「決断できる人」になる思考法~「因縁生」を観る~②

万物は何で出来ているか

「万物は何で出来ているのか」

という哲学的なテーマが古来からありますね。

世界史か何かで覚えたなあ、と思い出す人もいるかと思います。

目の前にある物、身の周りにある物を見て昔の人もそういうことを考えたのでしょうね。

私の目の前にはいま、コーヒーを入れるタンブラー、腕時計、スマートフォンなど色んなものがありますが、
「これらは、究極的に突き詰めたら、何で出来ているのだろう?」
そういう問いだということですね。
哲学者って、そういうことを考えるのですね。

私も世界史をやっていたのでちょっと記憶しているのですけど

確か
「万物は水で出来ている」
と言ったのがタレスという人。

え、水…?なんで…?
と思わなくもなかったのですが、とりあえず記憶しましたね。テストに出るから。

また次に、
「万物は火で出来ている」
と言ったのがヘラクレイトスという人。

え、火…?なんで…??
もっと疑問に思いましたけど、とりあえず記憶しました。テストに出るので。

また次に、
「万物は数字で出来ている」
と言ったのがピタゴラスという人。

そ、そうですか…数字ですか…
意味を考える意欲も失せて、とりあえず記憶しました。まあテストで書ければ良いので。

そんな高校時代でしたけど、今ならこういうことを考えるのも楽しいかもしれないですね。

そうそう、これまた古代ギリシアのデモクリトスという人が
「物質は原子で出来ている」
と言ったというのを知って、
「古代ギリシアで、もうそんな現代的なことを言っている人がいたのか!」
と驚いたのも、よく覚えています。

現代なら、どんな答えが用意されているのでしょうか。

物質の最小単位は「原子」と、理科で習って、元素記号などを暗記しましたね。
だけど最先端の科学では、その原子を構成しているさらにミクロの世界があることが解き明かされているようです。
今は「クオーク」と呼ばれるものが最小単位として発見されているみたいですね。

きっと、「物質の最小単位」の解明はキリがなく進められていきそうですね。
やがて、もっとミクロの世界がまた見えてくるのだろうなと思います。

で、そういうミクロの世界の解明は科学の分野におまかせするとして、仏教哲学ではこのテーマについてどのように言われているのでしょうか。

万物は、「因縁生」である。

これが仏教の答えなのですね。

覆されない「因縁生」の道理

この答えのすごいところは、「覆される気配がない」ということです。
2600年前のインドにこういうことが説かれて現代まで、万物の理について様々な学問の探求が進み、色々なことが解明されてきました。
色んな学説が批判されたり覆されたりする中にあっても、この「因縁生」ということだけは覆されません。

あらゆる結果は、「因」と「縁」が合わさって現れるものである。

というのが「因縁生」ということです。

今、私の目の前にある私の腕時計はおそらくどこかの工場で大量生産しているものだと思います。
オーダーメイドの商品ではないので…

全国にこの時計はいくつぐらい生産されて流通しているのか分かりませんが、何千、何万個とあるのかもしれません。
この時計と全く同じ製品が。

「同じ製品」が何千個も何万個も存在しているというのも、考えてみるとすごいですよね。
自然界ではどんなものが作られるにしても「個体差」というものがどうしても出来ますが、「個体差」を限りなくゼロに近づけた同じ品質の「製品」が大規模な数で流通している。
自然界では異常とも思われることが今の世の中で起こっているのです。

どうしてこういうことが起きているのかというと、「因縁生」の道理に則って、同じ「因」と同じ「縁」を合わせて造られているからです。

大量生産される「製品」を「結果」だとすると、
その「因」は「原料」に当たります。
鉄やプラスチックやゴムなどの原料です。
同じ製品なら、同じ原料を「因」として造られていますね。

ただ、原料が同じでも、それだけでは同じ製品にはなりません。
そこに、もれなく同じ「縁」を加えて、同じ製品が大量生産されることとなります。

この場合の「縁」は何でしょうか。

その製品の工場における「加工ライン」になるでしょう。
工場のベルトコンベアーで運ばれて、段階的な工程ごとに一つ一つ組み立てられて、製品は造られています。
その加工ラインの原料への作用を全く同じにして、同じ製品が造られるというわけです。

同じ原料(因)に、同じ加工ラインの作用(縁)を加えて、同じ品質の「製品」(結果)が大量生産されてゆく。

あらゆるものは因縁生であるという法則を応用することで、このように「同じ製品を大量生産する」ということが可能になるというわけです。

ここで重要なことは、
「因」だけあっても結果は現れない。
「縁」だけあっても結果は現れない。
「因」と「縁」の両方が揃って初めて、結果が現れるということです。

今の例なら、
どれだけ立派な原料(因)があっても加工(縁)しなければ製品にはならないし
どれだけ立派な加工設備(縁)があっても、原料(因)がなければやっぱり製品はできない。
因と縁とがそろってはじめて結果になる、ということです。

畑で野菜や果物ができるという結果についても同じ事です。
種(因)がなければ絶対にその結果は生まれない。
だけど、種(因)があっても、その種が実を結ぶには土壌や水や日光や温度などの縁がそろってはじめて果実が生まれる。
「因」だけあっても、「縁」だけあっても、結果にはならない。
「因」と「縁」が揃って初めて結果は生まれる。

これが、「因縁生」ということです。

この因縁生の法則は、
製品が造られるという場面でも
自然界で様々な植物や動物が生み出されるという場面でも
あらゆる場面にあてはまる法則です。

そして、その因縁生の解明をしているのが様々な分野の学問ということができるでしょう。

あなたの身に起きる結果が、因縁生

その「因縁生」の法則が、私の身に起きる様々な結果に当てはまると説くのが、仏教です。
仏教が「因縁生」と説くのは、日々受ける様々な結果を私たちはどう受け止めたら良いのか教えることが目的なのです。

このことが私たちにとっては最も大切なことだからです。

夫婦喧嘩になってしまった
会社で上司に叱られた
家計が厳しくなってきてしまった

などの辛い出来事も

素敵な人から好意を持たれた
努力が評価されて表彰された
年収が大幅に上がった

などの嬉しい出来事も

自分の身に起きるあらゆる出来事を、あなたはどのように受け止めているでしょうか?

物理現象や自然界の現象を観測するように、自分の身に起きる結果に対しても冷静に「因」と「縁」が揃って起きているのだなと、観測することができるでしょうか。

これが、難しいのですね。
嬉しい出来事でも辛い出来事でも、自分の身に起きる結果をみるときには、どうしてもそこに感情が入ってしまい、色んな現象を客観的に観測するように「因縁生」と観ることが、実はとても難しいのです。

例えば会社の仕事で、周りの人があまりやる気が無くて自分ばかりがオーバーワークになっているという状況があるとします。
他の人は、早々に切り上げて、自分のために時間を使っているように見える。
そんな中で自分だけががんばって、何とか仕事を回せている。そして、いい結果も出せた。

こういう状況では、「自分がこんなに苦労してこんなに努力した」という方にばかり目がいくのが普通だと思います。
それは「因縁生」でいうと、「因」に当たります。
自分の身に起きる結果を引き起こす「因」は「自分の行い」だと仏教では説かれるのです。

その自分の苦労(因)があまりに大きく感じるものだから、なかなか「因」にしか目が行かない。
あれだけ残業、居残りして自分は頑張った。
あれだけ考えて、計画して案を出した。
あれだけ理不尽なことにも耐えて取り組み続けた。
そういう自分の行動「因」にしか目が行かないのが普通だと思います。
そしてもちろん、そういう「因」があってこその結果であることは間違いありません。

だけど、そんな「因」がどれだけあっても、そこに「縁」が加わらなければ絶対に結果は現れないというのが、因縁生起の道理です。

どんなに、「自分ばかりが苦労した」と思えることにも、それは「種」ではあるけれど、その「種」が「実り」となるには必ずそうさせる環境(縁)が必要なのです。

因だけあっても結果は現れない。
縁だけあっても結果は現れない。
因と縁が揃って初めて結果が現れる。

この道理に則って、因も縁も両方をバランスよく観ることができることで、私たちはその現実に対してより的確な判断をすることが出来るのです。
そのバランスを欠いてしまうと、感情的になってしまったり、モヤモヤした感情が渦巻いて、的確な判断や決断が難しくなります。

結果に対して自分の苦労(因)ばかりが思い起こされるような状況でも、それでもかならずその苦労が実りにつながる「縁」となってくれた様々な存在があることは否定できないのです。
その「縁」を、いかなる状況でも見つけだすことができるというのが、「因縁生」をごまかさずに観るということなのです。

先ほどのような例であれば、
「周りの仲間たちがやる気がなくて自分だけが苦労させられた」
といっても、そもそも「会社」というものが存在しなければ、自分がやった作業や思考などが「仕事」として成立することがありません。
自分がやった努力が「仕事」として成立し、「利益」を生み出す仕組みそのものが「会社」として存在しているから、「成果」という結果がもたらされるということがあるのです。
そういう「縁」が存在してこその結果ということは、否定できないでしょう。

また、成果を出せるほどに仕事ができるように自分がなっているのは、初めからそうだったわけではないはずです。
初めは仕事の仕方も何も分からなかった。
それを、先輩たちが教えてくれたり手本を見せてくれたりして、今のように仕事ができるようになっている。
それもまた、今の結果に至る縁となっていることは間違いありません。

仕事が大変な自分を励ましたり慰めたり支えたりしてくれる、家族や友達や娯楽や音楽なども自分のコンディションを支えてくれる縁となっていたこともあるでしょう。

自分の並々ならぬ努力や苦労という「因」があったことも間違いないけれど、それを結果へと至らしめる「縁」もそれと同じくらい大きな要素としてあった。

この「因」と「縁」の両方をバランスよく観ることが、状況を的確にとらえて次の行動への的確な判断をする土台になるのです。

いかなる場合でも自分の結果に対して「因」と「縁」をバランスよく観る「智慧」を持つことが、いかなる場合でも最善の決断のできる人の重要な要素なのですね。

「因」と「縁」をバランスよく観るということについて、次回、もっと掘り下げてお話ししたいと思います。

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