自分を生涯守ってくれる強力な縁〜“持戒”の精神を生かす〜

何か一つ、人生に指標を持つならば…

嘘をついたり、心にもない事を言ったり、場をごまかすような行動をしたり…

そういうことを全くしないで生きることは、現実的には難しいと思うのですね。

何でも本当のことを偽りなく言う。

心に思ったことは、何でも率直に言う。

そう出来たら良いのかもしれないけれども、現実にはそうはいかない状況が多々あります。

「誠実さ」って何なのかって迷う場面はいくらでもあるのですが、

一つ、徹底してこだわっていいんじゃないかと思うことは、

「した約束は、決して違えない」ということ。

ここに強いこだわりを持って生きるというのは、人生の指標にしてもいいぐらいに大切なことです。

もちろん「完全に出来る」なんて言うわけにはいかないでしょう。

無常の世の中、どんな事情の変化が起きるとも知れない。

どうしても約束を守れない状況に立たされることは、あり得ることです。

だけど、「必ず約束を守る」ということにこだわって生きる、ということはいわば信念の問題ですから、

その信念を大切にして生きるということであれば、出来ないことではないはずです。

仏教で教えられる善行の一つに「持戒(じかい)」というものがあります。

これは、「戒律を守る」ということです。

「戒律」とは、仏弟子に定められる生活上の守るべき規範のことです。

出家の人と在家の人(俗世の生活のままで仏道を求める人)とで、それぞれ定められる内容は異なるのですが、

在家の人に定められる戒律として「五戒」と言われるものがあります。

その五戒の中には、「生き物を殺さない」とか「嘘をつかない」なども含まれます。

在家の人といってもやはり、厳しいものですね。

仏道に入る人は、このような戒律を守ることを固く誓うわけです。

そのような堅い誓いを立てることで、今後の自分の行動を律するという意味があります。

「戒律」というのは、そのように「自分自身の行動を守る」という働きを持つものと言えます。

ですが現代では、在家の人に定められる「五戒」さえも、守って生きることは現実的には難しいですよね。

「生き物を殺さない」というのを本当に守ろうとしたら、おそらく現代人の日常生活は成り立ちません。

「決して嘘を言わない」というのもできれば望ましいでしょうが、何でも偽りなく述べてしまうわけにいかない場面が現実には多々あります。

五戒さえもままならないのが私たちですから「戒律を守る」という行動は、一般の生活を送る私たちには縁遠いものと言わざるを得ません。

ですが、五戒を守ることは出来ないにしても、

「した約束は必ず守る」

このことに精一杯努めることは、出来るはずなのですね。

これはいわば「持戒」の精神を現代において実行することに当たります。

未来の自分を守る縁

「持戒」には自分の行動を律して守る働きがあると、先ほど述べました。

「自分の行動を律すること」

これは、誰にとっても生涯のテーマになることでしょう。

「生涯のテーマ」なんて言うと、大袈裟に思えるかも知れませんが、

これはあなたにとっても、今までずっとテーマであり続けてきたはずですし、これからもそうであるはずです。

「行動」のことを仏教では「業(ごう)」と言われます。

行動を律するということは、自分がこれから造る「業」を律するということになります。

「自業自得」という仏教の教えがありまして、「業」は自分が未来に受ける運命を生み出す種のようなものと教えられます。

私たちの一つ一つの行動には、自分の未来を造ってゆく“力”があるというのが「自業自得」の教えです。

「誰かと約束をする」というのは、私の「行動」についてのことに他なりません。

ですが、約束をしようがしまいが、生きている限り私たちは必ず何らかの「行動」を起こし続けるわけです。

「今日は丸一日休みで、コロナ禍の自粛要請もあって、一日中、何にもしなかったなぁ…」

なんていっても、「ゴロゴロしている」というのも一つの「行動」だし、スマホゲームをしているのも「行動」です。

「何の約束も予定もない」といっても、「何もしてないな」と思っていても、何らかの「業」を造らない日は、ありません。

それがそのまま未来を生み出す種となって、未来の運命が次々と生み出されてゆくわけです。

“種”には、結果を生み出す強い力があります。

無数の草木も花も、樹齢何千年とも言われる巨木も、全て一つまみの“種”から生み出されているというのは、何とも不思議なものですが、これこそ“種”の持つ目に見えない力なのですね。

私たちが何らかの「行動」をしたならば、それは「業」として未来を生み出す“種”を残すこととなります。

その“種”が結果を生ずることを止めることは、誰にも出来ません。

もちろん、過去に造った「業」を、無くしたり変えたりすることも叶いません。

じゃあ、過去に種々の業を造ってきた私の未来は、もう変えようがないのかというと、決してそうではありません。

確かに、過去に造った業は、もう変えようがありません。

しかし、「これからどんな業を造るか」は、まだ決まっていないのです。

「これからどんな業を造るのか」

そのことさえも、過去の業によってもう全て決まっている、という考え方があります。

一つの「決定論」と呼ばれる運命観なのですが、これが正しいとするならば、未来の運命は全て決まっていることになり、「行動を律する」も何も、意味のないことになってしまいます。

これは仏教では、「業」に対する重大な誤解だとされている考え方なのですね。

「自業自得」とは、あくまで造られた「業」が、未来の運命を生み出す働きのことを言うのであって、

「これからどんな業を造るか」までも全て支配するものではありません。

未来の業は、まだ決まっていない。

だからこそ、「これからの業を律する」と言うことが重大な課題だと言えるのですね。

まだ決まっていないといっても、私たちの行動はどうして過去の行動に引きずられがちなものです。

ギャンブルの習慣が長く続いていると、ついついその習慣に引っ張られて、今日も、明日も、そういう場所に引きずられてしまいます。

間食をし過ぎてしまう習慣が長く続くと、ついつい口が寂しくなって、コンビニやスーパーのお菓子に手が伸びてしまいます。

「行動」と言うのは、繰り返しがちなものであることは、否定できません。

だけど、繰り返し「がち」なだけであって、「決まっている」というものでは決してありません。

環境によって、出会う人によって、いわば「縁」によっていくらでも変わる余地のあるものです。

だからこそ、未来は決定したものではなく、どうとでも変わるものだと言えるのです。

これから造る「業」を律するということは、自分の未来を望む方向へと変えてゆくことに他なりません。

だからこそ、誰にとっても「生涯のテーマ」だと言えるのですね。

そして、行動を律するための大きな縁となるのが、「約束をすること」なのです。

“持戒の精神”と“無数の約束”

「約束」は、ただ「課せられた負担」や「背負ってしまった義務」ということではなく、

これから造る業を律してくれる、強い縁となってくれるものと言えます。

ただ、「約束」がそのような強い「縁」となってくれるには、「約束は必ず守る」という信念や習慣がなければなりません。

私にとっての「約束」が、「守っても守らなくてもいいもの」であれば、そんな約束に行動を律する力などありません。

だからこそ、

「約束をしたからには、どんな小さなことであっても必ず守る。決して違えない。」

という「持戒」の精神が大切なのですね。

約束を破ることは、相手に迷惑かけてしまうことになりますが、それと同時に自分自身の大きな損失にもなります。

「相手の信用を失う」

これも大きなことですが、

「未来の行動を律する縁を損ねてしまう」

ということにもなります。

私たちは、日常的にいろんな約束をして生きています。

会社で決められた仕事をこなすことも約束事ですし、

友達とどこかで会うのも、約束して成り立っていることです。

家族との約束、恋人との約束、先生との約束、生徒との約束、先輩や後輩との約束…

振り返ってみると、思っている以上に多くの「約束」が自分の生活の中にあることに気づくはずです。

これらの一つ一つの「約束」に対して、

「決して違えることなく、守っていこう」

と心に誓うこと、そしてそれを実践すること。

これは、今すぐにできる素晴らしい善行だと言えるのですね。

すなわち、「持戒」の精神です。

その一つ一つの積み重ねが、「信用」という一生の財産を造ることになりますし、

そしてこれからの無数の「約束」を、未来の行動を律する強固な縁としてゆくことにもなります。

他人に強制されるのでもなく、押し付けられるのでもなく、

自分の未来のために、自分の意思で持って誰かと交わす、数々の「約束」

これに「持戒」の精神が伴うことによって、私たちの人生は間違いなく好転してゆくことでしょう。

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