「利他」は本性に向き合う道
仏教に「雑毒の善」という言葉があります。
毒の混じった善という意味ですが、
「善」というのは「善い行い」のことで、その特徴は「利他の精神」です。
「利他」とは「他を利する」ということですから、「周りのためになることをする」ということです。
俗に言う「世の為、他人の為」ということですね。
家族のため、地域や社会のため、日本という国の発展のため、世界平和のため…
規模は様々ですが、「世の為、他人の為」になるよう心がけて生きている、努力している、そういう姿は尊敬の対象となりますね。
そんな「善」に、「毒が混じっている」と言われているのが「雑毒の善」ということですが、「毒」とは何でしょうか。
それは、
「自分はこれだけやっている…」
という心です。
この心は、「見返りやお礼を求める心」や「他人を見下す心」となって現れてきます。
この心の本質は人間の「欲望」です。
「世の為、他人の為」と心がければ心がける程に、どうしても「自分はこれだけやっている…」という意識がこびりついて自分から離れてくれない。
これは人間は基本的に欲望で動いているという性質から、どうにも避けがたいことです。
欲は、言うまでもなく「自分の為、自分の為」という方向にはたらく心です。
「利他」を行うことは、この欲に逆らうことになります。
そうすると、利他を行おうとすればするだけ、自分の欲が露わになってきます。
そして、「これだけやっている…」という手柄心やら、「少しぐらい評価されても…」という見返りを求める心やら、他人を見下す心などが余計に見えてきます。
この「逆らう」というのは、実は「向き合っている」ことでもあり、自分の欲が際だって知らされてゆくことになります。
反対に、欲のままに行動している間は、実は自分の欲にあまり気がつくことはできません。
利他を行おうとして欲に逆らうことで、自分の激しい欲が余計に知らされることとなります。
それはそのまま自分の欲に向き合っていることであり、自分の本性を知らされていることになります。
つまり、「雑毒の善」の「毒」を知らされるのです。
表向きの思考と全くうらはらの本性
「結局、自分が一番可愛いんだと思う。」
「自分のことしか、考えられないのが正直なところだと思う。」
こういうことを言う人が、逆に周りに気遣う行動をしている人だったりします。
「いや、あなたそんなことないでしょ。自己中心どころか、すごく周りを気遣っているでしょ。」
と傍目からは言いたくなるのだけど、本人は本気でそう思っているのですね。
だけどこれは実はとても自然なことです。
周りに気遣う行動に心がけるからこそ、「自分のことばかり考えている」「自分が一番可愛い」という本性を知らされていたりするものです。
利他に向かおうとすればするだけ、知らされてくるのは自分の本性、人間の本性です。
「私がこんなにやっている…」
「私にもっと評価が来ても…」
「俺が…」「私が…」
という、利他に向かいながらも自分のことばかり考えている心、結局、自分が一番可愛いという私たちの本心が知らされます。
この本性を仏教では、「我利我利(がりがり)」と言います。
「利他」の反対ですね。
「利他」は「他を利する」ことで、「世の為、人の為」という心ですが、
「我利我利」は「我の利、我の利」ということで、「私の利益を、私の利益を…」と求める心です。
「自分が一番可愛い。自分さえよければいい。自分のことしか考えていない。」
どこどこまでも自分中心の心のことです。
私たちが表向きに
「あなたの為、あの人の為」
「家族の為、会社の為、社会の為…」
という体裁で、仕事をしたり、気遣いをしたり、社会貢献をしている、その行動の底で確かに動いている本性。
それが、
「自分はどう見られているか、自分はどう評価されているか、どんな感謝されることか、あの人より自分の方がずっと立派だ…」
「自分が、自分が…」
というどこどこまでも自分中心に動いてゆく私の本性です。
仏教は、私たちが目を背けたいことをあえてズバリ説き切る、というところがあります。
誰も自分の本性を「我利我利」だなんて思いたくない。
仏教は、それをえぐり出して言語化して明確に教えます。
自分の本性をごまかさずに見つめて、明確に知ることが何より大切だからです。
奥底の「我利我利の本性」に光を当てると…
「自分の心のコントロールは難しいな」と感じることはないでしょうか。
「集中しなきゃいけない」という場面で、なぜか色んなことを思えてしまって、心があっち飛び、こっち飛びで全然集中できずに悩むことは誰でもあると思います。
時に、自分でもイヤになる心が出てきて自己嫌悪に陥ることもあります。
今、考えなくていいことがなぜか考えられてしまう。
「こんなこと思っちゃいけない」ということが、なぜか思えてしまう。
個人差はあるでしょうけど、激しく移り変わる自分の心についつい翻弄されたり浮き沈みすることがあると思います。
仏教では、これをコントロールする方法が教えられているのでしょうか?
座禅とかしたら、こういう心を落ち着けることができるのでしょうか?
と、仏教に対して「自分の心のコントロールの方法」というイメージを持っている人も少なくないようです。
しかし正直に言うと、自分の心のコントロールはやっぱり難しいです。それは、仏教を学んでいても同じです。
心が激しく移り変わるという性質は、仏教を学んだからといって変わるものではありません。
ただ、仏教では、その移り変わる心の本質はどこにあるのかということを明確に教えられています。
仏教を学ぶことでそれを、明確に知ることができます。
「こんなイヤな心は、どこから出てくるのか?」
「こんなに激しく移り変わる心の本質はどこにあるのか?」
その源を「我利我利」という私の本性だと仏教では明確に教えます。
私の心の奥底に常に我利我利の本性が渦巻いていて、それが縁に触れ折に触れ表面化してきて、時に自分でも驚くような醜い心が顔を出します。
「時々表れてくる」ということは、「奥底には常にある」ということです。
「無い」ものが表れているのではありません。
奥底に常に有るから、それが時折顔を出して表面化するのです。
心の奥底に渦巻く我利我利の本性を明確に知っているということは、とても大きなことです。
もしこの本質を知らないということは、自分の中の何か得体の知れないものに振り回されているということになってしまいます。
「得体が知れない」「ハッキリしない」「モヤモヤしている」
これはとても苦しいことです。
他ならぬ自分の心がこれだけ激しく動いている元であるのに、そこが「得体が知れない」。
こんな気持ちの悪いことはありません。
仏教はこれを、明確にし、ハッキリと教えます。
それは「我利我利」という本性である、と。
もちろん「我利我利」というものは、決して綺麗なものではありません。
それどころか、知れば知るだけ醜く、恐ろしい性質です。
だからこそ誰もが目を背けたいし、見たくないわけです。
あまり見てしまうと自分のことが嫌いになりそう。自己嫌悪に陥りそう。人間不信になってしまいそう。
だから、そういうことをズバズバと説く仏教は聞きたくない、と思う人がいてもおかしくありません。
だけどそれは逆です。
問題は「ハッキリしない」ことなのです。
自分の本性が「ハッキリしない」から、表面的な心の動きに翻弄されて自信過剰になったり、自己嫌悪に陥ったりしてしまうのです。
「自分」に対して、「人間」に対して、モヤモヤした感情が絶えないのは、「人間の本性」に対して明確でないからです。
だからこそ、誤魔化さずに直視するべきなのです。
自分の本質をごまかさずに直視する。
「我利我利」の本性を明確に直視して、知る。
そうすることで、逆に冷静になれます。
どんな感情が表面で動こうとも、「我利我利の本性がこんな風に表れているのだな」ということは、分かっている。
「我利我利」の自分の本性を明確に知っているということが、日々起きてくるあらゆるモヤモヤから、いち早く脱却するための大きな助けになるのです。