「さあ休み、勉強しよう」なんて、なかなか…
今日は休みで、用事もない。
「よし、この一日を有意義に過ごそう」
そう思って朝が始まるのですが、自由な時間ほど、実りある時間にすることは難しいものです。
何をしたって、誰にも何も言われない。
そんな中だと「楽にダラダラ過ごす」という選択肢が出来てしまいます。
それを“選ばない”ことの、何とも難しいことか…
日頃は朝から会社に行って、一日中縛られた環境で決められた仕事を決められたようにこなさなきゃいけない。
課せられた結果を出すために、頭を抱えて悩まなきゃならない。
そんな抑圧された環境から束の間、解放されている時間なのです。
そりゃあ、羽を伸ばしたい。ダラダラ過ごしたい。日頃我慢していることをやっていたい。
そんな衝動は怒涛の如く押し寄せてきます。
別に、
「よーし、ダラダラしてやろう」
と思ってダラダラするばっかりじゃないのですね。
むしろ、
「せっかくできたこの時間、日頃からやらなきゃと思いつつも出来ていないことに取り組もう」
と思っているのに、その意図と真逆の行動を「してしまっている」という状況だったりします。
この衝動は、心の奥底の無自覚の領域に押し込めていたものが溢れ出してくるようなものだから、
“日頃の抑圧”という蓋が外れれば、自動的に湧いて出てくるものなのですね。
だからこそ、それに抗うことは難しいわけです。
頭では、分かっているのですね。
トレーニングや勉強などの自分磨きや、ライフワークとなるような課題に取り組むなど、自由な時間だからこそ出来る“大切な行動”があることを。
仕事のような環境下以外での“努力する時間”こそが、自分の人生を豊かにしてくれることを。
本当は、日常の雑務から解放されている時間はとても貴重な時間だということを。
そこでこういう時に、私たちは選択を迫られるわけです。
“努力する時間にする”のか“まったりと楽に過ごす”のか。
「今日は休みで、特に予定がない」という日
「急に予定がキャンセルになって、ふと時間が空いた」という時
「ゴールデンウィークなどの大型連休が始まった」という時
そんな特別な場面ではなくても、
「仕事や用事を終えて、自分の部屋で一息つけるような時間」
も、そうでしょう。
“努力”と“楽な行動”とが、完全に自分の意思に委ねられる瞬間(とき)が、意外に多く訪れていることに気づきます。
仏教的に言えば「精進(しょうじん)」を選ぶのか、「懈怠(けたい)」を選ぶのか、とでも言えましょうか。
もちろん「楽にまったり過ごす」ということが悪だと断ずるわけではありません。
そして中には、「精進ばかり選択してしまって、楽に過ごすことを知らない」というストイックの極みのような人もいるでしょう。
「もうちょっと、肩の力を抜いた時間も過ごした方がいいのでは…」
というような人も。
だけどまあ、少ないでしょうね。
人間のもつ煩悩は、精進よりも懈怠に引っ張られてしまうのが本質ですから、
「精進は為し難く、懈怠には流されやすい」
というのが人の常というものです。
「どうすれば、懈怠に打ち克って、もっと精進に突き進めるのか」
というのは、誰もが抱く悩みと言えるでしょう。
「楽に流されず苦痛に挑め」という精神論ではなかなか…
ここでまず大事なのは、一つの“誤解”を正すことです。
それは、「精進」と「懈怠」の選択は、「苦痛」と「心地よさ」の選択である、という誤解です。
「精進=苦痛」
「懈怠=心地良い」
この構図ですね。
確かに、懈怠に身を任せることは心地良いです。
これはもう人間の欲望そのままですから、誰でもわかることです。
好きなゲームに気兼ねなく熱中できる時間は楽しい。
面白い漫画に没頭できる時間は楽しい。
楽しみにしているドラマを観ている時間は楽しい。
(※ゲームや漫画やドラマの時間を「懈怠」呼ばわりすると、貶めているように感じられるかもしれませんが、あくまで「精進」との対比での話ですので、ご容赦いただきたい…)
欲望に任せて好きなことをするのが楽で心地良いことは、基本的に異論はないと思います。
それ対して、己を磨くなどの「精進」は、キツいものです。
単純に、筋トレなんてあえて体に負荷をかけるわけだから、しんどいですよね。
勉強するのも脳に負荷をかけていますから、やっぱり疲れます。
どんなトレーニングも、基本的に反復継続ですから、新鮮味も面白味もないものです。
そんな行動にあえて挑むことは、「苦痛に挑むこと」という感覚を抱かざるを得ないのは、最もです。
「あえて今は苦痛に挑んで、苦痛に耐えて、それで未来の幸せを勝ち取る」
そういうモチベーションで懈怠に打ち克って精進へと挑む場合が多いかもしれません。
確かに、それで頑張れる人は頑張れるのでしょう。
だけど、「楽を避けてあえて苦に飛び込む」というのは、ものすごい抵抗のあることですよね。
毎度毎度、そんな抵抗に打ち克って、打ち克って、精進を続けるなんて並の精神力では出来ないのではないか…
ちょっと、絶望的に思えてきます。
ですが精進を毎日毎日絶えることなく続けられる人は、本当にそんな
「楽を避けて苦に挑む」
という巨大な“壁”を毎回乗り越えて、挑んでいるのでしょうか。
そんなバケモノみたいなメンタルの持ち主なのでしょうか。
決してそうとは限らないと思います。
それどころがむしろ、精進の状態に“心地良さ”を感じていたりするのではないでしょうか。
「精進の心地良さ」と言って、ピンと来るでしょうか?
「いや、もう全然理解できない…」
「何それ、気持ち悪い…」
と、思うでしょうか?
そんなことはないんじゃないかと思います。
多かれ少なかれ、誰もがなんとなく分かるのではないでしょうか。
「努力してる状態」って、けっこう心地良いものだ。
この感覚もまた、人間として自然に備わっているはずです。
また反対に、
「懈怠に身を任せる心地良さ」と先ほど言いましたが、同時にそこに“気持ち悪さ”や“虚しさ”も含まれているのですね。
「一日中ダラダラ過ごしてしまった自己嫌悪感」
と言えば、きっと誰もが共感すると思います。
ある意味での“虚しさ”や“気持ち悪さ”の極地みたいな状態ですよね。
一日中継続して懈怠に身を任せてしまうと、そんな「自己嫌悪」にまで至ってしまうのだから、「懈怠」にはそういう“嫌な感じ”が本質的に含まれているわけです。
その“気持ち悪さ”が積み重なって、一定ラインを超えると激増してゆき、さらに突き抜けると、絶望的なまでの虚しさに至ってしまう。
そんな構図が見えてきます。
「精進」は、その反対とも言えます。
「負荷をかける」という面だけ見れば“苦痛”が前面に見えて来ますが、それをやり切った後の“清々しさ”や“心地良さ”は、誰もが経験していることでしょう。
それは、一定以上やり切った時に分かりやすい形で湧いてくるのですが、本当はそれは「精進」という行動に本質的に含まれている“心地良さ”が積み重なった結果とも言えるのですね。
つまり、表面上“苦痛”と見られるこの「精進」には、本質的な“心地良さ”が備わっているものなのです。
だから、やりきれば必ず、なんとも言えない“気持ちよさ”を感じられるわけです。
その「精進」そのものに備わる“心地良さ”を敏感に感じとることができれば、やり始めた時から「精進」そのものが“心地良い”と感じることは出来るのですね。
苦痛や負荷のかかるトレーニングや勉強のような「精進」が楽しいという感覚は、ごく一部の変態的な感覚なのではありません。
誰もが知っている、“善き行動”に備わっている本質的な“心地良さ”なのですね。
「報いが来るまで我慢しなさい」ではなくて…
「因果応報」の道理から、「善い行動は善い結果をもたらす」ということは分かりやすいと思います。
しかしそれは、
「だから未来の幸せのために、今は苦痛を甘んじて受けましょう」
という話ではないのですね。
“善い行動”に努める時点ですでに、“幸せ”に踏み込んでいると言えるわけです。
それはそうです。
“行動”そのものが、“幸せ”に直結している“種”なのですから。
“種”の時点で既に私は“幸せ”に結びついているわけです。
その本質を感じ取ることができれば、心は既に“こよなき幸せ”に浸っているものです。
「スッタニパータ」という、仏典の中でも最古のものと言われる書物がありまして、その中に「こよなき幸せ」と題された一節があります。
ある人がブッダに、「最上の幸福とは何でしょうか」と尋ねた際、ブッダの言われた答えが述べられている一節です。
いわばブッダの「幸福論」が列挙されている貴重な文章と言えるでしょう。
いくつか挙げてみますと、このような内容があります。
「深い学識あり、技術を身につけ、身をつつしむことをよく学び、言葉が見事であること、——これがこよなき幸せである」
「施与と理法にかなった行いと、親族を愛し護ることと非難を受けない行為、——これがこよなき幸せである」
「悪をやめ、悪を離れ、飲酒をつつしみ、徳行を揺るがせにしないこと、——これがこよなき幸せである」
「耐え忍ぶこと、ことばのやさしいこと、諸々の道の人に会うこと、適当な時に理法についての教えを聞くこと、——これがこよなき幸せである」
こんな具合に、いずれも“善き行動”そのものを指して「こよなき幸せだ」と言っているのですね。
もう一つ紹介したいのが、「ウダーナヴァルガ」という原始仏典の一つなのですが、
「戒めをたもつことは楽しい」
「明らかな智慧を体得することは楽しい」
「もろもろの悪事をなさないことは楽しい」
「教えを説くのは楽しい」
「和合している人々が勤しむのは楽しい」
これまた「楽しいこと」を列挙していますが、やはり“善き行動”の真っ最中を指しています。
「幸福だ」と言ったら普通、努力が報われて、
「大金持ちになれた」
「みんなから称賛された」
「好きな人と一緒になれた」
というような分かりやすい「報い」に至ったことをイメージするかと思います。
もちろんそれが「幸せ」であることも間違いないでしょう。
ところが仏教ではむしろ、「果」よりも「因」に着目していると言えるのですね。
そして「因」の真っ最中に、既に「こよなき幸せ」があるのだと説くわけです。
「ちゃんとやることは、心地いい」
「反復継続は、心地いい」
「丁寧は、心地いい」
昔から言われている平凡な真理とも言えるのですが、こういう「こよなき幸せ」をついつい見落としてしまいがちなのですね。
「精進」か「懈怠」かの選択は、「苦痛」か「楽」かの選択ではない。
これはとても大切なことです。
今日の自由な時間の行動の選択に、是非ともこの視点を活かしたいものです。