「恐れ」を克服する二段階の手順

「失敗を恐れるな」と言うのは簡単だけど

 年が明けて、春も近づいてきて、何かと環境に変化が起きてくるのが今の時期かもしれません。

 環境の変化というのは新鮮なことも多いのですが、一方で不安を感じることも多くなります。これまでの慣れた環境が変わってしまうのですから、慣れないことに向き合うとどうしても「失敗しないかな」という心配が伴います。

 誰だって失敗することは怖いものです。「失敗を恐れるな」とよく言われますが、全く恐れないというのは無理な相談でしょう。

 だけど、「一体何がそんなに怖いんだろう?」と突き詰めて考えてみると、実はそんなに恐れるようなことではないと気づくこともまた多いのですね。

 他人とのコミュニケーションで、あまり気の利いたことが言えなかったり会話を盛り上げられなかったとしても、仕事で多少ミスをしたとしても、うっかり誰かを不機嫌にさせてしまったとしても、何もそれで人生を詰むようなことになるわけではありません。

 だいたい、人生の何かもを思い通りにコントロールできるはずがないわけですよね。特に他人との関わりが伴うような現場は不確定要素だらけです。上手くいくこともあれば上手くいかないこともあって当然なわけです。

 調子がいい時もあれば、調子が悪いこともある。上手く相手に喜んでもらえることもあれば、ちょっと不快にさせたかな、ということもある。そういう浮き沈みはあるのが当たり前ですよね。

 思わしくない出来事も、ある意味では起こるべくして起こることであって、それに対して打つ手はいくらでもあるはずです。物事が上手く進めばそれに越したことはありませんが、そうでなければ必要な手を打つだけのこと。

 冷静に考えればそうなのですが、それでも失敗することや思わしくない展開に発展することに恐怖を覚えてしまうのが人間の感情というものでしょう。

 ですから、理屈では「恐れるようなことではない」と分かっていても、恐れてしまうものは恐れてしまうものであって、それを一切無くすというわけにもいきませんね。

 変化の絶えない人生、そして必ずしも思い通りにならない現実を生きてゆく上で、起きてくる恐怖と私たちはどう付き合ってゆけばよいのでしょうか。

 どうせ一生付き合わなきゃいけないのなら、この際「恐怖」というものを徹底的に解剖してその仕組みを考察してみたいと思います。

私はいま何を守ろうとしているのだろうか

 恐怖を感じるのは、「何かを守りたい」と思えばこそなのですね。

「自分には守るものなんてないだから、恐れるものなんて何もない」なんていうシチュエーションはドラマや映画の物語などで時折見かけます。逆に、

「守るものができてしまった」

だから、失うことが怖くなってしまった。そんなシチュエーションもありますよね。

 まあ実際には、本当に「守るものなんて何もない」なんて事にはそうそうならないですよね。あったとしても、それは自覚していないだけど、心のどこかで守りたいものを抱いている場合がほとんどだったりします。

 ということは私たちも、恐怖を感じた時に

「私は一体、何を守ろうとしているのか?」

と考えてみると色々なことが見えてきます。

 恐怖を感じる時は、必ず何かを守ろうとしているはずなのですね。だけどそのことを忘れて、ただその「守りたいもの」を脅かす対象にばかり心を奪われて、その対象への恐怖に心が支配されがちなのです。

「とにかくこの人が怖い、この状況が怖い、この時期が怖い

そのような恐怖の対象で心が一杯になってしまいます。その対象が、一つの独立した実体を持って一人歩きし、どんどん巨大な存在になってしまいます。

 ですが本当は、恐怖の対象はそれだけで独立して存在するものではありません。必ずそれは、自分の守りたい「何か」と関係しているはずなのですね。そして恐怖の本質はその対象ではなく、その「何か」が脅かされたり失ったりするという所にあるわけです。

 そうやって、恐怖をある対象だけに同一化してしまっている状態から自分の問題へと引き戻すことが出来るのですね。

「そうか、ただ恥をかいて体裁を保てなくなるのが怖いのか

「今のこの会社での立場を失うことが怖いのか

「この人とのいい関係が侵害されるのが恐ろしいのか

「自分の心身の健康が損なわれることが恐ろしいのか

「自分の時間や体力が今後も奪われてしまうことが怖いのか

このような自身の守ろうとしているものに「恐怖」が伴っていることに気が付けば、自分のすべきことは、それを脅かす一つの対象をただ恐れることではないと分かります。

 怖いと思っている対象は、守ろうとしているものに関係する一つの縁でしかないのですね。その縁に対する対処も必要かもしれませんが、他の縁をどうにかすることでその恐怖を払拭する余地もあるのです。

 つまり、その特定の対象ばかりに心を縛られる必要はないということに気づけるわけです。

 特定の独立した「怖い存在」というものは存在しない。

 私が「守りたい」と執着しているものとの関係でのみ「恐怖」は成り立っている。

 この事実に立ち返ることで、絶対化されていた恐怖が様相を変えてゆき、同時に「今為すべきこと」が見えてくることでしょう。

守ろうとするものに「実体」はない

「恐怖」というものが一つの絶対的なものではなく、色々な縁によって造られているということを述べました。その際に触れた「守りたいもの」というのもまた、色々な縁によって造られているものだということも重要です。

「体裁を守りたい、立場を守りたい、この人を守りたい、心身の健康を守りたい、財産を守りたい、自分の自由を守りたい

と、私たちが心に浮かべる「守りたいもの」というのも、その実態は色々な縁によって作られているものなのです。

 このことを仏教では縁起と言います。仏教で教えられるとても大切な道理であり、世の理(ことわり)とも言うべきものです。

 

「この立場を守りたい」

そうやって「立場」に執着している時というのは、この縁起の道理を忘れている時だとも言えます。まるで「立場」などという実体あるものが固定・独立して存在するように心に浮かべているわけです。だからこそ、それが「奪われる」「損なわれる」という心配をせずにいられないわけです。

 縁起の存在というのは、そんな固定・独立した実体としての存在では全くありません。

例えば「立場」とは何かということを突き詰めて考えれば、無数の「縁」がより集まって「起きている」ものであることは明らかです。何かの集まりや組織があっての「立場」ですし、その立場を認めてくれる色々な人との関係があっての存在です。要は人との無数の縁がより集まって作られている「状態」を指して「立場」と名付けているということです。

 言葉で名付けると、まるで固定・独立した実体が存在するかのように錯覚してしまいますが、それは言葉に伴って観念的に思い描いた虚構の実体なのですね。

 その本質はあくまでも縁起であり、今この瞬間の縁によって作られている存在なのです。

 しかも縁とは関わり合いのことですから、時々刻々と変化するのがその本質だと言えます。関わり合いとはそのような流動的なものですよね。縁起とはそのような、時々刻々と変化しながら新たに新たに作られるという流動性をその本質としているわけです。

 私たちが「守りたい」と思って執着しているものの本質は、そのような縁起であり流動的な存在なのです。それは、そもそも「奪われないように、損なわれないように」と必死にその実体を保とうとするような対象ではないのです。

 そんな必死に変化を妨げようとしている「実体」こそが私たちが心に浮かべた虚構の存在と言わざるを得ないものです。

 本当は全て縁起の存在であり、「奪われる」とか「損なわれる」ということ以前に、必然的に変化してゆく存在であり、新たに作られてゆく存在なのです。

 ですから、「変わらないように保とう」とすべきものではありません。

 ただ

「どう変化してゆくか」

「どのような因縁によってどのように作ってゆくのか」

この問題があるのみなのです。

このような縁起という道理を深く知れば知るほど、私たちが支配されがちな「恐怖」というものは、「自ら心に浮かべた虚構の実体を守ろうとしている」という縁起の道理に反した執着が引き起こしているものだと知らされるのですね。

 縁起の道理を知り、その縁起の道理に則って現実と向き合うことは、恐怖を克服して、恐怖に支配されずに最善の行動に努めるための指針となることでしょう。

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