頭ん中がぐちゃぐちゃになった時の特効薬となる思考法〜「渇愛」と「慈悲」〜

理想的な「思考停止」

「余計なことは考えなくていい。ただ、慈悲を貫ければそれでいい。」
これぞ理想的な「思考停止」だと、この頃つくづく思います。

「思考停止」っていうと、普通は良くないことだとされるのだけど、
「停止」したほうがいい思考はどれだけでもあります。
いや、「止めるべき」だって分かっている。「止めたい」と切実に思っている。
だけど、どうにも止められない…
そんな「思考」の数々が、私たちの生活の中には常にあるのですね。

私たちの「心」は基本的に、何かに飢えて、何かに渇いて、それを満たしたい…
そんな「渇愛(かつあい)」を抱えています。
この「渇愛」が、とことん思考を複雑にしてしまい、疲弊させてしまい、自分の行動を狂わせてしまいます。

思考を「自分の事」に向けると、たいてい「不足」「飢え」「渇き」が目について、それらを満たさずにいられなくなります。
「収入がもっと多ければ…」
「もっと周囲から評価されていてもいいはずなのに…」
「カッコいい彼氏がいれば…」
「可愛い彼女がいれば…」
「子供がもっと思い通りになったら…」
こういうことは、後から後からキリもなく出てきますから、果てのない煩いに身を沈めるハメになってしまいます。
また、これらの「思い」が、叶ったら叶ったで、
「この収入が減ったらどうしよう…」
「周囲の評価を損ねないようにするにはどうしたら…」
「恋人がもっと、自分を好きでいてくれるには…」
などなど、「叶ったもの」に付随する煩いは必ずまた出てきます。

「渇愛」にまかせた思考は、「ただ煩い続ける」しかないことは、分かり切ったことなのですね。
その思考が激しくなればなるだけ、悩みも不安も激しくなり、
そんなブレブレの気持ちでは、仕事も人付き合いも、ベストパフォーマンスとは程遠く、
「決断」をしても、最適解とは程遠く、明るい未来は遠のく一方となります。
だからこそ、

「もう…余計なことは考えなくていい。ただ慈悲を貫ければそれでいい。」

これこそ、誰よりも自分自身が楽になれるための、とても大切な一手です。
「渇愛」の思考を「慈悲」の思考にシフトさせるだけで、その瞬間から驚くほど楽になれます。

「慈悲の思考」をより明確にすると

「渇愛」から「慈悲」にシフトさせると聞くと、
「優しくなれ」ということなのか、
「思いやりの心を持て」ということなのか、
そんなイメージが湧いてくるかと思います。
もちろんそれは間違いではありません。

ですが仏教は、そこをもっと具体的に砕いて説明するのですね。
「仏の教え」と聞けば、
偉い人が垂れた、尊く有り難い話で、耳に聞こえがよく、綺麗で、心が洗われるようなお話…
みたいなイメージを持ちやすいところですが、
ただの「美しい話」や「綺麗な話」では人間は救われないことは、仏様でなくても分かり切ったことです。
「教え」は、「実践」が出来るものでなければ、現実を好転させる力にはなり得ません。
だから「慈悲」という大事なことについては、
私たちが今この瞬間からすぐにでも「実践」に移して、今からすぐに現実を好転し始められるように、
一人一人のあらゆる状況に当てはまるように、具体的に説くことが大切です。

で、「慈悲」とは何か、どうしたら「慈悲」は起きてくるのかという問題です。
そのためにまず、真剣に考えるべきことがあります。
それが「人間の苦悩」です。

あなたは「人間の苦悩」に関するエキスパートでしょうか?
「孤独感」「不安感」「焦燥感」「罪悪感」「倦怠感」などなど…
言葉もニュアンスも色々ですけど、総じて「苦悩」と言える状態は、
自分の人生にも他人の人生にも溢れているはずです。

これまでの人生で、どのくらいそれを見つめてきたでしょうか。
自分のも、他人のも、よく触れて向き合ってきたでしょうか。

「もうお腹いっぱい味わってきたよ…」
はい、OKです。
「いつも他人から聞くのはそんな話ばっかりだよ…」
はい、素晴らしいです。
「私の耳は、愚痴話を聞くためにあるようなものですよ…」
もう、「師匠」と呼ばせてもらいたい。

これらに敏感になり、これらに精通し、ともすれば、これらに向き合うことが生きがいにすらなる。
もしそうなれたなら、「慈悲」を発揮する素地はしっかり出来ていると言えるでしょう。

「慈悲」は、「苦悩」ある者に対して向けられる心です。
相手の「苦悩」を深く知れば知るだけ、起きる「慈悲」は深くなります。
逆に、相手の「苦悩」を全く察知できなければ、「慈悲」はいつまで経っても起きません。
この世に「無限」と言ってもいいくらい存在する、実にバラエティー豊かな「苦悩」の数々…
それら一つ一つを察知できるアンテナが高いほど、
「慈悲」を発動させることができます。

「慈悲」の始まりは、他者の「苦しみ」を考えることです。
「いま、目の前の人はどんな不安を抱えているだろうか…」
「隣で仕事している同僚は、何か困ってはいないだろうか…」
「このチームで抱えている悩みは何だろうか…」

アンテナを張れば、無限に溢れているこの世の「苦悩」の数々のうちのほんの一部ぐらいは、
目の前に現れて見えてくることでしょう。
それを「自分の問題」としてしまうことです。
その瞬間から、「慈悲の思考」が始まります。

それは、
「その苦しみの解消に繋がるような、私の『行動』や『発言』や『思考』は何か。」
それを見つけ出し、それを実行しようとする思考。

それこそが「慈悲の思考」なのですね。

必ず何か、手があるはずです。
もちろん、必ずしもすぐ「解消」できる手が見つかるとは限りません。
私が何かしたことで、一発でその「苦悩」が解消してしまう…
なんて場面はそうそうないでしょう。
それでも、私が何かすることで、何か言うことで、何か考えることで、相手の「苦悩」が少しでも楽になる。
そんな「一手」は、私がその相手と「縁」があるのであれば、必ずあるはずです。

そんな「一手」を見つけ出して、それを実行に移す。

これが一つできれば、あなたは「慈悲」の実践を一つしたことになります。

「慈悲の思考」が始まった時から楽になれる

「慈悲」の思考を始めたならば、誰よりも自分が楽になれる、という話をしました。
それで「慈悲」の説明をしたわけですけど、どうでしょうか。楽になれそうでしょうか?

いやいや、
「他者の苦悩を『自分の問題』として、それに対して手を打とうと考える…」
これのどこが、「楽になれる」と言えるのか…?

そんな疑問が起きるかもしれません。
確かにちょっと考えれば、そんな「慈悲の思考」なんて、
「楽」どころか「苦労」でしかないように見えるかもしれません。

だけど、この「慈悲の思考」を始めることによる、大きなメリットがあります。
それは何でしょうか。
他人から好かれたり尊敬されたりする…?
自分のスキルが磨くことができる…?
確かにそういうメリットもありますが、もっともっと、即効性のあるすばらしいメリットがあります。

それは、

自分の「渇愛の思考」をとりあえず「停止」させていられる。

これです。

今、あなたの目の前に好きな人がいるとします。
まさしく「渇愛の思考」が始まる場面ですよね。
「どうしたら相手にも自分のことを好きになってもらえるかな…」
「アプローチできるチャンスはないだろうか…」
こういう思考でヤキモキして、感情は乱されまくりで、かえって下手な会話や行動をして裏目に出る、
なんて経験は誰もがあると思います。
それをもし「慈悲の思考」にシフトさせたらどうでしょうか。
自分のこれまでの経験と知識から、目の前の人の抱えている「苦悩」をキャッチしようとすれば…
「ちょっと、不安を抱えている様子だな…」
「なんだか、退屈そうにしているな…」
「どうも疲れ切っている様子、なにかあったのかな…」
何かしらキャッチできるはずです。
じゃあ、今のあなたが何を言えばいいか、どんなことを考えればいいか。
そのための「一手」を見つけ出す真剣な思考が始まります。

また、
あなたの目の前に、怖い上司がいるとします。
この時に始まるのもある意味「渇愛の思考」と言えます。
「叱られないかな…」
「面倒なことを振られないかな…」
これは、「自分を守りたい」という「保身」の気持ちと言ってもいいのですが、
それも「自分が満たされていたい」という「渇愛」からくる思考と言えるでしょう。
ここでも「慈悲の思考」にシフトさせたらどうでしょう。
「怖い上司」といっても人間です。
「怖い人」という認識を持たれていることで抱く悩みもあるかもしれません。
不安に思っていること、焦っていること、困っていることがあるかもしれません。
「冷静に、苦悩をキャッチしようとする目」をしっかり機能させたなら、縁あるその人の「苦悩」が、
何かしら見つかるはずです。
そして、
「そのために出来る事は…」と真剣に考え始めれば、
「怖い上司」を前にして、もう慈悲の実践は開始されているというわけです。

「渇愛」によって心が乱され、燃え盛る欲望や吹き上がる恐怖で、
冷静な思考が阻害されてグダグダの行動になりがちな場面において、
「慈悲の思考」に切り替えることが出来たなら…
その瞬間から「渇愛」の煩いをいったん置いておいて、
冷静なベストパフォーマンスに向かう「思考」を始めることができます。
これが、どれほど楽になれる状態であるか、やってみれば分かるでしょう。

何処にいても、誰といても、私たちには2つの選択肢が与えられていると言えます。
「渇愛の思考」を始めるか、
「慈悲の思考」を始めるか、
縁がどうであれ、私たちの「心」の問題である以上、その選択は自由です。

それは、
自分の苦悩や煩いをより深めてゆく道に入ってしまうのか、
憂いや苦悩から解放されて自分の現実を好転させてゆく道を進むのか。
その分かれ目と言えるでしょう。

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