結婚指輪に刻みたい言葉
こないだ、知人からちょっとした相談を持ちかけられたのですが、
これがまた色々と考えさせられるきっかけとなりました。
その相談というのが、
その方には娘さんが一人いらっしゃって、その方はフランスに住まれているそうです。
その娘さんが近々結婚されるそうなのですが、その結婚指輪に刻む文字として、
「今の状態が、この先もずっと続く」
という意味の日本の言葉を入れたいのだそうです。
それで先日、
「仏教の言葉でも、また仏教以外の言葉でもいいのですが、そんな意味の四字熟語は、ないでしょうか?」
と相談を受けたのでした。
それでちょっと、考え始めたのですが…
なかなか思い浮かばないものですよね。
それにしても、その娘さんはきっといい結婚をされて、今とても幸せなのだろうなと感じました。
だからこそ、その状態がこの先も続いて欲しい。
そんな気持ちなのでしょう。
そんな気持ちにぴったりの言葉を、やはり私は仏教の言葉の中から探すのですが…
これがなかなか出てこないのですね。
むしろ仏教では、「今の状態がこの先も続く」どころか、
「どんな事も無常なのですよ」という諸行無常の教えが常に説かれていますから、
ある意味その願いの反対の意味の言葉ばかりが浮かんできてしまいます(汗)
「うーん、どうしてものか…」
と考えている時にふと、浮かんできた言葉がありました。
「因縁生起」
という、仏教の言葉。
その時は、なんとなーく浮かんできたこの言葉なのですが、
「今の現状がずっと続いて欲しい」
という人にこそ、私だったら送りたい言葉だなという確信が、その後どんどん深まっていきました。
「縁談」は「縁」だけでは成立しない
「どんな状況も全て『因』と『縁』とが揃って起きるもの。」
というのが「因縁生起」という事です。
因縁が揃って生起したもの、という事ですね。
「結婚」という幸せな結果は、とても分かりやすいですね。
「縁談」なんて言葉があるように、まさしく「ご縁」というべきものです。
「縁」がなければどんなに頑張っても結婚のしようがありません。
だからこそ、そんな「縁」を探す努力を多くの人がしているわけですね。
合コンに出るとか、
婚活イベントに出るとか、
マッチングアプリを利用するとか…
「縁」をつなぐサービスが世の中に数多く容易されているのも、そういうニーズがあるからこそです。
幸せになるために、善き「縁」を探し求めることは、「因縁生起」の道理からいってもとても大切な事だと言えます。
だけど、そんな出会いという「縁」があっても、肝心の自分自身に「魅力」という惹きつける要素がなければ、
自分の幸せは成立しようがありません。
これは、自分自身の「因」の問題となります。
そこは頑張って、アプローチにアプローチを重ね、押して押して、押し切って、
相手が根負けする形でカップリング成立、なんてこともあるかもしれません。
それもまた自分の「因」と言えます。
「因」とは、「行い」のことです。
押して押して押しまくるのも、「行い」であり「因」ですね。
どれぐらい熱烈に押すかは別として、自分が何らかのアプローチという行動をすることは、
自分の幸せな結果のためには重要な「因」であることは確かです。
ただ、それはあくまでその場での「因」であって、本当にその場の「因」だけで、幸せな結果になるかといえば、そうとも限りません。
どんなに押しても、相手が自分に何らの魅力も感じられていなければ、結果に至ることは難しいですよね。
自分に備わる「魅力」というのはまさに、それまでの過去からの「行い(因)」の積み重ねです。
私の周囲にも、とても自然で癒やされる「笑顔」を持っている人がいます。
初めからそんな自然な笑顔が身についていた…ような場合もあるかもしれませんけど、それだけではないと思います。
その人が他人と関わる様々な機会に、相手に安心してもらおう、心地よく過ごしてもらおうと、
心がけて「笑顔」に努めることを繰り返し、繰り返し行ってきて、その人の「習慣」となっていて、
その結果、とても自然に魅力的な「笑顔」を見せてくれているのだと思います。
そんな「行い」の積み重ねはまさに、その人の「因」ですね。
「この人はいつも、絶妙のコメントや、時にツッコミを入れてくれるな…」
と感じる人もいます。
その人独自のセンスなのかもしれませんが、
もしかしたら、友人の影響かもしれませんし、好きな芸能人の影響かもしれません。
そういう「縁」もあったかもしれませんが、そんなパフォーマンスを見聞きしていたとしても、
やはり本人がそれを取り入れて、他人と接する機会に実行しなければ身につきません。
相手が話していれば、「自分の話を受け入れてくれた」と思えるように、そしてスムーズに話しやすいように、
ただ黙って聞くだけではなく、一言でも何でも、コメントを入れたり時にツッコミを入れたりしてあげようと、
繰り返し心がけてきたのかもしれません。
そんな「行い」の積み重ねもまさに、その人の「因」と言えます。
そういう「因」の積み重ねがあって、
よき相手という「縁」に巡り会い
そこでまた絶妙のアプローチという「因」によって、
ようやく「因縁」が揃って、幸せな結果が起きる。
そういうことを「因縁生起」と言われるのですね。
「幸せがこの先も続く」の真の意味は
私達が求める「幸せな結果」は実に様々で、
「理想的な相手と結婚する」というのはその一つですね。
他にも、
「経済的な自由を手に入れる」とか
「自分の店を持つ」とか
「自分の家を持つ」とか
「自分の思い描いた事業を実現する会社を設立する」とか
「こうなったら幸せ」というイメージ像は、本当に色々です。
ただ共通していることは、誰もが、
「その幸せが、この先もずっと続いて欲しい」
という事です。
それは先程の「結婚指輪に刻みたい言葉」の内容そのものです。
求めてきた幸せが実現したら、誰もが心から願うことですよね。
今が幸せだからもう、明日からは不幸のどん底に陥ってもかまわない、なんて誰も思いません。
幸せであればあるだけ、切実に願うことは、それがこの先もあり続けて欲しいということです。
そしてそれが脅かされるならば、この上ない恐怖でもあるでしょう。
「失うことが怖い」
これは、大きな幸せを手に入れた人にどうしても伴ってしまう恐怖です。
最初にも触れましたように、仏教では「諸行は無常」と説き、
どんな状況も、いつまでも変わらないものは何一つない。
常に「変化」してゆくのが、あらゆるものの実態だということです。
だから、今の「幸せ」が、まるで固定されたように、変わらずずっと続くなんてことは、
「無常」の真理の前ではあり得ないことです。
だからこそ大切なことは「因縁生起」の理解です。
今日の幸せが、明日も、明後日も、来月も、来年も、何年後も…
そういう「現実」を願うならば、その結果一つ一つの「因縁」を求めてゆく他ありません。
「固定して変わらない結果」などというものはありませんが、
努めて因縁を求め続けて、明日の幸せ、明後日の幸せ、そのまた未来の幸せという結果へと、
つなげてゆく努力はできるのですね。
「今の幸せを、この先も続かせる」というのは、そういう事です。
その点、これまで幸せを掴むための「行動」を、努めて繰り返してきて、それが「習慣」となっている人にとっては、
今日も、明日も、明後日も、幸せを続かせるための「行い」という「因」を造り続けることは、
「習慣」ですから、さも当然のように出来ることでしょう。
だからこそ、努力の積み重ねという「因」によって、至ることのできた幸せは、心強いものなのですね。
その幸せを、この先にも続かせるための「因」を造り続けることが、とても自然に出来るわけです。
逆に、その場限りの勝負で、場合によってはゴリ押しで掴んだ幸せは、危ういかもしれません。
その幸せを、明日へと繋げるための「因」がまだ、自分の「習慣」となっていないわけですから。
ある意味、そのツケを「これから」払っていかねばならず、それが出来なければ、
「結局、一時的な因縁生起でしかなかった」
という事になってしまいます。
幸せな結果は、決して固定したものではない。
常に、因縁を求めて、次々と創り出してゆくもの。
自分の現実に対して「因縁生起」と理解することこそが、今の幸せがこの先も続くための、大切な土台となるのですね。