「人生、何かに打ち込まないと勿体無い」の価値観を問い直してみると…

「やりたいこと、これから見つけようと思ってます」の、何が悪い…?

中学生や高校生の時に、
「私はサッカー部です。」
「バスケットをしています。」
「吹奏楽部で毎日練習しています。」
そんな人は、「なんとなく」キラキラした学生生活というイメージがありました。
何か、「やりたい事」「打ち込めるもの」を持って、頑張っている人はやっぱり輝いているなと感じたものです。

一方
「帰宅部です」
と聞くと、なんとなく、
「何か、打ち込めるものはないのかな…」
などという、物足りない感を抱いてしまうところがありました。

「何か、打ち込めるモノを持っている人が偉い」
そういう価値観があったのだと思います。
(もちろん「帰宅部」といっても、部活動以外に打ち込むものを持っている人だったりもしますが)

少なくとも私自身は、自分が何かに打ち込んでいないと気持ちが悪いと思うタチで、
ずっと何かに本気で打ち込んでいる自分でありたいと思って生きてきました。
それは、その「熱中している」状態に何とも言えない心地よさを感じるからなのですね。
もちろん、「その方が格好いいだろう」という見栄のような気持ちもあることは否定できませんが。

これは私だけではなく、世の中にもそういう価値観はわりと多数を占めているように思えます。
自分の「やりたい事」を見つけられた人
ましてそれを「仕事」と出来ている人
そういう人は、「いい人生を生きているな」と見えると思います。

逆に、そういうものが特に見つからない。
「これから、やりたいことを探そうと思う…」
「別に、これといってやりたい事もない…」
「そんな暑苦しく何かに熱中したいとも思わない。ただのんびり生きていたい。」
そんな人も数多くいると思います。
もちろんそんな人が否定されるわけではないですが、
「何か見つけられればいいのに…」
「せっかくの人生なのに勿体無い…」
「まだ若くて可能性もあるのに、そんなことを言って…」
という目で見られることは往々にしてあると思います。

どっぷり浸ったものが「終わった」瞬間に気づくこと

「何か打ち込めるものを持っていて、それに熱中しながら生きている人は、いい人生を生きている人」
この価値観について、もう少し掘り下げて考えてみたいと思います。

間違いなくそういう人は楽しそうに見えますし、生き生きして見えます。
実際本人も、楽しいことと思います。
私自身も中学、高校とサッカーに打ち込んで、充実していたと思います。
だけどそれは同時に、
「何かに打ち込まずにいられない」
という衝動に動かされてのことだったとも思います。

私は、高校三年生の秋の大会で敗退するまで、部活動のサッカーを続けていました。
高校三年生の春で引退して受験勉強に専念し始める同級生もいる中で、
私は最後の大会まで続けたいと思っていましたので、迷わず部活動を続けました。

個人的にはその三年生の春から秋までの時期が一番、部活動を楽しんでやっていたように思います。
受験勉強をしながらではありましたが、
チームの運営を務める部長や副部長は二年生が担うようになり、
秋までの残る三年生は、チーム運営の責任は二年生に委ねた状態で、
ただ自分のプレーに専念できる立場だったので、いちばんのびのびとプレー出来ていた時期でした。

ところが秋の大会の五回戦で強豪校と当たり、
圧倒的なレベルの差を見せつけられる形で大差で負け、
私のサッカー生活に終止符を打つ事となりました。
「あーあ、終わってしまったか…」
という感傷に浸れるのは束の間のことで、すぐさま大学受験を間近に控えて、猛勉強の日々が始まりました。
その時点で、模試の順位からしたら、志望大学の合格最低点に至るまでに、自分より上位に1000人以上のライバルがいて、
あと3ヶ月くらいで1000人抜きをしなければ合格はおぼつかないという状況でした。
(ちょっと記憶があいまいなので、もっと多かったかもしれません)
そんな中、「よっしゃ、1000人抜きして合格してやる!」とか言って、
周囲の友達から「まあ、やれるもんならやってみなよ」と半ば呆れられながらも、
それまでサッカーに傾けていた情熱をそのまま受験に注ぐ形で、打ち込みました。

結果はあえなく不合格。
しかも、滑り止めの大学を一つも受験していなかったので、すぐさま浪人生活が確定しました。

この辺りで、
「何かにどっぷりと没頭した生活」から、フッと、引き離されるような感じになったのでした。
まるでそれまで、夢でも見ていたように、
「どっぷり浸っていた日々」は過去のものとなり、
そして高校生から大学生へと人生のステージが移る、この中間地点のタイミングに、
「自分は70年〜80年、生まれてから死ぬまでのこの『人生』という歩みを続けている、いち人間」
という「人生の本質」をなす「道」に、引き戻されたのでした。

それまでは極端な話、「サッカー」という、一つの打ち込んでいる世界のことだけを考えていればよかったのです。
もちろん、他にも、友達関係、家族関係など考えることはありましたが、
「人生そのもの」を考えるという思考を始める余地は全くありませんでした。
いや、「考えずに済んでいた」と言うべきかもしれません。

しかし、それだけ没頭していた状態からの反動もあったのでしょう、
にわかにその「没頭している世界」から引き離されて、「考えずに済んでいた私の人生そのもの」に向き合わざるを得ない状況になった時、
強烈な虚しさに襲われるのでした。

「人生について考えよう」と言ったら、なぜ引くのか

共通の趣味を持った友達同士の会話」って、楽しいですよね。
同じ漫画が好きな人とで、「あの場面ってさ…」なんて話せば、相手も目を輝かせて食いついてくれます。
同じ音楽バンドが好きな人とで、「あの曲のあのメロディーがまた…」なんて話せば、盛り上がります。
釣り好き同士で、釣りスポットの話や、釣れた魚の話をしてもまた、楽しい時間となりそうです。
「好きなこと」の話題「趣味」の話題なら、自分の「好き」の感情を他人とシェアできる心地よさに浸れて、とても楽しい気持ちになれるのですね。
ところがそんな「楽しい会話」の中で突然誰かが、

「実は最近私、『人生』について考えてるんだけど…」

なんて言い出したら、どうでしょうか。
さっきまでの盛り上がった空気が一気に、サーッと引いてゆくのは想像に難くありません。
「急にこの人、何を言い出すんだ…」
「この暗い空気、どうするんだ…」
「何か辛いことがあって、思いつめているのか…?」
そんな、困惑なり心配なりが起きるかもしれません。

好きなことや趣味の話題と比べて明らかにそれは「暗い」話題と言わざるを得ないわけです。

人として生まれてきて、生きてゆき、成長し、年をとってゆき、そして最後は死んでゆく。
この、生まれてから死ぬまでの一生「人生」と呼びますが、
その「人生」そのものには、やはりどこか、拭えない「暗さ」や「虚しさ」があります。

ところが、かつての私のように、「サッカー」などの「好きなこと」に打ち込んでいられる間は、
この「暗さ」や「虚しさ」から離れられているような気がするのですね。
私の心が、その「好きなこと」に一点集中していますから、
少なくともその間だけは、「人生そのもの」に漂う「虚しさ」や「暗さ」を見なくても済みます。

しかし実際は、「離れられている」わけではないのですね。
ただそれを「見ていない」だけです。
しかもそれは、一点集中していられる間だけの、一時的なものです。
そんな「楽しいひととき」が終われば、私自身の中に潜む「人生そのものに対する虚しい気持ち」は、何ら変わることなくあり続けていることに気づきます。

「何か、一つの熱中できるものを見つけ、それに打ち込んでいたい」
この心は、自分の心の底にある、「人生そのものへの虚しさ」から目をそらしたいという気持ちの現れなのかもしれません。
そして「打ち込めるものを持っている人」は、首尾よく、その間だけはこの「虚しさ」から目をそらせている人で、
そういうものが見つけられていない人は、目をそらし切れずにいる人。
ただそれだけの違いで、
心の奥底に「人生そのものに対する虚しさ」を抱えていることに違いはないのですね。

仏教では、そんな人間の共通した姿を、
ちょうど「果てしのない海を漂っている」ようなものだと言われます。
「生きる」ということは、絶えず押し寄せる色々なストレスや面倒ごとや悩みという「波」を乗り越えながら、精一杯泳いでいるようなものだということです。
だけれども、「果てしのない海」なので、どこまで泳げばいいのか、どの方角に向かえばいいのか、見当もつかないままで、ただ精一杯泳いでいる。
そして、限り有る体力ですから、それが尽きれば、そのまま沈んでゆくしかない。
私達もまた、精一杯生きて、生きて…最後はやがて必ず死んでいく。
考えてみれば、そこに深い虚しさを禁じ得ないのですね。

そういう「海を漂うような姿」は、熱中できるものの「有る」「無し」に関わらず、共通した人間の姿であり、
そんな「闇」とも言うべき深刻な虚しさを心の奥底に抱えて生きているのが人間だということです。

そんな「闇」が、どのように表面上にあらわれているか、だけの違いで、本質的な姿は、私も他人も変わらない。
自分と他人、全然違うように見えているけれど、本当は些細な違いなのですね。
そう知らされると、他人のキラキラして見える姿に、必要以上に振り回されることは要らないのだと気づきます。
お互いに共通した現実の中で、精一杯生きているのだと分かります。
「人生の本質的な姿」を知っていることは、それだけ冷静な視点に立つことができるのですね。
表面上に見える「差」が本質的な問題ではなくなり、他人と比較しての、様々な「有る」「無し」は、小事となります。

そんな「有る」「無し」で優劣を断ぜられるような価値観に振り回されることなく、自分の生きる道を精一杯歩むための大切な視点と言えるでしょう。