「犯人」探しと「恩人」探し
「なんでこんなことになってしまったんだ…!?」
「どうしてこんな目に遭うのかな…?」
と、自分の身に起きる結果に対して「どうして?」と切り込まずにいられないのはどんな時でしょうか。
上の「心の叫び」が表しているように、それはイヤな結果が起きたときです。
自分に嬉しい結果が起きたときに、
「どうして自分にこんな嬉しい結果が表れたのだろう」
と考えることも、もちろんあるでしょう。
だけど「どうして?」が向けられるのは、圧倒的にイヤな結果に対しての方が多いですね。
そしてこの「どうして?」の気持ちは、「誰のせいで?」という犯人探しへと発展していきます。
悪い出来事についての犯人探しは、本当に頻繁になされていますね。
「誰だ、こんなところに書類を置きっぱなしにしているのは!?」
「誰だ、机をこんなに汚したのは!?」
「誰のゴミだ、これは?」
悪いことについてはすぐに、原因を探る心が働きます。
いい結果に対しても、
「誰がしてくれたのだろう?」
と探る心が動いても良いものですが、どちらかというと、私たちは悪い結果の犯人探しの方が得意なようです。
「犯人」探しは、なぜか自然とやってしまう。
それに対していい結果をもたらしてくれた原因探し、「恩人」探しは、意識しなければなかなかできないことなのかもしれません。
やることは一緒ですよね。
どちらも「原因を探る」こと。
なのに、悪い原因に対してはガンガン犯人探しをするけれど、良い環境を整えてくれる結果の原因は、ついつい流してしまう。
そんなアンバランス感を自分に感じたならば、まさにここが、努力のしどころです。
自分を助けてくれる結果の原因に、とことん目を向けて「恩」を知る努力をすることが、自分に大きな変化をもたらします。
地味で目に見えない努力なのだけど、これをやることによる心の変化が、間違いなく人生を好転させていきます。
「当たり前」から「幸福感」に
恩を知り、恩を感じ、恩に報いようとする。
これを「知恩」「感恩」「報恩」と言われますが、非常に大切なことだと仏教では言われます。
悪い結果を起こした原因探し、犯人探しも必要かもしれませんが、こちらの方がずっと大切なことです。
なぜなら、これが「幸せ」を「幸せ」と、ちゃんと感じるためのステップでもあるからです。
お金に恵まれている、財産に恵まれている、社会的地位、家族、恋人、娯楽、色んなものに恵まれていることが、イコール「幸せ」とは言えません。
もし、それらに囲まれている人がそれらを「当たり前」と思っていたらそこに「幸せ」を感じることはできないでしょう。
私たちもこれまでの人生で色んな物を手に入れてきたと思います。
それらが新鮮なうちは幸せを感じることができたけれど、「当たり前」と思うようになってからはもう久しくそこに「幸せ」を感じられていない。
そういうことがどれほどあるか知れません。
だけど「当たり前」というのは、私たちが勝手にそう思っているだけで事実はそうではありません。
そこには常にちゃんと原因があり、恵まれていることには深い恩が間違いなく存在します。
自分に会いに来てくれた人。
自分にLINEやメールをくれた人。
スタンプの一つでもくれた人。
コーヒーを出してくれたお店。
食事を出してくれた食堂。
働く環境を整えてくれている会社の人たち。
その背景にどれほどの苦労や気遣いや思いやりがあることか知れません。無数の原因があり、恩があります。
その原因に目を向けて、恩を知り、その恩を「有り難いな」と感じることができ、それらの恩に報いられるように頑張ろうと心が動く。
これができればそれだけで「幸せ」を感じることができます。
これは、食べ物を味わって食べる、という感覚にも似ています。
どんな美味しい食べ物でも、他のことを考えたり、深い悩みに沈みながら、機械的に口に運んで飲み込んでいたら、「美味しい」という幸せな気持ちは得られません。
よく噛んで、味わって食べるほどに、その美味しさを深く感じられるようなものです。
せっかくの恵まれた状況を恩を知ることなく流しているのは、高級料理を噛まずに飲み込んでいるようなもので、こんな勿体ないことはありません。
「恩を知り」「恩を感じ」「恩に報いよう」とすることは、自分が人生に「幸せ」を感じるためのステップと言えます。
「自信」と「感謝」の源泉
「恩を知る」ことは「原因を知ること」とお話ししてきました。
だけど、「自分の結果」に対する「原因」を論ずるのであれば、「自分の努力」こそが原因ではないだろうか?
という思いもあるかもしれません。
確かに仏教では「自業自得(じごうじとく)」と言われて、自分の身に起きる結果(自得)の原因は「自分の行い(自業)」だと言われます。
間違いなく、自分に恵まれた結果が起きたならそれは自分の努力という「行い」があってこそです。
仏教ではその行いのことを「因」と言われます。
「因」は、結果を引き起こす不可欠の原因です。
だけど「因」だけあっても、それだけでは結果にはなりません。
ちょうど、植物の「種」が存在しても、その種から芽が吹いて花が咲くには、土壌や水や温度や日光などの「環境」が必要なように、私たちの努力という「因」が私の恵まれた「結果」となるには、色々な「環境」が必要です。
「因」が「結果」になるために必要な「環境」を仏教では「縁」と言います。
「因」と「縁」が揃って初めて私に「結果」が引き起こる。
「因」だけあっても、「縁」だけあっても、両方揃わないと私の「結果」にはならない。
これが仏教で教えられる「因縁生(いんねんしょう)」という法則です。
(このことについては、決断できる人になる思考法~「因縁生」を観る~の記事で詳しくお話ししています。)
ということは、これまで「恩を知る」こととしてお話ししてきた「原因を知る」というのは、「因」と「縁」のうちの、「縁」に目を向けるということに当たります。
恵まれた結果をもたらしてくれた「縁」を深く見つめることが、恩を知り、恩を感じ、恩に報いることに繋がります。
これが「感謝」となり、私たちの大きなエネルギーの源泉となります。
一方で「因」をみることもまた、大事なことです。
この「因」をしっかり見つめることは「自信」になります。
「感謝」も大切ですが、「自信」も大切ですよね。
「私には、これだけのことがやれるんだ」
この確信が何かにチャレンジするエネルギーとなります。
よく「自信」は「成功体験」から生まれると言われます。
それはその通りですけど、「成功体験」と言ったら、何か大きなプロジェクトを成し遂げたとか、何かの賞をもらったとか、何かの資格を取得したとか、大きなものを想像してしまうと思います。
だけど、そんな大きな成果を挙げることが人生でそんな頻繁にあるわではないですよね。
そういう「成功体験」がなければ自信が持てないということでは、なかなか自信は養われません。
別にそんな大きなものでなくてもいいのです。
「上司から振られた一つの仕事をこなした。」
これだって「成功」しているわけだから、「成功体験」です。
「友達との会話の中で友達が楽しげだった。」
これも「成功体験」です。他人を喜ばせて楽しい時間を共有するという成果を挙げたのです。
まぎれもなく、私の努力や工夫という「因」が実を結んだものに他なりません。
「そんなものは成功のうちに入らない」と勝手に思ってしまっているかもしれませんが、道理から言えばそんなことはありません。
結果の大小の違いに過ぎず、「成功体験」に違いありません。
そして、そんな小さな「成功体験」の積み重ねで、私の生活は成り立っています。
そしてそれは間違いなく、私の「因」の結果です。
「よし、がんばった」「今のトークは悪くなかった。」「感じの良いしゃべりが出来たかも」
そんな「因」一つ一つにちゃんと目を向けて、小さな成功体験を「自信」に変えるという心がけはとても大切なことです。
せっかくの「因」をスルーしている人と、その「因」一つ一つに目を向けて、「いいじゃないか。」「さすが、私。」と自信に変え続けている人とでは、長い目で見れば全然違ってきます。
因縁生の道理に則って
「因」を見つめることで「自信」が築かれる
「縁」を見つめることで「感謝」が沸いてくる
いずれも、私の前進をささえる大きなエネルギー源です。
「因縁生」を深く理解して、「因」と「縁」をバランスよく観ることが、たくましく生き抜く土台となるのです。
コメント
毎回、とても読みやすくてありがたいです(o^^o)
今日の記事は読んでいて思わず笑ってしまいました!何故ならわたしはいつもいつも、なんで〜なんだ、と犯人や原因ばかり探して、しんどくなる、この思考パターンが定着しているからです笑
お腹が痛くなっても、なんで…
仕事でミスしても、なんで…
と、怒りと絶望感を含みながら思ってしまいます^^;
今日の記事で、気をつけないといけない事を気づかせてもらえたのと、感謝を忘れていた事を思いださせてもらいました‼︎
いつもありがとうございます、これからも楽しみにしています☆
コメントありがとうございますヽ(´ω`)ノ
喜んでいただけてとても嬉しいです。
はい、これからもいい内容をお届けできるように頑張ります(´ー`)ノ