楽しかった一時から一転して…
つい最近、「血の気が引く」ような経験をしました。
今年ももう終盤にさしかかりますが、「焦った出来事」として今年一番ぐらいの…
で、それが思い返してみると、とても教訓的なことでもありましたので、ここでシェアしたいと思います。
ちょうど一ヶ月くらい前のことなんですけど、夜に友達と「肉」を食べに行きました。
四条河原町あたりの肉専門のお店で、とにかく「肉」をいっぱい食べました。
その友達とは、もう半年以上前ぐらいから、
「肉を食べに行きたいな」
て話をしておりまして、そんなことをちょいちょい言っていながらなかなか実現できてなくて。
それを半年越しぐらいに実現する形で、食べに行ったのです。
そこではとても楽しい時間を過ごしました。
肉をたらふく食べて、ワインを飲んで、ひたすらしゃべっていました。
店で友達と楽しく話してると、2、3時間なんてあっという間に過ぎてしまうもので、気づけば夜の10時近くになっていたので、そろそろ店を出て、帰ることにしました。
機嫌良く友達とも別れて、自分のアパートについたのがだいたい10時半過ぎぐらいでした。
カバンから鍵を出し、鍵を空けてドアノブを捻り、ドアを押した瞬間、
…ガツン
と何かにぶつかるような音がして、ドアが開かないのです。
以前にも、コードがドアの下の隙間に挟まって開きにくかったことがあったので、それかなと思って力を入れるのだけど、やっぱり
ガツン!
と、何かにぶつかるような感触で、1cmに満たない程にしかドアが開かない。
「え、なんで…?」
中で何が起こっているのか、全然意味が分からなかったのです。
それで、がんばってその1cmもない隙間から、中を覗いてみたのです。
するとかすかに「ある」ものが目に入ったとき
「あっ……!」
思わず絶望の声を上げてしまいました。
原因が分かったからです。
洗濯物らしきものが床に落ちているのがかすかに目に入ったのでした。
つまりこういうことです。
僕は普段から洗濯物はだいたい部屋干しをしておりまして、そのために「つっぱり棒」を部屋の中に設置しているのでした。
ちょうどその設置している位置がドアのすぐ横だったのです。
ところが家を出た後に、そのつっぱり棒が外れて、洗濯物と共に床に落ちてしまった。
それがちょうど、ドアと向かいの壁の間に落ちてしまっていたのでした。
ご丁寧に洗濯物によっていい具合に固定される形で、壁とドアの間を「つっかえ棒」の役割を果てして存在する形になってしまっていたのでした。
アパートのドアはつっぱり棒によって完全にふさがれている状態になっていたのでした。
その状況を理解したとき
「あ、詰んだ…」
状態でした。
時計はもう夜の11時近くを指していました。
そんな深夜に、自分の部屋のドアの前で、ただ立ち尽くすしかなかったのでした。
…で、この時の気持ちですよ。
想像してみて下さい。
ついさっきまで、肉を食べて、ワインなんか飲みながら楽しく過ごしていたのですよ。
そして機嫌良く帰って、さあゆっくり休もうってな状態だったのですよ。
それが、ドアノブを捻って
「ガツン」
となった途端、不安と絶望の気持ちに一転するのです。
楽しみの余韻も何もあったものじゃない。
サーッっと血の気が引くのです。
ワインのほろ酔い具合なんて、一気に冷めてしまうのです。
半年越しの計画で友達とせっかくの楽しい時間を過ごしていたというのに、それが、この「ガツン」の瞬間に一気に台無しになってしまい、ただただ「どうしよう…」という不安と絶望の思いにかられてしまうのですね。
「無常」はこういう形で訪れる
こういうのを仏教では「無常」といいます。
「常」が「無」い。
「変わらない(常)」ものは、「無」い。
予期しない、歓迎もしない「変化」が日常に突如訪れる、ということです。
つっぱり棒が一本落ちただけで、こんなに脆くも、幸せは崩れてしまう。
いったい、いつ落ちたのかは分からないですけど。
きっと「肉」を食べて楽しんでいる頃にはすでに落ちていたと思うのですよ。
そしてこういう危機的な状況は出来上がっていたのだと思います。
「無常」はすでに、現実化していたのでした。
だけどそんなこととはユメにも思っていなくて、当然食事が終われば家に帰れると信じて疑わず、楽しく過ごしていたのです。
だけど、すでに帰る道は閉ざされていたというわけでした。
そのことに、「ガツン」という音を聞くまで、まったく気づかなかったのでした。
こんなこと、1ミリも予期していないのです。
その現実を突然つきつけられて、ただ呆然と立ち尽くしてしまう。
僕は思ったのですね。
「ああ、これが人生だな」って。
「肉を食べて楽しんでいる間につっぱり棒が落ちて、家に入れなくなる」のが、人生なのかもしれないなって。
「何を大げさな」という感じがしなくもないのですけど。
「無常」というのは、こういう形で訪れるのですね。
もしかしたら今この瞬間に、あなたの部屋のつっぱり棒が落ているかもしれない。
きっと今、世界中のどこかでは、つぱっり棒か何かが落ちて、同じような状況が1件や2件、起きているでしょう。
後で分かったのですけど、これと似たことはけっこう起こってるみたいなんですよ。
僕はこの事件が起きてから1週間は、会う人会う人に、この話をしたのです。
そうしたら2人ぐらい、「同じような話を他の人からも聞いた」と言ってました。
僕がその時に聞いてゾッとした話が、
トイレに入っている間に、ドアの向かいの壁に立てかけていたテーブルの天板がドアの方へ倒れて来て、さっきのつっぱり棒と同じ状況が出来、トイレのドアが全く開かなくなって出られくなった。
という話です。
もう、想像しただけでも吐きそうになります。
なんとなくトイレに入るわけだから、もちろん携帯電話も手元にはありません。
しかも、一人暮らし。
助けが来る見込みはない。
ドアはもう、どうにも開かない。
こんな状況と比べたら部屋に入れないなんて、まだいい方ですよね…
日常のちょっとした間違いで、こんな絶望的な状況が引き起こってしまうのですね。
「無常」というのはとても身近にあるものです。
それでいて、そのことに全く気づくことなく、「そんなことは自分に起こらない」と固く信じて、油断し切っている。
今すでに現実化していてさえも、そのことに気づくことができない。
その現実を突如つきつけられて、愕然とする。
同じ構造なのですね。
世の中で起こる悲劇と言われるものは。
「無常」を覚悟して生きる生き方
「無常」は、自分の予期しない所でこそ、確実に進行している。
これが今回の出来事を通しての教訓でした。
たとえどんなに安全対策をしても、その対策の及ばないところで「無常」は非情にも進行するものなのですね。
そういうものが「無常」だと仏教では教えられます。
自分の生活の安全・安定のためのベストを尽くすことはもちろん大切だと思います。
それと同時に、それでも「無常」のリスクにさらされていることを覚悟して生きることがとても大切だということです。
その心の準備は大丈夫か。
その覚悟はあるか。
そのことを自分に問いかけてみて下さい。
それは、ネガティブ思考でも心配性の考えでもありません。
否定できない現実をごまかさない生き方なのです。
その覚悟を持ってこそ、
「そんな無常の人生の中で、自分の本当になすべきことは何か」
自分に最も大切なことは何か、が見えてくることでしょう。
↓つっぱり棒の危機をどうやって乗り切ったかについてはこちらで