世界一有名な独裁者の最期の時間
あの悪名高い「独裁者」を題材とした映画で、前から気になっていたものがありました。
『ヒトラー〜最期の12日間〜』
あの大戦で、敗北を喫してピストル自殺し、
戦争の終幕を迎えるまでの12日間にヒトラーとその周りで何が起きていたのか。
彼の秘書だった女性が明かした事実を元に作られた映画だそうです。
大衆から支持され、強烈なリーダーシップを発揮して世界に驚異を与えた独裁者
絶対的な権力を握り、世界に例を見ない非道な虐殺を実行した男
そんな男がとことん追い詰められた時にどんな「本性」を露わにしていたのか。
戦争が劣勢に傾き、勝算がことごとく失われ、とことんまで追い詰められて、
もう世界のどこにも逃げ場所がない窮地にたたされた「最期の時間」に、
彼の人間としての「本性」が現れていたに違いありません。
だからこそ、その最期の姿をリアルに描いた映画とあっては、これは興味を持たざるを得ませんでした。
2時間半もの長編映画だったので、なかなか観る機会を作れずにいましたが、ようやく観ることができました。
映画に描かれていたヒトラーの最期の有様は、本当に「現実的」な感じがしました。
「最後の最後まで「我」を押し通して果てていった」
私の受けた印象は、そんな姿でした。
戦争が劣勢になっても、
頼りの部隊がことごとく制圧されていっても、
ソ連軍がすぐそこまで迫ってきても、
側近たちが自分から離れ始めても、
彼の中の「己は正しい」という思いが変わることはありませんでした。
「信念に生きた」
「己を曲げなかった」
と言えば聞こえは良いですが、
「己は正しい」の思いの増長は、「自分の非を一切認めない」こととなり、
これは美しさどころか、痛々しさでしかなく、ただ迷惑なだけで、
責任ある人であればあるだけ、その態度がどれほどの惨事を引き起こすことか知れません。
「己は正しい」と思い込んで己の非を認められなくなることと、
「自分の信念に生きる」ということは、また別問題なのですね。
これを履き違えてしまうと、残念の極みということになりかねません。
被害妄想と激怒を引き起こす源とは
この映画で印象的だった場面はいくつもありましたが、数多く描かれていたのは、
ヒトラーが「激怒」する場面です。
その一場面を紹介しますと、
ヒトラーたちが逃げ込んだベルリンの官邸地下壕へ、ソ連軍がいよいよ迫って来る。
そんな中で、作戦会議が行われます。
ほとんどの戦力が壊滅状態で、反撃の見込みなど皆無といってもいい状況でした。
誰もが、勝つことはおろか、脱出すらも難しいと思っていました。
ところがヒトラーはこの時もう、正常な判断能力を失っていたのですね。
現状を全く認識していない、彼の希望的観測を前提に作戦を押し進めます。
「大丈夫だ。シュタイナー兵団が来れば、ソ連軍などことごとく撃破できる。」
落ち着いた態度で、救援部隊を待つ方針を打ち出します。
「総統閣下…
その…シュタイナー兵団は…
シュタイナー兵団はほぼ壊滅状態、攻撃能力はありません。」
参謀の数人が、「現実」を口にしたとき、沈黙が走ります。
ヒトラーの手が震え始め、その震えた手でメガネを外してテーブルに置くのでした。
そして、すぐさま激高の極みに至ったヒトラーの怒号が飛びます。
「命令したはずだ!攻撃せよと!
なぜ命令に従わない。この総統の命令に!」
もはや空論でしかない救援軍の攻撃を、なおも主張し続けます。
「将校たちはどいつもこいつも、無能で腰抜けどもばかりだ!
私に嘘ばかりをつき、私を裏切り続けてきた!
私の命令に背いて、私の邪魔ばかりをしてきた、ドイツの恥さらしどもだ!」
あとはひたすら、部下たちへの罵倒の嵐です。
彼は、「必ずドイツが勝つ。必ずドイツがヨーロッパを支配する」と言い続けてきました。
それがもはや、現実性の欠片もない状況になってもなお、その幻想にしがみついていたのでした。
「自分の主張してきたこと、自分のしてきたことは正しい。間違いであるはずがない。」
この「我」をどこどこまでも通す余り、
その「思い」をことごとく否定する現状を前に彼は、自分以外を「裏切り者の嘘つき」と断じて、激怒するばかりでした。
「自分は、正しい思いや行動を妨げられた被害者」と思い込み、ただただそれを周囲に主張するのでした。
七つの「慢心」の一つ「我慢」の心とは
仏教で教えられる「煩悩」の一つに「慢」と言われるものがあります。
「煩悩」というのは、人間の本質をなす、煩いや悩みや惑いを起こさせる心のことですが、
その代表的な煩悩の一つがこの「慢」の心です。
これは「自惚れ心」のことで、仏教では7つの「慢」があると教えられ「七慢」と言われますが、
その一つに「我慢」と呼ばれる「慢心」があります。
「我慢」とは、「自分は正しい」という思いをどこどこまでも押し通してしまう「慢心」のことです。
自分の過ちが、どれほど否定しようのない形で露呈されようとも、
それでもその過ちを認めることができず、
「それでも自分は正しいんだ」
と、とんでもない暴論を展開してゆく「慢心」です。
「自分が間違っていた」と認めるのは辛いものです。
「正しい」という思いが強く、そう思ってきた時期が長ければ長いほど、
今さらそれまでの自分が間違っていたなんて、とても認めたくありません。
国民の大半から支持され続けて、
あらゆる反対意見を黙らせることのできる権力を持ち、
説得的な演説で「自分の正しさ」を語り続けて、
多くの犠牲者を出しながらも、自分の考えを実行し続けてきた。
だけど実はその「正しさ」にはいろんな歪みがあって、
数々の「過ち」の報いで状況は悪化してゆき、やがて絶望的な状況に追い詰められてしまう。
そんな状況で今さら、自分の非を認めることはできないのですね。
ずっと正しいと信じて、その通りに必死でやってきた。
周りにもそれを認めさせてきた。
それをとても「間違いだった」なんて認めることはできない。
「じゃあ、この状況をどう説明するのか?」
となったら、出てくるのは被害妄想の暴論というわけですね。
「自分は正しかった。間違っていなかった。」
「だけどそれを、アイツが邪魔をした。コイツが裏切った。」
聞くに耐えない被害妄想論も、その根底にあるのは、
「自分は間違っていない、自分は正しい」
という慢心であり、
どこにも正しさが見いだせない状況になっても、なおもそれを押し通そうとする「我慢」の心です。
この心に動かされた行動の結果はもう、誰も得しません。
自分を破滅に導くことはもちろん、周囲もまた迷惑もいいところで、その光景は痛々しい限りです。
ましてそれが、多くの人に影響を与えるリーダーだったり、まして一国の命運を背負って舵を切るものであれば、
「迷惑」なんてレベルでは済みません。
ただ一つのこと、
「自分の非を認める」
これをするだけで、自体は好転するのですね。
強い「我慢」を持つ私達にとってそれは、決して簡単なことではありません。
だからこそ、これが出来ることは本当に素晴らしいことと言えます。
「人間には自分が間違っているとわかっていても、それをどこまでも押し通してしまう「我慢」の心がある」
そう聞くと、
「自分にそんなことが本当にあるのかな?」
と思うかもしれませんが、この「我慢」に陥っているときは中々それを自覚できないものです。
誰もがいつ陥るともしれないこの「我慢」から脱するためにも、
このような煩悩があることを覚えておくことは大きな助けになるでしょう。
人生にはいろんな決断が迫られる場面がいくつもありますが、
必要な決断の一つに「自分の非を認めて改める」というものがあることを、忘れてはならないのですね。