「おもてなしの精神」って、何なん…
東京オリンピックで、選手村の設備が劣悪だということで、
「日本のおもてなしの精神はどうした!」
みたいな批判を受けているというニュースを目にして、なんとも割り切れない思いがしました。
日本側が「おもてなし」を謳っていた事もあって尚更、という事もあるとは思いますが、どこかに
「日本はおもてなしをするもの」
という無言の要求が向けられていて、そういう“基準”で言動が測られているという感も否定できません。
「日本には“おもてなし”の精神がある」
この認識は、ややもすると「“おもてなし”なるものが無条件にそこにあるもの」という誤りにすり替わってしまうのかもしれません。
“おもてなし”は、一人一人の、その時その時の相手に対する精一杯の努力の連続であって、
決して“無条件に当然そこにあるもの”などではありません。
「相手を喜ばせよう」という精一杯の努力が“おもてなし”の核とはなりましょうが、
それを成り立たせている環境や相手との関係性や人のコンディションや生活基盤など、
様々な要素がより集まって成立しているものが“おもてなし”というものです。
あらゆるものは、無数の“要素”がより集まって成立している。
このことを仏教では「縁起(えんぎ)」と言います。
「縁起」とは「縁(よ)って起きる」ということです。
他のものとの関わり(縁)無しにして、独立して存在しているものなど、何一つない。
これは仏教における非常に重要な教えなのですね。
“おもてなし”という固定・独立したものが日本に存在するのではない。
日本の人々一人一人の努力やそれを取り巻く環境、さらに世界各国との関係など、
世界中の無数の要素が、流動的に変化しながら日本に“おもてなし”なるものを成立させているのです。
「日本のおもてなしの精神はどうした!」
と批判しているその人の心も言動もまた、日本の現在の“おもてなし”を成す一要素となっているわけです。
“言葉”で切り取られた世界
私たちは日常的には、
「ここに“テーブル”がある」
「ここに“茶碗”がある」
「ここに“時計”がある」
と、認識対象を“固定・独立した存在”とみるのですが、本当はそのような固定・独立した存在ではありません。
「テーブル」も「茶碗」も「時計」も、
それを成り立たせている数々の素材や、置かれている場所や、周りの空気や温度などの環境や使っている人、などなど…
無数の要素がより集まって“造られているもの”です。
つまりは「縁起」のものということですね。
“造られている”というのがポイントです。
“造られた”とも言えそうなのですが、“現に今、造られているもの”という認識の方が正しいのですね。
「いや、このテーブルはもう何年も前に造られたものでしょう?」
と思うかもしれませんが、そうではないということです。
今も時々刻々と“造られている”のです。
なかなかそうは思えないかもしれませんが「縁起」というのはそういうものです。
実は、あなたの目の前の「テーブル」の存在を成り立たせている要素には、
あなたがそれを「見ている」「触れている」という「認識」も含みます。
あなたの“心”もまた、目の前の「テーブル」を造っている要素の一つだということです。
ここは、仏教独特の視点かもしれませんね。
「いやいや、私が見ようと見るまいと、触ろうと触るまいと、テーブルはテーブルとして存在しているでしょう」
と、思うかもしれません。
普通は、自然界の物理的な要素だけで“物”の存在は成立していると思われます。
科学も、その物理的要素だけを分析対象としているはずです。
しかし仏教は、あなたがそれを「見ている」「触れている」という事も成立要素に含めるのですね。
そういった、観察者の“観測”をも含めて“ものの存在”は初めて成立している。
いわば「造られている」というわけです。
物質的な要素と“観測”などの精神的な要素とがそれぞれ関わり合って、
「テーブル」の存在は成り立っているというわけです。
そうすると、素材や周囲の空気などの物質的な要素も時々刻々と“変化”してゆきますが、
「見たり」「触れたり」という精神的な要素も時々刻々と変転してゆきます。
それら、変化する無数の物質的・精神的な要素によって、時々刻々と、新たに新たに“造られている”のが一つの「テーブル」という存在なのですね。
あらゆるものを、そのような“縁起”の存在と見れば、極めて流動的な世界が見えてくるでしょう。
本当は、固定・独立した存在など世界に何一つ存在しないわけです。
そんな世界に対して私たちは“言葉”でもって、
「これは“テーブル”である」
「これは“時計”である」
というように固定化・独立化させているというわけですね。
“言葉”によって名付けられた時、そこに固定・独立したものが存在するかのように思ってしまいます。
流動的な縁起の世界から、“言葉”によって“固定・独立した実体”が切り取られてしまいます。
これが実に“言葉”のもつ強い力です。
本当は固定化できないものを固定化させ、独立化できないものを独立化させて、
“固定・独立した存在”を一人一人の心に浮かばせるという働きが“言葉”にはあります。
だから私たちは、よく知っていなければなりません。
本当は“言葉”に対応した“固定・独立した実体”など存在しないのだ
ということを。
“言葉”を超えた縁起を忘れない
「おもてなし」というものが日本にある。
“言葉”によってそう名付けられた時から、まるでそのような“実体”が日本に、日本人に宿っているかのように思われています。
これは日本の「おもてなし」に限りません。
この人は「頑張る人」だ。
この人は「周囲に尽くす人」だ。
こう周囲から名付けられた時から、まるで当然に、そんな“言葉”に対応した実体がその人に宿っているかのように錯覚してしまいます。
だから、名付けられた人は大変です。
周囲の人たちから
「これくらいの事は、してくれていて当然」
という目をいつしか向けられるようになっていて、
相当の高いパフォーマンスをしているはずが、もはや周囲からは「当然の事」となっていて、
その「当然」の域に達していなければ、たとえそのパフォーマンスが標準レベル以上であっても、
周りからは不満の念が向けられる。
自分もなんだか負い目を感じてしまう。
だけど同時に、
「いやいや、何も他人から責められるような事はしていないでしょう?」
「これでもちゃんとやっている方じゃないの?」
という割り切れない思いを抱く。
このような歪みはどうして起きるのでしょうか。
「この人はこういう人」
そうして“特定の精神”を実体として造り出してその人に勝手に植え付けてしまう。
それが良いものであれ悪いものであれ、そうした時から色々な歪みが生じてしまいます。
特に、長く付き合っていくような相手には尚更この「固定した実体を相手に植え付ける」という過ちには気をつけるべきでしょう。
今、その人に現れている人格は、あなたを含めて周囲の人や環境など様々な要素によって“造られている”ものです。
無条件に固定・独立して存在するものでは決してないことを忘れてはならないでしょう。
このことは、他人ばかりでなく自分自身についても大切なことです。
「私はデキる人」
「私はダメな人」
「私は先生だ」
「私はリーダーだ」
「私は下っ端だ」
そんな“実体”を自分自身に見てしまいがちなのですが、それも無数の要素の瞬間的な“縁起”です。
そんな“言葉”に対応する“実体”は決して存在しません。
「リーダーとしての私」を今まさに造っている。
「先生としての私」を今まさに造っている。
「劣った私」という状況を今造ってしまっている。
だけど、次の瞬間にどんな“私”を造るのか、造られるのかは“縁起”次第というわけです。
“言葉”はとても便利で有効な手段となるのは間違いありません。
思考を整理し、状況を掴み、とるべき行動を導き出す大きな力になります。
だけど同時に自分や他人を固定化し、縛りつけて、不自由にさせる原因にもなります。
“おもてなし”も“頑張り”も“貢献”も、美しい言葉ですが、そんな素晴らしい言葉ほど、
それが生み出す虚妄の“実体”にはより一層の注意が必要と言えるでしょう。
“言葉の世界”に生きる私たちですが、言葉を超えた“縁起”を見失わない。
そのような智慧を磨くことを忘れないようにしたいものです。