“有為転変の世の中”を知れば、驚くほど世界は広がる

“有為”であるが故に移り変わってゆく…

「有為転変の世の中」

なんて言葉を聞く事はあるでしょうか。

「有為転変」これは「ういてんぺん」と読みますが、なんか、響きがかっこいいですよね。

だけど、「ただなんとなく格好のいい言葉」だけで済ませていては、勿体なすぎるので、この意味をもうちょっと深掘りしたいと思います。

言葉の響きから察せられるかも知れませんが、仏教から来ている言葉です。

まあ、「言葉の響き」も何も、いつものパターンなんですけど。

この世のあらゆる物事を「有為転変(ういてんぺん)」と仏教では教えられるのですね。

「転変」というのは「転じる」も「変じる」も変化してゆくことを言いますから、

「万物は移り変わってゆく」

というシンプルな真理を言った言葉ですね。

どうして、万物は移り変わってゆくのかというと、それは「有為だからである」と言われるのですね。

「有為」とは、「造られたもの」ということで、「様々な原因や条件によって造られたもの」という意味です。

仏教的な言い方をすると「因縁によって生じたもの」です。

あなたの目の前にあるもの、たとえば机とか椅子とか、それらは必ず“何かとの関わり”によって生じているものです。

もしそれらが、何ものとの関わりも要することなく、ただそれだけで独立して存在しているとするならば、

それは決して変化することも移り変わることもないということになります。

ずーっと固定し続けて永遠に変わらないもの、ということになるのですね。

「因縁を要することなく独立して存在している」という事は、そういう事です。

他との関わり合いの中で生じているものだからこそ、その関わり合いの変化に伴って、変化し移り変わってゆくわけです。

「あらゆる関わり合いから断絶されて、独立して存在しているもの」

そんなものがあるとすれば、それは

「固定した、一切変化しないもの」

ということになってしまいます。

そういうものの存在を断固否定するのが、仏教です。

一切は、

「因縁によって生じたもの」

「縁起のもの」

「因果の法則に則って現れるもの」

と教えられます。

そういうものを「有為」と言われ、当然そのようなものは移り変わり、変化してゆきますから、

「一切は、有為転変である」

という教えになるのですね。

古来インドで生まれた「ダルマの理論」とは

ここで、「有為(造られる)」ということをもう少し詳しく掘り下げたいと思います。

つまり、「どのような因縁によって」「どのように造られるのか」ということを述べたいと思います。

「色々な因縁」とは言いますが、特に重要なものが「識」というダルマであると説かれます。

「え、ダルマって何?」

という疑問にまずここで、お答えしておきますね。

「ダルマ」とは、「有為」のものを造り上げている“構成要素”のことを言います。

仏教ではこの世の一切のものを「有為」であり「造り上げられたもの」であると言われますので、

「何によって造り上げられているのか」

をまた詳細に教えられています。

その有為のものを成り立たせている“構成要素”を次々と列挙して示されていて、それらが経典に記されています。

それらは「ダルマ」と呼ばれ、非常に多くのダルマが伝え残されています。

仏弟子たちは、その「ダルマ」を代々伝承してゆき、それらを整理し、研究し、体系化し、とても緻密な「ダルマの理論」が組み立てられています。

このような営みを「アビダルマ」と言います。

これは、「ダルマの研究」とか「ダルマへ向かう」といった意味です。

そしてこの「アビダルマ」という営みの集大成のような書物が『倶舎論』と呼ばれる非常な名著です。

インドのヴァスヴァンドゥという(漢訳されて「天親」とか「世親」と呼ばれます)仏教史上最大の仏教学者の一人によって著された書物ですが、漢訳されて中国にも日本にも伝わり、現代に至るまで仏教哲学の“定番の基本書”の位置を不動のものとしていると言えるでしょう。

さて、話が少し逸れましたが、数ある「ダルマ」の中で特に重要なものが「識」であるというわけですね。

これは“認識作用”というべき「見る、聞く、匂う、味わう、触れる」などの精神的な作用のことです。

眼、耳、鼻、舌、身の5つの感覚器官を拠り所として働く作用で、それに「意識」を加えて、

「眼識」「耳識」「鼻識」「舌識」「身識」「意識」の6つがあります。

これら6つの「識」それぞれの名が示す通り、肉体の有する“感覚器官”を拠り所として働いていますので、これらの「識」は、肉体がなければ成り立ちません。

先ほど、「一切のものは因縁によって生じている“有為”のもので、独立して存在しているものはない」と述べましたが、

「識」というダルマ自身もまた、“有為”のものであり、「識」それ自体だけで独立して存在することはできません。

感覚器官を有する「肉体」を拠り所として、その肉体との関わり合いを通して「識」という作用は“造られている”というわけです。

実はこのことは、仏教の“精神”や“心”に対する非常に特徴的な捉え方と言えます。

「“精神”も“心”も、決してそれだけで独立して存在する事はできない。」

つまり、「まず心ありき」とか「まず魂ありき」という考え方ではないという事です。

「まず独立した魂があって、それが肉体に宿っている」

こういうイメージを持っている人は非常に多いと思いますが、仏教はそのような固定・独立した魂の存在を明確に否定します。

精神は、肉体を拠り所として成り立っている。

そのような縁起によって肉体と関わりながら、一瞬、一瞬ごとに“造られている”もの。

すなわち「有為」のものであるというわけです。

そのように「識」は固定・独立したものではなく、肉体などとの関わり合いによって瞬間ごとに造られてゆくものなので「識蘊(しきうん)」と言われます。

「蘊(うん)」というのは、「積み重なり」という意味です。

瞬間ごとに「造られ」て「積み重なって」ゆくもの。

そのような「識蘊」と呼ぶべきものが私たち精神作用なのですね。

また一方で “肉体”もまた、それだけで独立して存在する事はできません。

「識」の作用によって維持されて存続しているのが肉体であると教えられます。

肉体なんて、ただの物質の塊というように思えるかも知れませんけど、とんでもないですよね。

複雑極まりない、様々な機能を有する器官がそれぞれの役割を果たしながら変化しつつ、存続してゆく。

肉体を構成する細胞は毎日毎日、無数の消滅と再生を繰り返して、続いてゆきます。

まさしく「有為転変」そのものです。

このように肉体は決して固定・独立して変わらないものではなく、瞬間ごとに新たに新たに生じてゆくものなので、仏教では肉体のことを「色蘊(しきうん)」と言います。

物質のことを仏教では「色」と言いまして、「色」という物質的なダルマが瞬間ごとに生じて積み重なってゆく。

先ほどの「識蘊」と同様の本質を有するものですから「色蘊」というのですね。

(読み方が同じなので、混同してしまいますね(汗))

このように複雑かつ数多くの組織や器官や細胞が、決してバラバラになる事なく生命を支え、活動を支えるベースとして機能し続けるのはどうしてなのか。

これは、物質的観点だけでは決して説明はつかないでしょう。

肉体の“仕組み”は物質的に解明できても、その“仕組み”がどうして維持されているのかは、物質的観点だけでは知り得ないのです。

その「肉体」を維持しているのが「識」の働きだと仏教では教えられます。

「識」という精神的な働きが「肉体」という物質的なものを維持している。

だから、そんな「識」の精神的作用なしで「肉体」が独立して存在するということも不可能なのですね。

「唯物論」という考え方を持つ人は、

「“精神”や“心”などというものは脳という物質の化学変化の産物に過ぎない」

と主張したりしますが、“肉体”という物質が、それだけで単独で存在する事はあり得ないと仏教では教えますから、唯物論も仏教では否定されます。

仏教は、「魂ありき」でもないし、「肉体ありき」でもない。

すなわち「唯心論」でも「唯物論」でもありません。

“精神”も“肉体”も互いの関わり合い、すなわち“縁起”によってその時その時に“造られている”のであり、そういうものを「有為」というのですね。

“識蘊”と“色蘊”そして“想蘊”

“識蘊”も“色蘊”も、瞬間ごとに縁起によって生じてゆくもので、固定独立したものでは決してないのですが、

私たちはそこに「固定・独立した精神や肉体のイメージ」を持ってしまいます。

いや、精神や肉体のみならず、あらゆるものに対して「固定したイメージ」を抱いて、そのイメージに捉われ、さらにはそれらに執着しながら生きています。

このように「イメージ」を造り上げる働き「想蘊(そううん)」と言います。

「想」とは、「表象作用」と言われ、「イメージを作る」という精神的な働きです。

ダルマの瞬間的な縁起以外に何もないこの現実に、「固定・独立したものの存在」を思い浮かべてしまうのが、人間の変わらない性質なのですね。

ちなみに、「想蘊」がそのような「固定イメージ」を造り上げる際に重要な役割を果たしているものが「言葉」です。

「心」とか「魂」とか「肉体」とか、

「テーブル」とか「椅子」とか「家」とか、

「言語化」がなされることによって私たちは、さもそこに「固定・独立したもの」が存在するかのように思ってしまいますよね。

「言葉」とはそのように、本来は瞬間ごとの関わり合いの中でその時その時生じている“縁起”しかない世界の中に「固定・独立した存在」なるものを生み出す作用があるのですね。

言葉をもってそのような「イメージ」を作り出す精神作用「想蘊」です。

実にその「イメージ」から、物事に対する“執着”が生じ、苦悩が生じてしまうのだと教えられるのですが…

このように、“識蘊”“色蘊”とそれらに伴って作用する“想蘊”

これらのダルマの縁起が織りなす現実こそが、私たちが生きている「有為転変」の世の中というわけですね。

「有為転変」という「なんとなく格好いい言葉」を掘り下げてみると、なんとも奥深い意味が込められていました。

この世界観を持つ事は、「唯心論」や「唯物論」から離れた世界観を持つことであり、

この二者の考え方にとらわれているが故に狭まっていた世界が大きく広がってゆくことでしょう。

それはそのまま、あなたの人生の可能性が無限に広がることを意味するのですね。

※補足

今回は「色蘊」と「想蘊」と「識蘊」の3つのダルマを紹介したのですが、これに「受蘊」と「行蘊」というダルマを加えて、「色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊」の5つを「五蘊」と言って、人間や世界の一切を構成するダルマとされています。

「受蘊」と「行蘊」については今回は触れられませんでしたが、この一つ前の記事「辛くなってしまう“考え方”を変えられないなら“仕組みを知る”ことに徹すれば良い」で述べていますので、ぜひご参照いただければと思います。

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