「輪廻」という人間共通の姿を観ると大切なものが見えてくる

「輪廻」とは人間の生き様そのもの

「輪廻(りんね)」という言葉は、よく知られていると思います。
「どんな意味だと思いますか?」
と聞いてみれば、
「輪廻転生(りんねてんせい)」のことで、「死んだ後に別の何かに生まれ変わる」こと、
という答えがやはり多いですね。

もちろんそれも間違いではないのですが、「輪廻」という言葉の本質は、それだけではありません。
字の意味からすれば、「輪っか」が「廻る(まわる)」ということで、「終わることのない繰り返し」というのが「輪廻」です。

私達にとって、この「終わることのない繰り返し」は決して歓迎できるものではありません。
それどころか、私達が日々「解放されたい」と思い願っている事が、「終わることなく繰り返される」というのが私達にとっての「輪廻」です。

「いい加減、解放されたい…」
そう思う事が、一つや二つ、三つや四つ、五つや…もう片手では数えられないくらい…
なんて人も少なくないでしょうけれど、誰もが何かしらありますよね。

病気や怪我が長引いて生活に不自由をきたしている人なら、
「早く解放されて、健康な生活を取り戻したい」
ですし、
多額の借金を背負って、何年も返済に苦労している人なら、
「早くこの借金苦から解放されたい…」
ですし、
嫌いな人と付き合わなきゃいけないと悩みから、解放されたい…
会社やサークルで嫌な役割を背負ってしまい、そろそろ解放されたい…
隣の家からの騒音から解放されたい…
独り身の寂しさからそろそろ解放されたい…

悩ましさ、煩わしさ、寂しさ、不安、不満、苦痛…
それらから逃れようと願って生きていながらも、逃れても逃れても、新たな新たな苦悩に見舞われてしまう。
常にまとわりついて離れない苦悩が、決して終わることなく続いてしまう有様が、私達にとっての「輪廻」です。
つまり仏教では、私達は今まさに「輪廻」していると説くのですね。
今の私達の生きる姿を「輪廻」と言われます。

希望を抱きつつも「輪廻」してしまう人間

いつか悩みから解放されて、心から安心できて満たされた境地に至ることができる。
いつの日か、そうなれる日が来る。
こんなゴールが生きてゆく先のどこかにあると、あなたは信じて生きているでしょうか?

「いや、死ぬまで『満たされた』なんてことも『安心できた』なんてことにも、なれないのが人生でしょう」
と言う人もいるかもしれません。
それは、自らの経験からそう言えるのかもしれませんし、
多くの人の実例を見て、「そんな『幸せに満ちた人』なんて本当はどこにもいない」と感じてのことかもしれません。
「これまでの経験」と「他人の実例」を通して導き出される答としては、これは誠に妥当なものと言えるでしょう。

だけど、多くの知識と経験を経てそういう結論に至ってもなお、
「いつか、幸せになれる」
という希望を心から捨て去ることは、人間には出来ないはずです。
本当にそんな希望抜きで生きられる人は、ちょっと考えられません。
誰もがそれぞれに「解放されたい」重荷を背負って、精一杯歩むように生きているわけです。
そんな「重荷を背負って歩み続ける」ような苦労の先に何の希望もないなんて、こんなバカバカしい話はありません。
「報われない」と分かっている苦労を、わざわざする事は考えられません。

そんな人間の心からの願望に対して突きつけられる「輪廻」の現実は、あまりにも残酷です。
「一点の周りを、いつまでもいつまでもグルグルと廻り続ける」
そんな実態が人生そのものにはあって、
私達が「解放される地点」として目指していたゴールは、その円周の一点で、通過点であり、
その先はまた「次の周」での苦悩が始まるのみ、というのが「輪廻」です。

信じていた「ゴール」は、「ゴール」ではなかった。ただの「通過点」だった。
このことを私達は何度も何度も経験して、この「輪廻」の実態に気がつくのですね。
借金苦から解放されても、病苦から解放されても、嫌いな人との縁が切れても、嫌な役割からお役御免となっても、
「重荷」は色を変えて形を変えて、気がつけば背中に常に乗っかっていて、
結局いつも「何か」からの解放を願って精一杯生きている。
そんなことの絶えない「道」は、さながら「円周」を廻り続けるような果てのない「道」なのですね。

「輪廻」をごまかさずに観た時、私達は…

本当は、自分も他人も「輪廻」している。
自分は何周目で、他人は何周目かは分からないけれど、
そんな現実がどうにも動かせない。

そうと分かっていても私達は、その輪っかを走らずにいられません。
この輪廻を精一杯、辿らずにいられないのですね。

だからこそ、私達が心を向けるべきものは、
「輪廻」の一コマとしかなり得ない「結果」よりも、
そんな「輪廻」の真っ只中で自分はどんな「種」を蒔いているのか、ということです。

「輪廻」の現実へ目を向ければ向けるほど、
必死に追い求めている「ゴール」らしきものは、次の周の「スタート」に他ならないのであり、
今の「周」と次の「周」に、本質的には何らの違いもないことが知らされます。

これは、ついついこだわりすぎる「結果」に対して、かなり冷静に見ることのできる視点なのですね。
私達はとかく「結果」にこだわり過ぎてしまいます。
とにかく出世をしたい、
いい人と結婚をしたい、
もっと収入を上げたい、
そういう「ゴール」を心に描きます。
そして、一度そういうゴールを描いてしまうと、私達の欲は、凄まじい執念でその「結果」を求めてやみません。
「心に描いたゴール」というのは、とにかくキラキラしたもので、
想像すればするだけ、その思いは募りに募って、その「価値」はどんどん上がってゆきます。

恋愛なんかは分かりやすいですよね。
ちょっとしたきっかけで、
「なんか、いいな…」
みたいな心が一度起きて、その相手とのいろんな「想像」をしているうちに、
その相手の「価値」が、どんどんうなぎ登りにあがってゆきます。
相手の「気持ち」や「機嫌」が、この世で最も大切な宝物のようにさえ思えてしまいます。
それも、理屈抜きに。
そしてその相手をモノにする為なら、どんな犠牲を払っても構わないようにさえなってしまう。

冷静に考えれば、本当にその恋愛成就が自分の人生の全てを犠牲にする程の価値なのだろうか…?
もちろん「幸せ」には違いないでしょうが、あくまで「通過点」に過ぎません。
その通過点を通り過ぎてその「先」が続いてゆくのであり、
その「先」にあるのは、また新たに何かを心に描き、求めずにいられない「スタート」です。

私達はとかくこの「通過点」に、あまりに価値を起きすぎてしまい、そこにたどり着くという「結果」を焦ってしまいます。

「それは、『輪廻』の中の『通過点』に過ぎない」

心のどこかにこういう視点は持っておくべきなのですね。
「欲」が掻き立てる「結果」を渇望して、それを得ることばかりに焦ってしまうという「惑い」に陥りがちな私たちにとって、その視点は大切な歯止めとなります。
本当に大切なことは、その「通過点」までの歩みの中で自分はどんな「種」を蒔いてきたかということであり、
その過程における「行動」の積み重ねです。
惑いを晴らして、本当に大切な事を見失わないためにも「輪廻」の現実をごまかさずにみることはとても大切なことなのですね。