一度でも名前を呼ばれたなら…
仕事で戸籍を見ることが多いのですが、たまに戸籍の「名前」の欄に
「無名」
と記載されているものがあります。
それは、名前が付けられる前に死亡した人の戸籍だそうです。
きっと、生まれて間もなく死亡したという場合が多いのでしょうね。
そんな時は名前の欄に「無名」と記されるそうです。
だけど「無名」と書かれた戸籍は、紛れもなく一人の人間の命がこの世に生み出され、わずかでも「生きた」ことの痕跡です。
そこにも私達と同じ「人生」があったわけですね。
その子は、誰かに「名前を呼んでもらう」ということさえも、なかった。
親から名付けられることもなく、死亡届が出されて、戸籍にただ「無名」と記録されて、終わる。
そういう人生もあるということですね。
私には、親からもらった名前があります。
これまで色んな人と出会って、色んな人からその名前を呼んでもらいました。
別にそんな特別なことだと思うこともなく、当たり前のようにそうやって生きてきました。
場合によっては、名前を呼ばれることで
「面倒だな…」
「嫌だな…」
「呼ばれたくないな…」
なんて思うことさえもあります。
そんな中で、「無名」と記された戸籍を通して、一度も名前を呼ばれなかった人生に接すると、ハッとさせられます。
理屈抜きに、「悲しいことだな…」と思うのですね。
せめて一度でも、親からでも誰からでも、名前を付けてもらってその名前で呼ばれるということがあったなら…
そんなことを考えてしまいます。
そして、色んな人から、何度も何度も、この名前を呼んでもらえていることの、なんと有り難く恵まれていることかと思います。
「名前を呼ぶ」にもいろんな場面がありますね。
その場面その場面に、特定の思いが込められて、その名前が自分に向けて発せられます。
その「名前」を通して私は、いろんな他人の気持ちを受け取っているわけですね。
自分を頼る気持ちかもしれない。
心配する気持ちかもしれない。
バカにする気持ちかもしれない。
親しみの気持ちかもしれない。
愛情の気持ちかもしれない。
憎しみの気持ちかもしれない。
だけどまぎれもなく他人から存在を認識され、特定の思いを向けてもらっている証です。
そういったことを通して他人との関係が作られて、その関わりを通して自分の生きがいを見つけて、自分の目指す方向が見えてきて、自分の人生が造られていく。
当たり前のことのように思うこのことが、なんだかとても貴重なことのように思えてきます。
それと同時に、
「自分はあと何回、名前を呼んでもらえるかな」
ということもまた、考えさせられます。
間違いなくそれは、限られているはずです。
あと1万回ぐらいか。それとも10万回ぐらいはあるか、わかりませんが。
無数の儚き記録
仏教では、「諸行無常(しょぎょうむじょう)」と教えられます。
あらゆる物には、常が無い。
いつまでも続く(「常」)というものは一切「無」いということです。
「私がこの名前でこの人間世界に生きていられる」
このことも、いつまでも続くものではなく、限られた間のことだということです。
やがては、自分に呼びかけてくれる全ての人と別れを告げてこの世を去る時が必ず来る。
そしていつかは、もう自分の名前を誰も知らないという時が来るでしょう。
その時間は、長いように思えて実はとても短いのかもしれません。
「これから何十年」と聞けば、そうとう長い間のことのように思いますけど、過ぎ去った数十年はあっという間だと言われます。
「戸籍」を見ていると、そういうことを感じます。
私たち一人一人の戸籍は、いろんな理由で変わることがあります。
結婚をして「入籍」をすれば、夫婦で新しい戸籍を作りますので、新たな戸籍が生まれます。
また本籍地を変更する「転籍」という手続きを通して変わることもあります。
法律の改正で戸籍の記載方法が変わることにより、新たな戸籍が作られることもあります。
とはいえ、わずか数枚の戸籍に、人の出生から死亡までの一生が収まってしまいます。
過去の人たちの誰もが、どこかの年月日で「死亡」と記載されてその人生を終えています。
一体何人の人が、戸籍に記録されているのでしょうね。
日本で最初に戸籍制度が全国的に始まったのは、飛鳥時代の大化の改新の時だと言われています。
それから1300年以上、日本の人々の出生や死亡が記録され続けているわけですね。
数多くの人の名前がそこに記されて、そして最後は「死亡」で締めくくられています。
「死亡」と書かれなかった人は、一人もいないはずです。
もちろん私の戸籍にも、どこかの年月日で「死亡」と記載される時が必ず来ます。
そして数多くの日本国民の「出生〜死亡」の記録の仲間入りをするわけです。
本当に人生様々で、いろんな人生が戸籍がからわずかなりと伺えます。
養子縁組をしたり、それを解消したり。
婚姻をしたり、離婚をしたり、そしてまた婚姻をしたり。
中には国籍が変わって、外国の戸籍に移る人もいます。
そして中には、ただ「無名」と戸籍に記されるだけの人もいます。
だけど、どの人生も、儚く限られたものだということだけは、共通していることだなと感じますね。
何枚もの戸籍に渡って記録を残す人も、「無名」で終わる人も、そこは共通しています。
限られた人生に築く因縁
だけど、戸籍からは読み取れない、その人の思いや行動がその人生にあったわけですね。
何を思い、どんな行動をし、どんな人にどんな影響を与えたか。
数多くの戸籍の背景にさまざまな人生があったことでしょう。
「無名」の人だって、母親の胎内から出てから名付けられることは無かったけれど、胎内で何かを思ったでしょうし、何らかの行動をしたはずです。
親からの色んな思いを向けられていたに違いありません。
紛れもなくその人の人生はあったのですね。
じゃあ、私はどうだろうか。
自分の戸籍に「死亡」と記載されるまでの間、私は何を思い、どんな行動をするだろうか。
そして、どんな人と関わって、影響を与え合うのか。
「この名前で、人間として生きていられる時間は限られている」
ということを自覚したら、また違った風に自分の生き方を考えられることと思います。
仏教では、私達の行いのことを「業因(ごういん)」とか「因」と言われます。
何かを思い、何かを言い、そして行動する。
その一切の行いは、私の「因」として蓄積されていきます。
そして、それら因を作りながら私達はいろんな人、物、場所との関わりを作っていきます。
そういう関わりのことを、「業縁(ごうえん)」とか「縁」と言われます。
とりわけ人との縁は私たちにとっては、大きな意味を持ちますね。
「人間関係」が常に、多くの人の関心事であることは言うまでもありません。
生きるということは、これら仏教の言葉で表現するなら
「どんな因を作り、どんな縁を築いていくか」
これに尽きると言えます。
そして、それが出来る時間は限られているということです。
それを「限られている」との自覚無しに、ただ徒に過ごしてしまえば、「因」も「縁」も大事にすることなく、終わってしまうことになるかもしれません。
私達一人一人、望むと望まないとに関わらず、特定の名前を付けられて、それぞれの縁の中にすでに送り出された。
そして、限られた時間はどんどん過ぎています。
この縁の中で、自分は何を為すべきか。
そしてまた、どんな縁を選んでいくべきか。
その因と縁とで、どんな人生を築き上げたいのか。
「無名」と記された人生に触れて、あらためてそのことを考えさせられました。
私達に無常を教え、生き方を考えさせてくれる縁は、身の周りに数多く潜んでいるのかもしれません。