縁のなかったものたち
「アクセサリー」とは、縁のない生活をしてきました。
「おしゃれ」といったら、
これまでと違うジャケットを買ってみるとか、
ヘアスタイルをちょっと変えてみるとか、
カバンを新しくするとか、
色々と手段はありましたが、
「アクセサリーを身につける」という選択肢はありませんでした。
それは「自分とは縁のないもの」という考えがずっとあったからですね。
誰しもそんな、自分の人生の選択肢から「除外」しているものが、色々あることと思います。
「自分とは縁のないもの」
というものがありますよね。
だけどこの「縁がない」というのもまたあいまいな感覚ですよね。
もちろん中には「健康に悪いから」などという明確な理由で「縁がない」というものもあります。
私はタバコには縁がないのですが、実のところ密かに憧れはありました。
子供の頃なんかは、「タバコが似合う男」とか、ちょっと格好良く思いましたし、
今もそんな子供の頃の気持ちが残ってはいますが、
それでも、健康へ及ぼす影響を考えたら、「縁がない方がいいな」と判断して、
タバコに手を出す選択肢は自分にはないと思っています。
けれど、そんな明確な理由もなく「なんとなく」縁のないものも多くあります。
「アクセサリー」ていうのもその一つですね。
「そういうのは、性に合わない」
ただこの一言でした。
その「性」とはどんなもので、それにどう合わないのか、なんて深く考えることもなく、
あいまいな「なんとなく」の感覚で「縁のないもの」としていました。
着る服の色も、「赤」や「ピンク」や「紫」は長い間、選択肢にはありませんでした。
別にその色が嫌いというわけではなかったのですが、これもまた「なんとなく」避けていたのでした。
ですが何年か前に、店で店員さんに「こんなのはどうでしょう?」と、ピンク系のワイシャツを勧められたときに、
「まさか自分がこんな色を勧められるなんて…!」
というちょっとした驚きと共に興味が沸いてきてトライしてみることにしました。
それからというもの、すっかり気に入って、今では十分「あり」な選択肢となっています。
「致命的な錯覚」に気づくとき
最近、友人宅へお邪魔した時にその友人の弟さんと初めて会って、紹介してもらいました。
彼はこれから、ジュエリーショップを立ち上げようと企画しているのだそうです。
30代の半ばに差し掛かった彼が、どうして今、ジュエリーショップを始めようと思ったのか、
私もちょっと興味が沸きまして、彼のジュエリーに対する思いを色々と聞かせてもらったのですが、
「特に、男性の方が興味を持って身につけるようなジュエリーを作っていきたい」
ということを語るのですね。
女性なら、多くの方がジュエリーには興味をもって、好んで身につけているけれど、
男性でそういう方は、決して多くはない。
着けるとしたら結婚指輪ぐらい。
そんな現状だからこそ、あえて、「ジュエリーを身につける」という選択肢を世の男性にお勧めしたい、と。
昔の自分だったら、いくら信念や情熱を聞かされても、
「まあ、自分には縁のない分野だなあ…」
と思っていたでしょうけれど、
「『縁のないもの』ほど興味を持ってみるべき」という価値観が芽生えてきていたので、
自分が「縁のないもの」と思っていたものにこれだけ情熱を持っている人に、逆に興味が沸いたのでした。
これまでになかった「縁」が訪れる瞬間というのは、人生ではとても貴重な瞬間だと言えます。
私達は、心のどこかで「変わりたい」という願望を持っていながらも、
基本的には「変化」を拒む思いが強いものなのですね。
「現状に執着してしまう」
という性質を本能的に持っているからです。
なんだかんだで、「現状」で無事に生活を続けられているなら、
気に入らないこと、物足りないこと、そんな不満要素が色々あっても、ついついそこに執着してしまうのが私達です。
まして、「着実に少しずつ成長している気がする」という状況ならなおさら
「このペースで成長し続けていられる」という現状にやっぱり執着してしまいます。
もちろんこれは、決して悪いわけではありません。
むしろ、生きるために必要な性質と言えるでしょう。
ただこの執着は、ある致命的な「錯覚」を起こしてしまいます。
それは、
「その執着の対象が『全て』であるかのように思ってしまう」
という錯覚です。
「自分には、これしかないんだから…」
こんな心の声が、私達にはよく出てきます。
「この会社で、この役職に就いて働いている自分」
「このコミュニティで、こういう役割を持って活動している自分」
「このスキルで、こういう活躍をしている自分」
「この分野の知識で、こんな貢献をしている自分」
その「現状の自分」への執着が、「自分にはこれしかない」という思い込みを強く抱かせてしまいます。
もちろん、そこにこだわりと誇りをもって、そんな自分を守り、洗練させてゆく事も大切なことです。
だけどこの世は無常の世の中。
良くも悪くも、自分も周囲も変化していかざるを得ないものです。
世の中の興味関心も、ニーズも、習慣も、何もかもが目まぐるしく変化して、
「もうそれは時代遅れ」
の烙印が色々なものに押されてしまう世の中です。
そんな無常の世にあって、変化を拒み続ける性質が自分を守るどころか「命取り」にさえなりかねないのですね。
「今の自分」に対する執着が、
「これが全て」「自分にはこれしかない」
という「思い込み」に陥らせて、周囲の目まぐるしい変化を見えなくさせてしまっているのは、
本当は危機的な状況で、それを「安全」と思うほどに危ないことはないのかもしれません。
「こういうのは自分には縁がない」
の思いは、「現状の自分」への執着の現れとも言えるでしょう。
「一部」へのこだわりと「全て」への視野
「これが全てだ」、と思っているものは、「全て」ではない。「一部」だ。
自分にも周囲にも、私の人生の新たな結果の「因」となり「縁」となるものがどれほどあるか知れない。
こういう、
「因」に対しても「縁」に対しても広く視野を持てること、
そして、その広い視野のもとで、「現状へのこだわり」と「新たな挑戦」とのバランスを取ること、
これが極めて大切なのですね。
仏教では「因」とは自らの「行い」を表し、「縁」とは他人や物などの「環境」を表します。
一人一人の人生は、この「因縁」によって実を結んでゆくと仏教では教えられ、これを「因縁生起」と言います。
大事なのは、因縁が揃ってはじめて、結果になるという事です。
「因」だけでも結果にはならないし、
「縁」だけでも結果にはなりません。
「因」も「縁」も両方が揃ったときに初めて、私の人生に「結果」が現れるというのが「因縁生起」です。
「因」は、植物で言う「種」のようなものです。
「種」は、実りを得るためには絶対不可欠のものです。
他の何が揃っていても「種」一つ無ければ、実りは絶対にできません。
そういうものを「因」と言います。
だけど、そんな「種」があっても無条件に実りにはなりません。
そこに色々な「条件」が加わってゆくことで、「種」が「実り」へとなってゆきます。
それが土や水や温度や空気などの「環境」であり、それらを「縁」言います。
私達の人生の実りを得るための「種」は、自分の「行い」です。
これまでの人生で、私もあなたも、数限りない「行い」を積み重ねてきました。
記憶に残っている「行い」もありますが、これまでの人生全ての「行い」となれば、覚えていないものが殆どでしょう。
それらは全て、人生の様々な結果を引き起こす「種」となっているのですね。
そんな、今までも、今も、これからも、蒔き続けている「種」に、
人との出会いや、物との出会いなどの「縁」が加わって、私の人生の「結果」が次々展開されてゆきます。
そうすると、
私にとって大切なことはたった2つです。
これからどんな行い(因)をしてゆくか。
これからどんな出会い(縁)を選んでゆくか。
この「因」と「縁」に対して、どれだけ広い視野を持つことができるかが、そのまま人生の可能性に直結すると言えます。
今の自分が意識している「因」も「縁」も、これからの人生の実りの因縁の、ごく一部でしかありません。
自分が意識していない「因」を、どれほど持っているか知れないし、これからどれほど造ってゆくとも知れません。
自分が全く「関係ない」と思っている「縁」が、自分のどんな「因」と結びつき、どんな結果を実らせるとも知れません。
もちろん、「こだわり」や「信念」は大切なことです。
なんでもかんでも、因縁を揃えてゆけばよいというものでもありません。
「自分がどんな実りをこの人生で得たいのか」
そのためのマイナスになるような因や縁は、当然避けるべきでしょう。
ですが、現状への執着のあまり、因や縁に対して「これが全て」「これしかない」と盲目的になってしまっては、自分の首を絞めていることにもなりかねません。
だけど、私達の「執着」は、そうやって視野を自ら狭める方向に働きががちなのですね。
だからこそ、
「縁のないもの」と思っていた出会いは、とても貴重なチャンスです。
思わぬ「縁」が、自分の中の思わぬ「因」と結びついて、人生の可能性がグッと広がることがあるからです。
例のメンズジュエリーに情熱を抱く青年とは、すっかり意気投合して、
自分の確信している「価値」を、お互い熱く語り合うことができました。
こういう時間は、本当に有意義なもので、お互いに新たな「因縁」を持つことが出来るのですね。
その日、彼は私に一つの「アクセサリー」を目の前で作ってくれて、プレゼントしてくれました。
「アクセサリーなんて縁のないもの」
と思ってきた私にとっても抵抗のない、カジュアルで親しみやすいもので、とても気に入っています。
それが私に似合っているのかいないのかは、まだ分かりませんけど、
「こういうものが似合う人間になりたいな」
と思えたのは確かです。
「オシャレ」にとんと疎かった私にとっては、けっこうな「背伸び」かもしれませんけど、
これを「縁」に、これからまた新たな「因」を造ってゆき、よき因縁にしてゆく可能性を見たのでした。