けているのかな?」と不思議にも思いますけれど、やっぱり双子の兄弟や姉妹でも、本質的には「他人」だということです。
70億人いれば70億人、みんな違う姿をしていることは明らかです。
ところが仏教では、ただ外見的に違うと言われるだけでなく、一人一人が「違う世界」に生きていると教えられます。
たとえば、ある学校の一つの教室で、定期テストが始まったとします。
先生の「始め」の合図と共に、みんなが一斉にシャープペンや鉛筆を動かして問題を説き始めます。
この光景を思い浮かべれば、同じ教室の中で、みんな同じ方向を向いて座って、同じような机と椅子で、同じ問題用紙を見つめて、シャーペンや鉛筆を動かしている。
外見は同じ空間、同じ世界を共有しているように見えますが、彼らの世界は一人一人、全く違うはずです。
この教室の中には、「楽しくて仕方がない」という人もいるでしょう。
自分の努力の成果をまさに今、発揮できるとワクワクしながら問題に挑んでいる生徒もいるはずです。
「苦痛で仕方がない」という人もいるでしょう。
サボッてばかりいて、問題を見てもさっぱり分からない。答案用紙が全く埋まらない。ただ時間だけが過ぎていく…
だけどその時間がまた果てしなく長く感じる。早くこの苦痛から抜け出したいという人もいることでしょう。
中には、昨日食べ過ぎてお腹を壊して、テストの緊張と相まって腹痛で苦しんでいてテストどころではない、という生徒もいるかもしません。
同じ教室で同じようなことをしていても、一人一人の世界は全く違うのですね。
その違いを生み出しているのは、一人一人のこれまでの「行い」です。
先ほどの違いも、
「テストに向けてしっかり勉強してきた」という行い
「遊んで、サボッてばかりいた」という行い
「暴飲暴食をしてしまった」という行い
そのそれぞれの行いが、同じ教室の中で同じテスト問題に向かいながらも、それぞれ違った世界を展開させているわけです。
テストの場面に限らず、どんな場面であっても、同じ事です。
たとえ何人の人が物理的に空間を共有していても「世界」は一人一人全く違います。
一人一人の、それまで違った「行い」が、それぞれ違った世界を生み出しているということです。
生きている世界そのものが、自分と他人とは全く違う。
そこまで「かけ離れている」のが他人ということですね。
全く同じ現実を持つ「他人」
だけど同時に言えることは、みんな「そう」だということです。
みんな、自分一人だけの世界をたった一人で生きている。
その世界を、世界中の誰一人として理解してくれない。
同時に自分も、誰の世界をも、理解してあげることはできない。
こういう現実に一人一人が生きているという点は、万人共通です。
昔も今もこの現実は少しも変わっていません。
一人一人が携帯電話をもってお互い繋がっているようでも
スマートフォンでLINEやSkypeを導入して、より密に繋がっているようでも
そんな繋がりでは到底埋めようのない、「たった一人の世界で生きている孤独感」は時代も場所も問わず在り続けているのです。
「一人一人が違う世界でたった一人で生きている」
これは、時空を越えて万人共通した姿なのです。
それと同時にもう一つ共通していることは、
そんな中にあって、
「誰もが他人との繋がりを切に求めていること。」
人は、他人を求めずにいられない。
そこにこそ生き甲斐があるということを初めにお話ししました。
「人の役に立ちたい」「人から必要とされたい」「特別な存在でありたい」
どんな形であれ、人との繋がりをいろんな形で求めているということに違いありません。
好き嫌いや、理想の形は違えど、誰もが何らかの他人との繋がりを求めていると言えるでしょう。
仏教ではこれを「愛欲」と言います。
他人に対して「好き」だ「嫌い」だ「こんな関係を持ちたい」と望んでやまない人間の根本的な欲求を仏教では「愛欲」と言います。
朝から晩までこの「愛欲」にどっぷり浸って生きており、愛欲から決して離れられないのが人間なのですね。
そんな私たちに立ちはだかる、自分と他人と「世界が異なる」という断絶感は、実は極めて深刻な問題だと言えます。
そんな人間の有様を仏典の中にはこのように書かれています。
「人世間、愛欲の中にありて、独り生まれ独り死し、独り去り独り来る」
万人が全く同じ現実を生きていることを、ズバリ言い切られています。
他人との繋がりを切実に望み願いながら、一人一人が違う世界でたった一人生きている。
これが仏教で教える万人共通の現実です。
そんな、なんとも割り切れない現実を、誰もがお互い抱えながら生きている。
この現実の前には、貧富も賢愚も能力の差も、全く関係なく平等と言えます。
どんな親しい相手に対しても、またどんなに嫌いな相手に対しても、
他人に対してそういう視点を持つことができれば、きっとこれまでと違った理解をすることができるはずです。