「万物は何で出来ているか」を問うことは、私にとって…?
「万物は何で出来ているのか」
高校時代の世界史の授業で、
古代ギリシア人たちがそんなテーマに取り組んでいて、
色々な「説」が当時唱えられて、
その事が2000年以上経った今にも名前と共に残っていることを知りました。
つまりは、目の前にあるテーブルやコップや本をはじめ、周囲に存在している建物、木、川…
そんな、この世に「存在している」モノは、一体何で出来ているのだろう?
そんな、モノの「存在」の仕組みを解明しようと、あれこれ考えて、論じて、説を打ち立てて、それを他人に説いていたというわけです。
そして、そのことについて
「誰が、こんなことを述べていた」
という事実が語り継がれ、文献にも残って、今の時代の私達の学習の対象となっているというわけですね。
高校生の当時は、浅い理解しかなかったこともあり、
「なんともヒマなことを昔の人たちは考えていたのだなあ…」
と思ったものでした。
そういうテーマにさして興味の沸きようもなかったのですね。
さらにその「諸説」というのがまた、
「万物は水で出来ている」
とか
「万物は火で出来ている」
とか、
さらには
「万物は数で出来ている」
という、「えーと、何を言っているんだろう…?」というような説も出てきて、
それぞれの哲学者や数学者たちの言わんとする深い意図を考える余地もなく、
ただその結論と人の名前を「暗記」することに終始していたものでした。
ただ一つ印象的だったのは、
そんな「水…?火…?数…?何を言っているのだろう?」という諸説の中にあって、
「万物は『原子』で出来ている」
と、現代の教育で教えられる「物質の最小単位」をすでに2000年以上前から唱えている人がいたことでした。
ただ、いずれにしても、そんなモノの「存在」の仕組みを知ることが自分にとって何か得をするようには思えなかったので、
やっぱりさほどの興味を持つこともなく、
このテーマの探求にもうちょっと足を踏み入れようとはその当初は思いませんでした。
ですが、今は違います。
この「万物は何で出来ているか」の解明は、マニアックなテーマをマニアックな興味を持った人たちが論じているというような「どーでもいい」話では決してなく、
私達一人一人が自分の未来を切り開いてゆくための、根本的な原動力に関わる問題であると気付かされたのでした。
「え、そーなの…?」と思われる人の方が多いかもしれませんが、
モノの「存在」の仕組みを解明するということは、自分の人生に起きる様々な「現実」をどう受け止めるのかという事に直結する問題なのですね。
「物質の最小単位」の追求の果てに
先程、「万物は原子で出来ている」という説が2000年前から唱えられていたことに触れましたが、
これはある意味、
「あらゆる物質を構成している『最小単位』なるものが存在するはずだ」
という考え方を言ったものなのですね。
それ以来人間は何千年も、その「最小単位」を探求し続けて、物事の存在の仕組みを明かそうとしてきました。
私が中学生の頃は、それを「原子」として学んだわけですね。
「水素原子」、「酸素原子」、「炭素原子」…などなど、色々な種類の原子が理科の教科書にズラーッと表になって書いてありましたね。
「これらが、身の回りの物質を構成する最小単位なのか」
と理解していました。
ところが、現代ではその原子さえももはや「最小単位」とは呼べなくなっているようです。
その「原子」を構成する、さらに細かい粒子が存在していることが分かっているようです。
その、さらに細かい粒子を調べると、さらにそれらを構成する粒子が…
そんな感じで、「本当の最小単位」の追求はさらに続けられています。
これがいわゆる「素粒子(物質の最小単位)の研究」と呼ばれるものですね。
そうして「本当の最小単位」と呼べるような「素粒子」を現代科学は探求し続けた末に、
今の最先端で突き詰めた「素粒子」は、もはや「粒子」という実在すらも怪しい、得体の知れない代物だと言われているそうです。
私は科学の専門家ではありませんし、このブログは先端科学のブログでもありませんので、
素人見解のざっくりした話しかできませんが…
現代突き止められている「素粒子」は、
人間が「観測」している時にのみ、その「粒子」としての存在が定まっているけれど、
人間が「観測」していない間は、まるで「波動」のような、存在が定まらない状態になっている、
という事なのだそうです。
「観測しないと、『存在』が定まらない…?」
これは、衝撃的な事実なのですね。
人間が見ようが見まいが、確固として「存在」しているハズだと思われてきた「素粒子」が、
実は「粒子」としての存在すら定まっていない、おぼろげなものだったわけです。
これは、確固とした「最小単位」というモノの存在の仕組みを探求し続けた結果、それを見失ってしまったような形と言えるでしょう。
「ある」と信じていたものが、その探求をすればするほど見失ってしまう。
この皮肉な結末は、意外にいろんな所で起きていることなのかもしれません。
仏教では、いわゆる「最小単位」と呼ばれる、固定した変わらないモノは、初めから存在しないということを
「諸法無我(しょほうむが)」という言葉で教えられています。
ここで言う「我」というのが、「固定した変わらないもの」ということです。
いわば「素粒子」の探求は、そんな「我」を探し求めてきたという事でもあるのですね。
だけど、
「あらゆるもの(諸法)に、『我』は無い」
という教えは、そんな固定した「最小単位」の存在を否定してしまいます。
「固定した変わらないモノが存在する」という信じてやまなかった事を、根本から否定してしまっているのですね。
これは、「素粒子」の探求の末に至っている現代科学の結論にとても通じるものがあります。
そしてこの結論は、
「私達の周囲に物質が存在し、世界が存在する」
という当たり前の事実そのものを、根本から揺るがしてしまう事になります。
「確固たる最小単位が存在し、それらで構成された世界が『存在』している。」
「私達が『観測』する以前に、客観的に世界は『存在』している。」
そう信じていた「世界の存在」が、なんともおぼろげな存在となってしまうのですね。
「ある」と思っていた世界は錯覚で…
仏教の世界観は「無我」の教えが示す通り、
「客観的に存在している、絶対的な『世界』などは初めから無い」
という事になります。
じゃあ、私達がいま生きている「世界」は何なのか?という問いに対しては、
「一人一人が自ら生み出している『世界』に、一人一人が生きているのだ」と説きます。
絶対普遍的な「世界」などは無くて、一人一人が違った「世界」にそれぞれが生きているというわけです。
仏教ではそんな世界のことを「業界(ごうかい)」と呼びます。
「業(ごう)」は、仏教で私達の「行い」のことを言いますので、「業界」とは、「私達一人一人の『行い』が生み出した世界」ということです。
「業(ごう)」という言葉には、人によっていろんなイメージがあるようですが、
いろんな人から聞いていると、
「何か重々しいイメージ」「自らを縛るモノのイメージ」
という事をよく聞きます。
「業を背負って生きている」なんて言葉もあるぐらいなので、逃れがたい重荷のようなイメージがあるのかもしれません。
これは確かに「業」の特徴をよくとらえたイメージではあります。
私達が一度、何かの「行い」をしてしまったなら、その行いは「業」として、消えてなくなることなく、ずっと自分の中に残ってしまうと仏教では教えられます。
ということは、私達は一度してしまった「行い」からは、決して逃れることは出来ないという事なのですね。
「行い」は、「業」として自分の中に残り続ける。
目に見えない「業力(ごうりき)」という力となって、自分の心のずっと深いところに残り続けて、決して消えない。
そしてやがてそれは、目に見える自分の「現実」を生み出す「種」となるのですね。
この、「業力」が生み出す様々な自分の「現実」こそが、自分の「業界」だということです。
自分が生きているこの世界は、自分のやった行い(業)が生み出している現実であるということです。
こういう話を聞くと、
「いやあ、そんな目に見えない『業力』とかいう『力』なんて持ち出されても信じられないな…」
「まして、そんな力によって生み出されているのがこの『世界』だなんて言われても…」
と思う人もいるかもしれません。
それよりも、
「『世界』は、確固たる最小単位である『素粒子』に構成されて紛れもなく『存在』する。」
こちらの方がずっと現実的で科学的であるかのように思うでしょう。
これは、人類が長く信じ続けてきた、「万物の存在の仕組み」だったからです。
ですが、皮肉にもそれを裏付けようと発展してきた科学は、その考え方そのものを根本的に覆す結果となってしまっているのですね。
目に見える「客観的存在」そのものが揺らいでいるこの現代において、
自分自身が積み重ねている「行い」の力が、自分だけの世界を生み出している、という「業界」の存在は、より説得力を増してきたと言えるでしょう。
おぼろげな「最小単位」によって構成された世界の存在を信じるのか、
自分の行いが「業力」となって、その「業力」によって生み出されている「業界」の存在を信じるのか、
それは、「自分に現れる現実をどう受け止めるのか」という人生の土台に関わる問題ですから、一人一人が問われている、決して放置できない問題と言えるでしょう。