「常識」に従おうか?破ってみようか?
モラルや常識に従って生きるのがいいのか、
あえて常識から外れた生き方を選んだほうがいいのか、
どちらが、後悔なく生きられるのか
どちらが、他人から見て魅力的なのだろうか…
「価値観が多様化している時代」とは言われますが、
それでも「常識」や「モラル」は、形を変えながらなおも、この社会で重要な要素には変わりありません。
さすがに、戦前の日本のような「全体主義」的な統一した強烈な価値観はないかもしれません。
それでも、
年代ごとに、
性別ごとに、
コミュニティごとに、
多様化しつつも、なんとなく「みんなが従っている価値観」というものは存在します。
あいさつの仕方は…
自己紹介で話内容の手順は…
飲み会の時に出すべき話題は…
着ていくべき服は…
他人を褒めるべきポイントは…
色んな分野において、「普通はこうするでしょ」という暗黙のルールが確かにあります。
とりあえずそのルールに従っている事で安心は得られます。
少なくともそれで「大きな失敗」はないだろうという安心があります。
だけど同時に、「そればかりじゃつまらないなあ」という思いもあるのですね。
なにしろ、「みんながなんとなく従っているルール」ですから、それに従った行動はたいてい、周囲に「予測」されてしまいます。
「この場面だと、これを言うだろうな」
と、たいてい予測できる事をそのまま言っている。
「この場面だと、こういう行動をするだろうな」
と、みんなが予測できる行動をそのまましている。
予想できてしまう行動の繰り返しは、安心といえば安心ですが、「退屈」でもあります
だからこそ、
「常識破りの行動」
に価値を見出すのも自然なことです。
「ちょっと、みんなと違う事を言ってみようかな」
「みんなと違うようなパターンの行動をしてみようかな」
ただ…これはけっこう難しい場合も多いですよね。
「常識破り」を目指すと、かえって不自然になってしまう事も少なくありません。
下手をすると、
「この人、何か変わったことを言おうとしているんだろうな…だけど、痛い」
「この人、珍しい行動を取ろうとしているんだろうな…だけどこれ微妙。。」
そういう「残念な」印象を与えてしまうリスクもある行動なのですね、この「あえて常識を破る」というのは。
「常識」の背景にあるもの
仏教で「煩悩林」という言葉があります。
これは人間世界のことをそう表している言葉なのですが、
人間が生きるこの世界はまるで「煩悩の林」であると。
「煩悩」とは、人間が共通して持っている「煩い」「悩ませる」心の事です。
欲望、怒り、恨み、妬み…
こういう誰もが持つ感情的な「心」が、全部で108つあると言われ「108の煩悩」と呼ばれます。
いわば「人間社会」は、これらの心のぶつかり合いだという事ですね。
経済が動くのも、流行が起きるのも、国同士の交渉や摩擦、果ては犯罪や戦争…
いずれも人間の「煩悩」同士が作用し合ったり、時にはぶつかり合ったりして展開されてゆきます。
人間社会のあらゆる現象はそれらの「煩悩」で説明がついてしまうかもしれません。
なので人間の世界はさながら「煩悩の林」であるというのは、とても本質をついた表現です。
108の煩悩を持つ人間が
10人集まれば1080
100人集まれば10800
1000人集まれば108000
70億人集まれば…
この地球上はすさまじい規模で煩悩が渦巻いている世界なのですね。
そんな人間同士が極力ぶつからないように、摩擦を起こさないように機能しているのが
「社会のルール」というものですね。
いわゆる「常識」も、人同士が極力摩擦を起こさずに安心して生きられるための手段と言えるでしょう。
「お金を稼ぎたい」という時も、
「好きな人と一緒になりたい」という時も、
「自分の能力をみんなに知って欲しい」という時も、
「ゆっくり休んでいたい」という時も、
それらの欲望が、周囲の人の欲望と極力ぶつからないように、平和的に叶えるために、
人は「常識に沿った行動」を心がけているわけです。
そういう意味ではこの「常識」も、私達の欲望を満たすための手段と言えます。
大事な事は、ただの「手段」であるという事を忘れない事です。
別に、社会の秩序を保つために生きているわけではないはずです。
その「秩序」の中で、「私は何を叶えたいのか」という事が最も大切な事のはずです。
どれだけ常識的に生きても、「他人との間に摩擦が生じる」事をゼロにすることは出来ません。
「これだけ真面目に生きているのに…」
「こんなにも周りに気を遣っているのに…」
「こんなに努力して勉強しているのに…」
それなのに、他人に嫌なことを言われたり、自分を嫌う人がいたり、
とっても理不尽を感じる事がありますね。
ある意味それほど、煩悩同士はぶつかりやすいという事でもあります。
あなたがどれほど真面目に生きていても、それが何故か目につくという人がいるし、逆にこちらがイラついて仕方ないこともあります。
こればかりは、努力と気遣いでカバーし切ることのできない人間の限界です。
「人間といるのは疲れる…」
「一人でいるのがどれほど楽か…」
「魚でも見ている方がよっぽど癒やされる…」
そんな声が漏れるのは、煩悩と煩悩がせめぎあう「煩悩林」にあっては当然と言えるでしょう。
そんな疲れずにいられない摩擦をゼロに出来ないならば、
「摩擦」をきっかけに、何を見出すかという事が大切になります。
「摩擦」や「衝突」が起きて、心がザワついてしまうのは、それだけ自分の中に強い欲望があるからこそです。
その、自分の持っている強い「欲」に気がつくことこそが、何より大切なことです。
それこそが、自分がこの人生に対して最も強く願っている事であり、
この「煩悩の林」を生き抜く上での力強いエネルギーの源になるのですから。
「己」と「道理」に向き合う生き方
問題は、常識的か常識的でないか、という事ではありません。
それはあくまで一つの手段の問題です。
大切な事は、
自分が心から願う事を果たそうとしているかという事であり、
またそのために、他人との摩擦を極力減らす努力をしているという事です。
常識云々は、そのための一つの手段の問題に過ぎません。
自分の心から願う信念に従ったならば、常識とは外れた行動をする事もあるでしょう。
だけど、たとえ常識から外れても、他人の欲望との摩擦への配慮という本質を心得ていれば、
とても自然で、とても刺激的で、とても魅力的な姿を示す事にもなるのですね。
「煩悩の林」の中で、煩悩に溢れたいち人間として生きている。
この本質を見失わなければ、
常識的であることや、常識から外れることに、必要以上に縛られる事はありません。
自分の願いに従って生きられるか、
他人の欲望との摩擦に配慮できるか、
この両者の絶妙なバランスが、生き方の本質と言えるでしょう。
その時に大切なことは、「因果応報の道理」から外れない事です。
欲望という煩悩の恐ろしさは、己の欲するモノのために、「因果応報の道理」を無視してしまうという「惑い」を起こす事です。
因果応報の道理とは、
欲しいものを手に入れるという「結果」を得るためには、必ずそれに応じた「行動(原因)」を着実に積まねばならない、という真理のことです。
自分の「行動」を地道に積み重ねる事でのみ、本物の結果が得られるということですね。
それをショートカットして、他人との摩擦も無視して、ただ「結果」だけを得ようとしても、
得られるのは空虚感と、無理を通した事で残してしまった遺恨だけです。
どんな結果を得る時にも、それに応じた自分の「行動」を積み重ねる他はない。
この因果応報の道理は、昔も今も、どこの国の文化でも関係なく成り立つ真理です。
「その道理から外れない事」
これが、何よりも信頼できる指針です。
「常識から外れない」事よりも、
「因果応報の道理から外れない」事が最も本質に根ざした行動と言えます。
それが結果的に、他人との摩擦を減らす事にもなるでしょう。
確固たる指針を胸に、常識に必要以上にとらわることなく、着実な行動を積み重ねてゆくことが、
「時には常識的で安心でき、時には予測不可能でびっくりするけれど、どこか惹かれる」
そんな人物像を作り上げてゆくことでしょう。