それが「優しさ」なのか?
「人には優しくしなさい」
と、子供の頃から大人に言われていたという人は多いと思います。
言葉は色々ですね、
「愛情」とか「優しさ」とか「思いやり」とか「情け」とか
「自分がされて嫌なことは、他人にしないように」
「自分がされて嬉しいことを、他人にしてあげるように」
私も子供の頃によく、大人からそういうことを言われていたような気がします。
こういうことを心がけようとした時に、
「優しくするって、どんなことなのかな…」
という迷いが出ることは少なくありません。
「優しさ」も「愛情」も「思いやり」も「情け」も、
言葉は綺麗ですが、抽象的でフワッとした感じが否めないのですね。
そして、綺麗でフワッとした言葉こそが、都合のいいように使われてしまうのが人の常でもあります。
これらの言葉の名の元に、
どれだけの「エゴの押し付け」や「束縛」や「都合のいいコントロール」がなされてきていることでしょう。
私自身もまた、
これは「優しさ」だ、「思いやり」だ、「愛情」だと思って、
相手を自分の都合のいいようにコントロールしようとしていることが、どれだけあるか知れないでしょう。
だからこそ、
「優しさ」等の名の元でしようとしている事にこそ、より自戒することが必要なのですね。
その時が一番、自分で自分の行いを「正当化」している時であり、
最も自分の行動に歯止めが効かなくなる時と言えるかもしれません。
誰だって、自分は綺麗でありたいと思っています。
「それに反した、醜い行動を自分はやっている」
と自覚すれば、自ずと抵抗を感じて、歯止めがかかります。
逆に、綺麗な言葉でうまく「正当化」できた時こそ、
自分の「思い」は、より拍車をかけて自分の行動を推し進めていきます。
「そうだ、これはこの人のためなんだ、思いやりなんだ、愛情なんだ、優しさなんだ…」
そんな風に「正当化」できた時から、自分を省みる機能は停止し、あとは加速の一方です。
まさにこの状態が最も危うい時とも言えるでしょう。
「与えている」つもりが、実は「奪っている」
「身を挺している」つもりが、実は「保身一杯になっている」
「相手のことを考えている」つもりが、実は「自分のことばかり考えている」
こんなことが、日常的に潜んでいるかもしれないのですね。
「そんなことを考えたら、何も出来ないのでは…」
と思われるかもしれません。
もちろん、
「どうせエゴでしかないのだから、何もするな」
なんて言い出したら、それこそ何も始まりません。
そんな危険を抱えながらも、それでも私達は、私達なりの「優しさ」を「思いやり」を見つけて、精一杯実行してゆくしかありません。
その時に大事なことは、自分自身の心の危うさを熟知した上で、確固たる羅針盤を持つことです。
「慈悲」の実践は反省の連続
仏教に「慈悲」という言葉があります。
それこそ、「優しさ」、「思いやり」、「愛情」という事ではないかと思われるかもしれませんが、
「慈悲」は、かなり具体的な意味を持ちます。
「慈」と「悲」にそれぞれ意味がありまして、
「苦を抜くを『慈』という、楽を与うるを『悲』という」
と言われます。
人の「苦しみ」「悩み」を的確に察知して、それを解消させるように行動する、
そうさせる心が、「慈悲」の「慈」です。
そして、
どうしたら人に喜んでもらえるか、楽しんでもらえるか、工夫努力して、喜ばせ、楽しませるよう行動する、
そうさせる心が「慈悲」の「悲」です。
「慈悲」を実践すること
これは、仏教が示す、私の行動における羅針盤となる教えと言えるでしょう。
「慈」であれ「悲」であれ、
その実践に踏み出すにあたってまず重要なのは、「相手」を精一杯知ろうとすることであり、
相手にとっての「苦楽」を常に察知しようと努力することです。
これは、言うほど簡単ではありません。
人にとって、何が悩みなのか苦しみなのか、百人百様ですし、同じ人でも、日に日に、一時一時、変化し続けています。
「前はああいうことで悩んでいたから」
「前はあれで喜んでくれたから」
「あの人はこうだったから」
なんてのは、貴重な手がかりにはなりますが、鵜呑みにはできません。
この人は違うかも知れない。
前はそうでも今は違うかも知れない。
安易な決めつけは禁物。
だからこそ、常に、アンテナを立て続けなければなりません。
「慈悲」の実践は、努力が常に求められるということになります。
そして、失敗の連続、反省の連続、だけど、そこから学習して、より間違いない「慈悲」となるように、なるように…
それは果てしない努力の道と言えます。ある意味、泥臭い努力ですね。
けれど、誰もがそれを心がけるように努力することができます。
結局のところ、何か特別な事をするというより、日頃の行動の中で、心がけ次第で様々な形での「慈悲」が実践できるからです。
「こんな行動が慈悲だ」
なんて、特定の行動を具体的に決められるわけではありません。
相手次第、状況次第ですから。
それは、慈悲の難しさであると同時に、誰もがどれだけでも「慈悲」に心がけられるという事でもあります。
今日、家族との会話の中で、友達との会話の中で、同僚や上司や部下と一緒に仕事をする中で、
自分の発言は、行動は、どれほど「慈悲」に沿ったものであっただろうか…
「相手が何を悩んでいるか…」
をどれだけ考えていられただろうか。
「相手が何を望んで、喜びとするだろうか…」
をどれだけ真剣に探っていられただろうか。
それとも、ただ自分が言いたい事を言ったり、自分を良く見せる言動ばかりに躍起になっていたか、
どちらだろうか。
こういう事を考えたら、本当に反省の連続ですよね。
「慈悲」を心がける。
常にそういう努力をし続ける。
「これで私はもう優しいんだ、思いやりに溢れているんだ」
という思い込みにドン座ることなく、常に「慈悲」の羅針盤に照らして己の行動を見つめてゆく道こそ、
最も困難で、かつ最も素晴らしい道と言えるでしょう。
「慈悲の実践」は自己を知る道
「慈悲の実践」という道を歩もうとすればするほど、気づくことがあります。
「あれ?結局、自分のことばかり考えていないか…?」
そんなハッとする場面が、何度もあるのですね。
最初は、相手の相談に乗って、相手の立場に立って、その解決に向けて寄り添っているつもりだったのに、
いつの間にか、
「自分はこれだけの経験と知識があるんだ」
「自分はこれまで、これだけ優しさを実践してきているんだ」
そんな「いい自分」を見せよう、見せようと、躍起になってはいないか…
そんなことに気付かされて愕然とすることが、だれだけあるか知れません。
相手の悩みに寄り添っているのか、
自分の自己顕示欲を満たそうとしてるのか、
どっちなのか分からなくなるような、時があるのですね。
「慈悲」の実践はそのまま、「己の本性」に向き合う事でもあります。
仏教では、人間には「我利我利」という恐ろしい本性があるのだと教えられます。
「我の利、我の利」とあるように、自分のことばかりを考えている心です。
「慈悲」はあくまで、
「相手」の苦しみを考えること、それを的確に察知する事で、その解消に向けた行動を精一杯見つけ出し、実行してゆくことであり、
「相手」の望んでいることを理解しようと努力し、それに沿うように沿うように、行動してゆくことです。
いわゆる「相手」本位というわけですね。
それは、接客やサービスや顧客との交渉などの場面でも言われることでしょうが、
そんな「仕事」の場面に限らず、あらゆる場面での行動において、それを実践してゆくのが「慈悲」です。
利害打算から離れたところでそういう「慈悲」を実践しようとするだけ、
いつの間にか「自分」を満たすことばかりを考えている事に気付かされ、「我利我利」の本性に直面させられます。
本気で「慈悲」を実践してゆく中で、自分の本性に向き合ってゆく。
そんな道が、真に優しさを追求してゆく道と言えるのかもしれません。