「信念」と聞くと綺麗なように思えるけど…
「頑張ろう…」
「やってみよう…」
「始めてみようか…」
「立ち向かってみよう…」
と、一歩踏み出して「行動」を始める瞬間が訪れれば、
それは、
停滞していた現実が動き出す瞬間であり、
苦境から脱するための一歩を歩み始めた瞬間であり、
その時から光が差し込むように、希望が見えてきます。
寝ていても、待っていても、「いい事」が向こうから近づいてくれる事は、そうそう無いものですよね。
もちろん休み事が必要な時はありますし、しばらく何もしたくないような時期も誰だって、あります。
「お休み」モードになる時期が必要なことも、もちろんあるでしょう。
それでもやっぱりどこかで、「よし!」と、「行動」を始めないと状況は良くなってはいかないでしょう。
そんな「行動」モードにシフトするには、そうさせる「動機」が必ずあります。
「やってみよう、やってやる!」
「頑張ってみようか…」
「よし、動き出そう!」
そんな風に私達を「行動」に駆り立てるための動機って、どんなものがあるでしょう?
「どうしてもアレを手に入れたい!」
「バカにしている周りの奴らを見返してやりたい!」
「このままじゃ、将来が不安…何とかしなければ…」
「家族や友達が自分から離れていきそう…変わらなきゃいけない」
「寂しくてたまらない、心ゆるせる仲間やパートナーが欲しい」
「家族の生活を、もっと豊かにしてあげたい」
「お世話になった人たちに、恩返しをしたい」
挙げてみると、色々と出てきますね。
気がつくと思いますが、ポジティブな思いもネガティブな思いも、いずれも力強い行動の動機になるのですね。
普通に考えたら、ポジティブな気持ちで何でも頑張れれば、それが一番いいように思うかもしれません。
確かに理想を言えばそうかもしれません。
しかしそれはあくまで「理想」であって、現実はそんな綺麗にはいきません。
光があれば影があるように、ポジティブ感情もあれば、必ずネガティブ感情もあります。
「こんな立派な人は、きっとポジティブな思いでずっと生きてきたのだろうな」
と思える人もいるかもしれませんが、実際に聞いてみれば、決してそんなことはないなんて、よくありますよね。
「今でこそ、こうして立派なコトを言ってるけれど…
結構な黒歴史があって、出来れば墓場まで持っていきたいネガティブに満ちた時期があるのですよ。
というか、今だってネガティブが爆発することなんて、いくらでもあるよ。」
そんな本音はきっと、つつけばわんさか出てくることでしょう。
「どんな立派に見える人間でも、必ずネガティブを持っている」
この視点を持っていないと、勝手に理想を抱いて、勝手に幻滅してしまうということになりかねません。
「すばらしい信念に生きていると思ってずっと尊敬していたのに、
信念なんて、嘘っぱちじゃないか、ただのエゴであり、ただの自己顕示欲でしかないじゃないか。」
と、尊敬していた人に失望した、という話を聞くことがありますね。
これはある意味、「信念」を誤解していると言えます。
誰しも「ポジティブ感情」「ネガティブ感情」の両面を持っているもので、
「信念のある人」は、そのいずれであろうと、自分の目指す「結果」のための原動力にしてしまえる人なのですね。
「人生をかけて、どうしても成し遂げたいことがある。」
そういう人は、自分の中の「光」であろうと「影」であろうと、「ポジティブ」であろうと「ネガティブ」であろうと、
あらゆるエネルギーを、その気高い志を果たすための原動力として激しく燃やせるものです。
外から見れば、その「志」へ向けてのエネルギーが「ポジティブ」なのか「ネガティブ」なのかは見えませんから、
果たそうとする悲願が素晴らしいと、
「きっと、綺麗なエネルギーの塊のような人なのだろう」
という思い込みをしてしまいがちです。
そんな視点で見てしまうと、後で勝手な幻滅をしてしまうハメになりかねません。
「信念」は、「ポジティブ感情の塊」なんていう代物ではありません。
「ポジティブ」も「ネガティブ」も、果たしたい「結果」に向けて激しく燃やし、行動の原動力と出来るものが「信念」の正体です。
エネルギー源なら、無尽蔵…?
あらゆる行動の「動機」をなす人間の心を仏教では「煩悩」と教えられます。
人間の行動を突き動かすものは「煩悩」だと仏教は教えるのですね。
「あらゆる人間は108つの煩悩を持っている」
という話を聞いたことのある人は少なくないと思います。
108つもあるものが煩悩ですから、「煩悩って何ですか?」と言われると、その全部を分かってもらえるような説明はなかなか難しいですね。
ですが、その108つの中でも代表格のようなものがありまして、
そしてその代表格がまた、一般的な煩悩のイメージとも一致します。
それが「欲望」です。
確かに、「煩悩がムラムラと起きてきて…」などと言う場合、それはたいてい「欲望」の事ですよね。
まあ「欲望」にも色んな欲がありますので、「何の欲か?」は置いておくとしまして、
様々な人間の欲望が、煩悩の代表格をなすものです。
人間の行動の裏側には常にこの「欲望」が盛んに動きづくめで、行動を促す源泉となっています。
その「欲望」が、
「満たされていない」状況なのか、
「満たされている」状況なのか、
言ってしまえばこの2つしかありません。
そしてこの「満たされていない」状況という、いわゆる「不満」状態が、
実に行動を生み出す力強いエネルギー源となることは、想像に難くないでしょう。
この「不満」というネガティブ感情は、極めて一般的な感情で、周りを見渡せば、(もちろん自分も含めて)誰でも持っていますね。
「行動」を生み出す力強いエネルギー源は、誰もが持っているという事です。
「周囲の人たちが自分を評価してくれない…」
「収入が一向に上がらない…」
「自分らしさが発揮できていると思えない…」
そんな「満たされなさ」がどんどん蓄積され、募りに募ってゆく…
という状況にある人は決して少なくないでしょう。
そのネガティブ感情から、「よし、こういう行動をしよう!」という「決断」に至れば、力強い原動力を有する「行動」が始まります。
…と、言うのは簡単なのですが、これがなかなかそうは行かないから「ネガティブ感情」が世に溢れていても、
それを源泉とした「行動」や「努力」は、少なくなってしまうわけです。
ということは、要は、
「感情」→「決断」
この流れさえマスターすれば、あらゆる感情を源泉として「行動」を起こすことができるというわけですね。
私達には、色んなネガティブ感情がモヤモヤと渦巻いています。
その落とし所をいつも、
「よし、こういう行動をしよう」という「決断」に至るようにする習慣をつけるべきなのですね。
そうでなければ、いつまでたってもイヤなモヤモヤは渦巻き続けて、やがてそのネガティブ感情は、
「あの人が、ああだから…」
「この人が、こうだから…」
「この会社が、こんなだから…」
「この国の政治が、こうだから…」
悪者探し、犯人探しに発展してしまい、「自分はそれらの被害者」という意識が芽生えてしまい、
そうなるともう「行動の決断」どころではなく、いつまでも、ただ「犯人」を恨み続けて、自分を「被害者」のポジションに固定してしまいます。
これでは「ネガティブ感情」は、ただ「ネガティブ感情」でしかなくて、現実は何一つ変わらないどころか、不満はただ募るばかりです。
だからこそ、負の感情は常に、自分の行動を決めるエネルギーへと持っていくべきなのですね。
エネルギー変換の鍵は
「決断をする」という事は、「因果応報の道理」に則った思考をすることに他なりません。
今の不満を生み出すこの現実、この「結果」は、すべて自分の行動を「原因」として報いであり、
あらゆる「結果」は、自分の行動という「原因」に応じて報いるものである。
この「因果応報の道理」に則った思考からは、今のモヤモヤに対してとるべき道はただ一つ。
現状から脱却するための「行動」を決断すること。
これ一つです。
善きにせよ悪しきにせよ、私に報いる「結果」は、私の「行動」が原因なのだから。
望む結果を生み出すための「行動」を決断するしかないのですね。
負の感情を、ただ負の感情のままでモヤモヤし続けるのか、
それとも、その感情エネルギーを「行動の決断」という一歩に繋げられるのか、
それはこの「因果応報の道理」をどれだけ深く理解しているかで決まります。
自分の「行動」と自分に報いる「結果」との関係(因果)を、どれほどごまかさずに観ることができるか。
この視点は、常に養うように努めたいものです。
仏教は、この因果を詳しく説いています。
土壌に種を蒔けば、人が見ていようといまいと、時期が来れば芽が吹き実りが得られます。
人間の行いはそんな「種」のように、ごまかしようもなく、自分の報いを生み出すものです。
逆に「種」を蒔くことなく、どれだけ報いを心待ちにしても、私にその報いは訪れません。
この「行動」の持つゆるぎない「力」を確信していればいるだけ、
犯人探しばかりしても詮無いこと、
被害者意識を募らせても詮無いこと、
「よし、やってやる」
「こういう行動を始めよう」
「この努力、なんとしてもやり遂げよう」
そんな「行動に対する決断」のエネルギーとして燃えたぎらせることができます。
人間に煩悩がある限り、それは激しく燃え続けて様々な感情を起こし続けます。
文字通り「煩わせ」「悩ませる」ものが煩悩ですから、負の感情が、次から次へと沸き起こってくるのが人間です。
それは、どんな立派な人格者でも同じ事です。
この「煩悩」そのものを無くすことも減らすことも変えることも、人間には不可能なのですね。
ならば出来ることは、「因果応報」の鉄則に則って、煩悩の生み出す感情のエネルギーを、「行動」に踏み切る源泉にすること一つです。