「守りたいもの」が、人を強くする?弱くする?
あなたにとって「守りたいもの」って、あるでしょうか。
「そりゃ、もちろん家族です」
「今の会社でのポジションです」
「大切な恋人です」
「一緒に楽しめる友人たちです」
「汗水流して築いてきた財産です」
人によって色々ありそうですね。
そういう「守りたいもの」が出来た時って、人間は強くなるのでしょうか、それとも逆に弱くなるのでしょうか。
これ、けっこう難しいと思うんですね。
たとえば、
「自分には大切な恋人がいる」
それは、ずっと好きだった人で、長年努力して、アプローチして、ついにモノにした人。
そんな「大切な人」だから、
他人に奪われたくない、遠くに行って欲しくないし、自分に対して冷めないで欲しい。
そうならないように、なんとか守りたい…
こんな場合とか。
「自分には苦労して築いてきた財産がある」
それは、真面目に働いて、時にはリスクを冒しながらも、なんとかかんとか築き上げた財産。
それを失わないように、騙し取られたり、目減りしていかないようにしたい。
そうならないように、なんとか守りたい…
こういう場合、守りたいものが「不安の種」、「恐れの種」という面が強い感じがしますね。
もちろん、そんな不安や恐れがあるから、頑張るという面もあります。
ネガティブの感情って、それはそれでかなりのエネルギーはあるのですね。
「締切効果」とか「宣言しちゃった効果」とか、言われますが、
「締切までに仕上げないとマズい…」
という恐れや焦り
「みんなに『やる』といっちゃったからには、やれなきゃ恥ずかしい…」
という恐れ
あえてそういう状況を作って、自分を追い詰めて、頑張れる状況を作るというのは実際に効果があります。
ですから「不安」や「恐怖」も、努力するエネルギー源として活かすことはできます。
ただそれは、「活かせる」ぐらいの度合いの「不安」や「恐怖」の場合です。
「心から守りたいと思っているモノが本当に失われそう…」
となった時の不安は、それが大事であればあるほど、そしてそのリスクが高ければ高いほど、
「飲み込まれてしまう」レベルの不安となってしまいます。
そんな不安は、時に致命的な「惑い」を起こしてしまうのですね。
その「惑い」とは、
「『因果応報』の道理を無視してしまう」
という惑いです。
「因果応報」とは「『因』に応じた『結果』が報いる」、ということで、
「自分の望む結果は、それに応じた『行い』からしか生まれない」
という道理を教えた言葉です。
ですから、自分の望む未来を実現させるために最も大切なことは自分の「行い」の積み重ねなのですね。
私達は、基本的にはこれを理解して生きているはずです。
だから、大切な人や物を守れるように、日々精一杯努力するはずです。
ところが、「失ってしまう」事への不安や恐怖があまりに高まった時に、その「因果応報」の道理から逸脱させる「惑い」が起きます。
踏むべき「因果」をショートカットし、「結果」だけを得ようとして、自ら首を締めるような行動に走ってしまう事があるのですね。
「守りたい」が故に、
「自分の失敗を隠蔽してしまう」とか
「立場を危うくさせるライバル等の他人を妨害する」とか
「相手の思いを否定して自分のエゴを押し付けてしまう」とか
保身一杯からくる「不安」や「恐れ」は、そういう「惑い」を起こしてしまいます。
そして、皮肉にも、そんな行為がますます自分を追い詰めて、結局大切なものを失ってしまう事になります。
真に守りたいものは「未来の現実」
心から「守りたい」と思える大切な人や物があるのに、その存在を思うあまりに「惑い」を起こし、
かえって守りたいものを失ってしまうという皮肉な事が決して少なくありません。
「好きな人ほど、離れていく…」
「守りたいものほど、守れない…」
こういうことは、「ただの投げやりのセリフ」や「自暴自棄の言葉」だけでは片付けられません。
「大切なもの」への執着が引き起こす「惑い」が原因で、誰もが陥る落とし穴なのですね。
「大切な人」「大切なもの」
その存在が自分の中で大きくなりすぎて、まるで
「自分の人生の全て」「自分の人生の中心」
となってしまう。
一度起こした執着は、自分でも制御できないくらいに肥大化して、気がつけば価値のバランスが大きく崩れていることがあります。
「家族を守りたい」
「恋人を守りたい」
「財産を守りたい」
「立場を守りたい」
「あれ」を守りたい、「これ」を守りたい、「あの人」を…「この人」を…
こういう視点から、次のような視点に変えてみると、どうでしょうか。
「家族とともに幸せを感じられる未来」を維持したい
「恋人と一緒に笑って過ごせる未来」を守りたい
「財産をもって安心して暮らせる未来」を実現させたい
「この立場で自信いっぱい生きられる未来」を見失いたくない
「いや、同じじゃないか…?」
と思われるかもしれませんが、これは「視点」が大きく異なります。
あくまで目を向けているのは、「自分の人生の未来」という視点です。
本当のところ、私にとっての問題は「私の未来に引き起こる現実」に尽きるのですね。
こう聞くと、なんだか自己中心的な発想に聞こえるかもしれません。
もっと、他人の人生のことも考えるべきではないか、と。
だけど現実問題、「他人の人生」を私がコントロールすることなどそもそも出来ないのですね。
まして「他人の人生」を私が生きることもできません。
どんなに大切な人でも、家族でも、我が子でも、あくまで「他人」であって、
その「他人」の人生は、その「他人」にしか生きられないし、コントロールもできません。
私は、私の人生を生きるしかないのであり、私の未来しか変えようがない。
仏教ではこのことを「自業自得」といいます。
「自業」とは「自分の行い」のことです。
私が、どれだけ他人を心配しても、他人のための努力をしても、他人に尽くそうと努めても、
それが「私の行為」である限り、「他人の結果」を造ることはできません。
「私の行為」の結果は、あくまで「私自身」にしか現れようがない。
これが、「自業自得」ということです。
じゃあ「他人」の事なんて考えなくていいのかといえば、そうではありません。
「他人」はあくまで、私にとっての大切な「縁」です。
私の未来は、「因」と「縁」とが揃って生み出されるもので、これを「因縁生」と言われます。
「因」が、「自業自得」の「業(ごう)」であり、「行い」のことです。
「縁」が、自分以外の人や物などのことです。
その「因」と「縁」とが結びついて、私達が「守りたい」と願ってやまない「未来の現実」が現れるのですね。
「あれを守りたい」「これを守りたい」というのは、視点が「縁」ばかりに偏っていると言えます。
「この人を大事にしたい…」
その思いが募るあまりに、まるで「その人の人生」が全ての中心であるように思い、
自分が「その人の人生」をどうにかコントロールできるかのように思い、
「私がコントロールできるのは、私の人生だけ。」
「他人の人生は、他人にしか生きられないし、コントロールできない。」
この鉄則を見失ってしまいます。
対象が「人」であれ「物」であれ、あくまでそれらは私の人生における「縁」です。
大事なことは、それらの「縁」を前にして、私がどんな行い(因)をするべきか、という事です。
そして、その「因」と「縁」とで、どんな未来を生み出したいのか、という事です。
この視点を見失わない限り、大きな惑いに陥らずに済みます。
「自分の為」がそのまま「他人の為」
「私は、私の人生しか生きられない」
それは分かるのだけど、だけど自分はもっと、あの人のことを、この人のことを大事に考えたい…
そんな思いはそれでも、拭えないと思います。
その思いは、もちろん大切です。
「自分だけではなく、大切な人にも幸せになって欲しい」
という思いは人として自然なことです。
そうであれば、私が人のために出来ることは何でしょうか?
それは、その人にとって、よき「縁」となることです。
私にとっての他人が「縁」であるように、
他人にとっては、私が「縁」という事になるのですね。
私は私で、よき未来のために精一杯努力しながら生きているのですが、
そんな私が、他人の人生にとっては、「縁」になっているわけです。
先ほど、自分の未来の「結果」は、自分の行いという「因」が「縁」と結びついて生み出される、と述べました。
そして、大切な人という「縁」を前に、自分のベストな行い(因)を模索する事こそが大切だとお話しました。
この事がそのまま、その相手にとってのよき「縁」となるべく努力することでもあるのですね。
「自分がどんな存在になる事が、この人にとってベストな『縁』と言えるのだろうか…」
「その人が最も必要な『縁』となる存在に、自分がなる」
それは、「悩みをよく聞いてくれる人」かもしれないし、「いい手本を示してくれる人」かもしれないし、
「何か手伝ってあげられる存在」かもしれないし、「一緒に何かを頑張れる存在」かもしれません。
とにかく、「よき縁」となれるための「行動」に、私が努めること。
これが、大切な人のために出来る私の精一杯です。
あとは、その「縁」となっている私を、その人が生かすかどうか。
そんな私という「縁」を前に、その人がどんな行動(因)をするのか。
こればかりはもう、その人に委ねる他ありません。
そこを私がコントロールすることは、どうあっても叶いません。
もしかしたら、相手はそんな私を拒絶するかもしれない。
「ウザい」と言って離れていくかもしれない。
だけどそれはもう、その人の人生の「縁」の選択の問題なのですね。
私にとっては寂しい事かもしれません。
だけどただ一つ言えることは、
「その人のために出来る事」に、私はベストを尽くしたという事です。
そりゃあ、その「ベスト」に判断の誤りはあったかもしれません。
反省すべき事もきっとあるでしょう。
それでも、よき「縁」となるべく、精一杯相手のことを考えて、ベストな行動をしたのならば、
私の人生にとっては、大切な糧となるに違いありません。
他人の人生にとっては、私が「縁」であり、私の人生にとって、他人が「縁」である。
この視点をもって、大切な「縁」を前に、ベストな行動に、ベストな「因」を造ることに、精一杯努めることが何より大切です。
その「因」と「縁」とで生み出されてゆく「未来の結果」
これこそが、私達が真に「守りたいもの」と言えるのですね。