「感謝」が出てくるしくみ
「幸せを絵に描いたような場面」
と言ったら、どんな場面を想像するでしょうか。
結婚式の披露宴で、みんなから祝福されて拍手をもらっている場面とか
アスリートが大きな大会で優勝して、表彰台で涙を流して喜んでいる場面とか
ずっと「入りたい」と夢見ていた大学に合格できた場面とか
長年がんばって勉強した末にとうとう、目指していた資格を取ることができた場面とか
そんな人の嬉しそうな表情は、容易に目に浮かぶと思います。
では、そういう人の口から出る「言葉」って、どんな言葉でしょうか?
そうですね、「感謝」の言葉ですよね。
「皆さんのおかげです。本当にありがとうございました。」
こんな感じだと思います。
「どうだ、見たか!私の努力と実力を!お前たち、思い知ったか!」
個人的にはこういう発言、嫌いじゃないのですけど、これはちょっと少数派でしょうね。
やっぱりまず出てくるのは感謝の言葉です。
応援してくれた人たちへ、
支えてくれた人たちへ、
また自分を磨いてくれたライバルたちへ、
「お陰で、こんな結果が得られました。」
と感謝一杯を述べて、そして、
「これからも皆さんに応えていけるようにがんばります」
という決意を述べたりしていますね。
これを仏教では、
知恩、感恩、報恩といいます。
恩を知り、恩を感じ、そして、恩に報いる。
仏教ではこの「恩」をとても大切にします。
「私はいま、どんな恩を受けているのか」
つまり、
「私がこんな結果を受けられているのは、どんな人の、どんな物の、おかげなのか。」
その自分が幸せな結果を得られる「原因」となってくれた存在ですね。
それらを「恩」と言いまして、
この「恩」に目を向けることは、とても大切なことだと言われます。
「恩」が見える視点とは
「恩」をよく知りなさい。
この教えは、
「どんな結果にも必ず原因がある」
という因果の道理に基くものです。
「結果」と言っても色々ですが、私達にとって大切な「結果」は、「私の身に起きる結果」ですよね。
海外の遠く離れた国の経済的な変化という結果や、
宇宙のはるか彼方で起きている物理的な変化という結果や、
某企業の不正行為が明るみに出てしまったという結果や、
有名人のスキャンダルという結果
そんな、人々の興味を引き、メディアで報道されるような「結果」もありますが、
私達一人一人にとっては、それらテレビの中で報じられるどんな大規模の「結果」よりも、
今日、私の身に何が起きるのか?
来月、私の生活にどんな変化が起きているのか?
来年、私はどのように変われているのか?
という、「私の身に起きる結果」の方がずっと大切だと思います。
そんな「私の身に起こっている結果」には、どんな原因があるのか。
仏教はこのことを重点的に説くのですね。
自分に、恵まれた幸せな結果が起きた場合に、それにはどんな原因があるでしょうか。
もちろん、自分自身が積み重ねてきた努力の結果という事は間違いなく言えます。
「努力」というのは私の「行い」であって、それが結果の「種」になっている事は間違いありませんが、
「行い」だけで、自分の身に起きる、目に見える「結果」が出来上がるわけではありません。
「自分」だけで完結している「結果」など、ありえませんから。
私達は常に周囲の「何か」と関わりながら生きています。
その「関わり」のことを「縁」と言います。
あなたが今読んでいるブログも「縁」ですね。
あなたがどこかに座っているのであれば、その椅子も「縁」です。
どこかの部屋にいるのなら、その部屋も「縁」です。
さらにその部屋を用意してくれた人もまた「縁」です。
今日食べたご飯も「縁」だし、そのご飯を生産し、流通させ、自分の目の前に用意してくれた人も「縁」です。
一日一日…どころか、一瞬一瞬が常に、何かの「縁」に触れ続けて、私の人生は成り立っています。
恵まれた結果が得られたという事は、自分自身の努力という「行い」に、様々な「縁」が加わって起きた結果なのですね。
「恩」を大事にするという事は、それらの「縁」を大事にするという事です。
自分自身の行い(これを「因」と言います)はもちろんですが、その「因」にどのような「縁」が加わって、
私の恵まれた結果は起きたのだろうか。
この因縁をよく観てゆくことが、最も道理にかなった「現実」への向き合い方なのですね。
結婚できたという結果でも、収入が上がったという結果でも、大学に合格したという結果でも、
ただ表面的な「結果」だけをみて、「やった!」と喜ぶのと、
その「結果」に対する因縁をよく観て、
これほどの「恩」があっての、今の結果なのだなと、深く有り難く感じるのとでは、
喜びの深みが全く違いますよね。
そしてそういう喜びは間違いなく、次の善い結果にもつながってゆきます。
幸せの「因縁」を大切にできるという事は、その「因縁」でまた、次の幸せを造りだせるという事なのですね。
より深く、より長く自分の人生を幸せにするために、その因縁をよく観て、「恩」をよく知る事はとても大切です。
最高のコンディションを作る「恩」
自分に恵まれた結果が起きて、
「やった!」
という大きな喜びに包まれる場面に、その因縁を観て、恩を深く感じる事はもちろん大切なのですが、
その喜びの瞬間から、もうちょっと時間を遡って考えてみてください。
たとえば、アスリートが何かの競技に挑んで、金メダルを取ったとします。
大会の結果が発表されて、自分の優勝が決まり、金メダルを手中に収める瞬間、これが一つのハッピーエンドの瞬間とすれば、
もうちょっと遡ると、「全力で競技に挑む真っ最中」という時があります
もうちょっと遡ると、「まさにこれから競技が始める、緊張の瞬間」という時がありますし、
もうちょっと遡ると、「大会の前夜、最後の調整をして、ゆっくりと床につく」という時もあるでしょう、
さらに遡って、「その大会に向けて一生懸命トレーニングしている」という時もあります、
さらに遡ると、「よし、この大会に出よう」と決めた瞬間があります。
目指し始めた時から、どんどん、どんどんと「金メダル獲得の結果」に向けて、私の現実が近づいているわけですよね。
その一瞬一瞬に「私の結果」があるわけです。
「金メダル獲得」の瞬間の「点」だけがあるのではなくて、そこに向かう「線」が存在しているのですね。
「恩」を知る場面として一番分かりやすいのはもちろん、最後の瞬間の「点」なのですが、
私達が「知恩、感恩、報恩」を実践する時、
その「点」だけではなく、「線」において実践することが大切です。
「最後の『点』にならないと恩を感じることができない」
では、それは余りにも勿体無いことなのです。
「大会に出よう」と決めた時にも、
「一生懸命にトレーニングをしている最中」にも
「大会の前夜を迎えている時」にも
「大会に挑む所に立っている時」にも
「競技に挑んでいる真っ最中」にも、
あらゆる場面に必ず「恩」があります。
因縁を観るという視点をしっかり持つことが出来れば、それらの「恩」に気がつくことができるはずです。
「今こうして、トレーニングが出来ている、大会に挑もうと思えるくらいの実力を身に付けられている」
こんな結果は、誰でも受けられるわけではありません。
「大会当日、その会場に選手として立つ事ができている」
こんな結果も、よほどの因縁が重なった自分だけに起きている結果と言えます。
そういう因縁をちゃんとみつめることができたなら、必ずそこに「恩」を感じて、
「ありがたいな…」
という深い喜びを感じ、「この恩に応えよう」という「報恩」の気持ちになるはずです。
そしてその気持ちこそがまた、幸せな結果に至るためにとても大きな力になります。
何かの大会が始まる瞬間って、緊張しますよね。
そこに選手として挑むとなると、そこまで重ねてきた努力が大きければ大きいだけ、
「それが報われるかどうかが、この瞬間にかかっている」
となるわけですから、そりゃ、緊張しますよね。
不安な気持ちが起きてくるかもしれません。
怖くなるかもしれません。
逃げ出したくなるかもしれません。
だけどそんな時に、
「今、選手としてここに立つことが出来ている」という結果に対する「恩」をみつめて、
その「恩」を、「有り難いな…」と感じることが出来たら、どうでしょう。
家族や友達やチームメイトやコーチ、色んな人に、支えられ、励まされてここまで来たこと。
その一つ一つに対して心から感謝できた瞬間、どんな気持ちになるでしょう。
その瞬間、緊張や不安や恐れが、すーっと引いていくのですね。
なぜならその瞬間、大きな幸せを感じられているのだから。
実は、求めているものは既にあるのだから。
だから、この先の結果に対して、必要以上に気負う必要はない。
これまで通り、今の幸せを手に入れるために重ねた努力を貫けばいい。
そういう、穏やかで、力強い気持ちになれるのが、感謝できた時です。
「感謝」の気持ちになれた時は、もうそこに「ネガティブな感情」は共存し得ない。
そんな強い力をもった気持ちが「感謝」の状態です。
「感謝」は、いわば「心の行い」の一つといえます。
心でそんな素晴らしい「種」を蒔く事自体が、自分の最高のパフォーマンスを引き出すのですね。
最終的な結果が得られたその瞬間だけでなく、そこまで至る「道」での一歩一歩において、
常に因縁を観て、恩を知り、感謝できる。
そういう視点と習慣を持つ事が、人生を最高に輝かせる土台となることでしょう。