人間にさえ生まれていなかったら…?
どうして「人間世界の苦しみ」というのはこんなにも、
複雑で、ドロドロしていて、心底疲弊してしまう…
なんとも悲惨なものなのだろうか。
「人間である」が故に、味わわなければならない独特の苦悩に、
心底疲れ、心底嫌気がさす…
そんな声が絶えないのが、人間世界の現実なのかもしれません。
「犬や猫にでも生まれていたらこんな苦痛を味わうことはなかっただろうな」
と、そんな世界に憧れを持つことさえあるかもしれません。
確かに動物の世界と比べて、「人間関係」の悩みは、たいてい、複雑を極めるものが多いですよね。
ただ、腹が減ったとか、頭が痛い、お腹が痛い、眠い、寒い…
などという悩みとはまた異質な、とても複雑で、とてもモヤモヤしていて、精神的に堪える悩みです。
相手がとても神経質な人で、どう接したらよいのか、どう話したらよいのかに悩んで、神経をすり減らしてしまうとか
周囲の人がなんとなく自分を嫌っているような気がして、言いようのない孤独を感じたり、
身近な人の言動がどうしても気に触って、嫌悪感に苛まれてしまって悩んだり、
ちょっと前まで好意を寄せてくれていた人が急に手の平を返したような態度に豹変してショックを受けたり、
自分の不用意な発言で誰かを深く傷つけてしまって、後悔に暮れてしまったり…
挙げればどれだけでも出てきますが、人間世界に生きているがゆえの、「人同士の悩み」の精神的なダメージは、非常に大きく、複雑を極めます。
それと比べれば、動物たちはなんともシンプルな世界に生きていることでしょうか。
腹が満たされるかどうか、ぐっすり眠れるかどうか、オスと、メスと、交尾できるかどうか…
人間関係と比べて、複雑な面倒くさいことに苛まれずに済むような気がしますね。
だけど考えてみれば、動物の世界にもまた、動物の世界だからこその苦しみがあり、人間世界では決して理解できないような苦痛にあふれているとも言えます。
私達のように、食事を常に確保できていて、「今日食べるものがない」なんて考えられない、なんて常識は彼らにはありません。
肉食動物たちは、狩りに失敗したらその日、お腹を満たすことはできません。
だから彼らにとっての狩りは命がけですね。
何日も狩りに失敗して餌にありつけなかったら、その分栄養を摂れないのだから、体力もどんどん落ちていきます。
すると余計に狩りの成功率は下がっていきます。
すると余計に餌にありつけなくなってしまい、生存は絶望的になっていき、「餓死」という現実が待っている…
そんな現実に生きている彼らの苦しみを私達が理解することは、難しいですね。
リアルに「餓死」という現実に近づいてゆく…
なんて経験は、この日本で生活していて、ちょっとありえないですよね。
草食動物は、生えている草を食べて生きていけるので、まあ草は逃げないですから、比較的食料を確保しやすいでしょうね。
肉食動物よりは食料の確保はしやすくなりますが、その分、「食われる」という現実が彼らにはあります。
なにせ、肉食動物たちは命がけで、自分たちを狙ってきますから。
そんな、命がけで襲ってくる猛獣たちから命がけで逃れなくてはならない。
そんな宿命を背負って彼らは生きています。
それはもう、種が存続している何千年、何万年、あるいは何百万年もの間、「食われる」リスクを背負って生きるという営みを種全体で続けてきました。
なのでそういうリスクは彼らのDNAに刻み込まれているハズです。
次の瞬間に、すぐそばの茂みから自分を狙う猛獣が襲いかかってくるかもしれない。
喉笛を噛み切られて、動けなくなってしまったところに、鋭い爪と牙とで肉体が裂かれて、息絶えながら食われてゆく…
そんな無残な姿に、次の瞬間にはなっているかもしれない。
これは私達にはとても想像もできない恐怖ですね。
そんなシビアすぎる恐怖の中で、常に怯えながら彼らは生きています。
そして、そんな恐怖がDNAレベルで刻み込まれているので、たとえ人間に飼われて安全な環境に生きていても、その野生の感覚は失ってはいません。
「何か異変があれば、それは食われる危険かもしれない…」
「もしかするとこの餌の後は、もう食い物にありつけないかもしれない…」
あくまで彼らはそういう世界に生きているのですね。
「人間が保証している」なんてことで、心から安心を感じられるものではないでしょう。
動物たちが、飢餓に恐れることなく、食われる危険に怯えることなく、当たり前の安全の中で生活するということは、叶いません。
たとえ人間が、彼らに人間と同じ安全を保証したところで、
彼らが人間でない以上、私達と同じようにその安全を自分の現実とすることはできません。
本能的に、DNAレベルで刻み込まれるほど、彼らは飢餓と捕食の恐怖に怯えて生きなければならない。
そんな苦しみは、私達人間にはとても理解できないでしょう。
「私ほど不幸な者はない」と思うのは…
私達は、彼ら動物のような「飢餓や捕食と隣合わせ」という危険は生まれた時からクリアできているわけです。
すでにそういう「安全」という環境が与えられています。
その土台の上で「人間関係」という人間独特の苦しみを味わっているということなのですね。
もし、私達がその「土台」を失う危機に晒されたらどうでしょうか。
おそらく「人間関係」のことなど問題にもならないことでしょう。
どんなに他人との複雑な関係に深く悩んでいても、
もし、目の前に自分を餌にして喰らおうとする捕食者が現れたなら、そんな悩みは吹き飛んで、この危機から逃れることしか考えないはずです。
そんな、私達とは「次元の違う」恐怖に怯えて生きる動物たちの世界を仏教では「畜生界」と言います。
私達の住んでいる人間世界のことは「人間界」と言われます。
この「人間界」と「畜生界」とは、全く違う世界だということです。
「人間も他の動物も、この地球上に共に住んでいて、同じ世界を共有している」というイメージがあるかもしれません。
それはあくまで表面上のことであって、本質的には全く違う世界に生きているということです。
人間が生きる世界と、他の動物たちが生きる世界とでは、全く違う。
だから、畜生界の苦しみは、私達にとっては、「得体の知れない恐怖の世界」だということです。
そういう恐怖の世界から離れて、ある程度安全が保証された世界に生きている
というのが「人間として生きている」ということです。
私達が「人の世は辛い」と言っているのは、「人の世」以外の世界のことを知らなさすぎるが故のことかもしれません。
人以外の世界では、人の世にはない苦しみや不安に満ちているのですね。
だけど、私達はあくまで「人間世界」に住んでいる以上、その世界の苦しみしか知りようがありません。
だから、「この人間世界の苦しみ以上の苦痛はない」という感覚を覚えるのでしょう。
それはちょうど、自分が今かかっている病気が「一番の苦痛だ」と感じるのと同じようなものです。
病気の苦しみというのは、「自分がかかっている病気以上の苦痛はない」と思わずにいられないものだそうです。
頭痛の人には、頭痛ほど辛いものはないと
腹痛の人には、封痛ほど辛いものはないと
咳が止まらない人は、止まらない咳ほど苦しいものはないと
じんましんの人は、皮膚のこの辛さ以上に苦しいものはないと
結局、いま自分がかかっている病気の苦しみが、一番ひどいということですね。
病気にかかわらず「苦しみ」とはそういうものなのかもしれません。
いま自分が抱えている苦悩ほど酷いものはないと、一人一人が思わずにいられない。
私達が「苦しみ」に対して起こす感情は、「私ほど不幸なものはない…」という心の叫びとなって、その悲劇性を深めてしまいがちなのですね。
「私はなんて不幸…」の感傷を冷静な視点にシフトすれば
苦しい時、辛い時、私達は「感傷に浸る」ことがありますね。
「ああ…不幸だ…」
「ああ…なんてついていないのか…」
「どうして、私ばかりが…」
こんな思いを深めることが、どこか自分への慰めになるかのような気がします。
だけどこの思考は、慰めになっているようで、実はより自分を「不幸」という固定した現実に据え置いてしまうことになってしまいます。
自己イメージに、「私は不幸」という内容を刷り込んでしまい、本当にそこから離れられなくなっていってしまうのですね。
感情的になり、自分で自分の悲劇性を深めてしまうことは、けっして良い未来には繋がらないでしょう。
だからこそ、苦しい時ほど、冷静になることが必要です。
そんな時に、
「自分の知らない世界の、自分には想像できない苦しみがどれほどあるか知れない。」
このことを理解していれば、今の苦しみに対していくぶん冷静になることができます。
「苦しみ」
についての視野をできるだけ広げることで、
「自分の苦しみ」に対して冷静な視点で、相対的な視点で、みつめることができます。
絶望の淵へと、自分で自分を追い込んでゆく思考から解放されて、ニュートラルに戻ることができます。
そこから、その現実を動かしてゆく可能性も広がるのですね。
複雑極まりない人間世界の苦しみも、悩みも、必ず何かしらの原因があって起きているものです。
原因無しに起きる結果は、万に一つもないと教えるのが仏教です。
ならば、その原因に目を向けることで、その解決に向かって進む道は必ず開けてきます。
そのためにも、自分の苦しみや悩みに対して、冷静に見つめる視点を持つことが必要なのですね。
そうしないと、「原因を探り、その解決に向かう」という思考は始まりません。
ただ、「自分はなんと不幸なのか…」という感傷に浸っているだけでは、「自分=悲劇」のイメージをただ深めてゆくだけです。
私も、他人も、また他の生き物たちもみんな、形は違えども、それぞれの世界での苦悩を持っている。
誰もが自分の世界独特の苦しみに向き合って生きている。
私もまた、その一人だということです。
だからこそ、一人一人が冷静に現実に向き合って、その因果を見極めて、一つ一つ対処してゆくのみ。
冷静に、そして勇敢に、苦難を切り拓く人生を歩みたいものですね。