「そうか、無常だったのか…」と気付く時
「もう、夏が終わってしまった…!」
コロナ騒動でバタバタしていたこともありましたが、
無情にも過ぎ去る時の流れに、ついつい油断をしていたことを思い知らされるのは、こういう区切り目の時ですね。
こういうショックを受けるのはまぎれもなく、「事実」と「思い」が違ったからです。
「留まることなく、全ては移り変わってゆく」という事実と、
「ちょっとくらいは、固定して変わらない何かがあるだろう」という思いと、
そのズレが、時を経れば経るだけ大きくなり、気づけば「思い」を大きく裏切る「現実」に驚愕しなければならなくなります。
体が元気に動いて、飛んだり跳ねたり走ったり、テキパキ動いたり、高速タイピングをしたり…
そんな自分の「肉体」が当たり前だと思っていますが、
そんな「健康状態」が固定されたまま続いているなんてことは、決してありません。
去年と今年とで確実に変化しており、
先月と今月とでも違っており、
昨日と今日とでも異なっており、
今の瞬間と次の瞬間とでも、確実に移ろっています。
仲のいい友人との良好な関係も、
固定されて変わらず保たれているなんてことは決してありません。
「じゃあね」って言って別れたその次の瞬間から、
お互いの人生は進み、変化して、その変化が関係性にも確実に影響して、
1日、2日、3日…
と経てば経つだけ、お互いにどんな変化が起きているか知れませんから、
1週間も経てば、その関係にどれほどの変化が起きていることでしょう。
お互いの「心」は目に見えませんから、色も形もない「関係」という、
私たちの大きな拠り所の「変化」は、知らず知らずに確実に進んでいるのですね。
川の流れが絶えざる変化の連続であり一時として「固定した状態」が許されないように、
私たちの周囲の全ては、刻一刻と確実に「変化」を続けている。
このことを仏教では「諸行無常(しょぎょうむじょう)」といいます。
あらゆるものに「常」は無い。
この言葉は日本人には馴染みも深い言葉なのですが、
本当は、私たち一人一人にこれ以上ない衝撃を投げかけている言葉です。
「常」は、ないのだよ。
どこに行っても、どこを探しても、「常」なんてものは、ないのだよ。
私たちは、どこかに
「寄りかかっていれば変わらない状態が保たれている」
そんな「常」を探し求めていると言えます。
目まぐるしく、絶えざる「変化」に疲れた私たちの心は、
安らげる「常なる」何かを探し求めてこの世を漂っているのですが、
この世は「無常」の世であり、「浮世(うきよ)」であり、
水面に浮かぶ浮草のように、ただただ漂って変化してゆくものばかりです。
固定した、確固たる拠り所は、この世のどこを探しても存在しません。
昔からそうだし、今もそうだし、これからもずーっと、この「諸行無常」の実態は変わらない。
この「諸行無常」の真実に対して、いつしか私たちは無意識に目を覆って、いろいろものに「常」を見出そうとしている。
これが仏教で言われる、私たちの「惑い」です。
「ちょっとくらいは『常』なるものがあるだろう」
そんな「『常』の思い」と厳粛な「『無常』の事実」とのズレを、ズレのまま放置して日々を過ごしているのは、
惑いの中で後悔の種を蒔き続けているようなものです。
その「惑い」に振り回されてウカウカと日々を過ごし、ある時ハッと突きつけられる。
そうだ、「無常」だったのだ…
深い惑いの中で生きていればいるだけ、そのショックは大きく耐え難いものとなります。
「無常」を観る目を養うことは、後悔しない生き方をするためには欠かせない学びと言えるでしょう。
「地に足を付けて」も「浮いている」
先ほど、この世を「浮世(うきよ)」と呼ばれるとお話しましたが、
これは仏教の世界観を端的に表した言葉だと言えるでしょう。
そんな世界で生きる私たちの姿を「浮生(ふしょう)なる相(すがた)」とも言われます。
この世界は「浮世」である。
そんな中で私たちが生きる姿は「浮生」である。
「地に足を付けて生きなさい」
などと他人から忠告されることがありますが、
仏教は、
「その『地』と思っているものは『浮いたもの』だと知りなさい」
と、警告するのですね。
確固たる信念や、収入源や、家族や、スキルなど、
「拠り所」となるものを持つことは、生きるためにもちろん大切なことです。
だけど、その「生」そのものを「後悔」の結末に終わらせないためにもっと大切なことは、
それらが「無常」であり「浮いたもの」だと知ることです。
そしてこれがなかなか、難しいことなのですね。
「浮いてる」なんて、とても思えない。
ちょっとくらいは「固定した所」があるとしか思えない。
その「ちょっとくらいは」の思いが、真実との大きなズレを生み出すことを、とても自覚できないのですね。
「この健康状態は大丈夫」
「この人との関係は大丈夫」
「この職場での地位は安泰だ」
そんな「常」を見出した心は、そこに対してどこどこまでも執着し、
いつしか「永久に変わらない安息の場」であるかのような錯覚を生み出します。
「いやいや、何もそこまで勘違いはしないよ…」
と思うかもしれませんが、こういう「本心」は、自分で気付けないものなのですね。
今、あなたは呼吸していますか…?
なんて、馬鹿げた質問のように思えるこの問いかけは、存外馬鹿にしたものでもないのですね。
無自覚に、一息、一息を吸ったり吐いたりして命を繋げているわけですが、
「今の一息が最後になる」
という可能性を、ほんのわずかでも考えていたでしょうか。
「呼吸している」という自覚すらないのに、その「呼吸」に「最後」がある可能性など、考えようもありません。
それは、自分の「呼吸」を、永遠に続くものと思っているのと同じです。
呼吸困難に陥ったことがある人や、水に溺れたことのある人なら痛感していることですが、
私たちはこの「一息一息」に命を委ねています。
だから、その「一息」が何かの事故で途切れそうになった時の危機感は、大変なものです。
そんな「命」を預けている、最も身近な「呼吸」に対して、微塵も「終わり」を考えられていない。
そんな「常」という思いを固く抱いている私たちへ、「無常」を説く仏教の言葉は、
百雷のごとき衝撃をもって、迫ってきます。
「出る息は、入る息を待たず、命終わる」
これは仏典に出てくる言葉ですが、
「出る息」と「入る息」とは、私たちの「生」の瞬間、瞬間とも言えます。
今の一息、次の一息、そのまた次の一息…
と、その瞬間、瞬間の移り変わりが「生」の実態なのですが、
それを私たちは錯覚して「固定したもの」のように思い、その「終わり」を微塵も考えられません。
だけど、今の一瞬が最後かもしれない。
どこかの瞬間で、もう次の一息は永久に訪れず、待った無しに命は終わる。
そんな「命の無常」を、仏教は切々と説くのですね。
100%が浮いた世界に生きる私たちの姿は、まぎれもなく「浮生」であると知りなさい。
この仏教のメッセージは、
世の中のどんな処世術よりも精神論よりも、まず真っ先に取り入れるべき土台と言えるでしょう。
その自覚が、
一瞬、一瞬の自分の行動を、何よりも大切にさせます。
一瞬、一瞬の他者との関わりを、何よりも大切にさせます。
瞬間、瞬間に求める「因縁」こそが、
「常」のように見ている幻想よりも、
はるかに現実的なものであり、何よりも注目すべきものであると気付けるからです。
この気付きが、後悔しない人生を歩みだすための第一歩なのですね。