最も許せない言動は
「嫌いな人」ってどんな人でしょうか?
あなたにとって「嫌いな人」は、どんなことをしてくる人なのでしょうか。
私達が「嫌だ」と感じる言動。
これだけはどうしても、許せないと感じる行動。
それをされると、心から辛い気持ちになるような言動。
それは何でしょうか?
これには色々な答えが考えられそうですね。
人によっては実に様々な「嫌がらせ」を想像できると思います。
これまで、ありとあらゆる他人の嫌がらせを受けてきたという経験があればあるだけ、
「ああいうこと、こういうこと…」と、次々と思い浮かぶ事があるかもしれません。
だけど、何といっても許せない言動は、
「差別をされること」
やっぱりこれですね。
たとえば、会社などで上司や同僚が、
「嫌な仕事の振り方をしてくる」とか、
「厳しく注意してくる」とか、
「困っている時に助けてくれない」とか、
嫌なことは様々ですが、なお許せない気持ちにさせるのは、
「他の人には打って変わって優しい」
という場合です。
もう、これだけで全てが許せなくなってしまうくらいに、
「差別されている」
と感じると怒りの沸点を軽く突破してしまうのですね。
ただ、いじわるされるのも、嫌がらせをされるのも辛いですけど、
そういうことを「差別的に」される事が、それを実に耐え難いものとしてしまいます。
「一番嫌われる先生は、えこひいきをする先生」
と聞いたことがありますが、そりゃあそうでしょうね。
指導者の立場に立つ者として、一番やっちゃいけないことなのかもしれません。
「嫌がらせ」という事実は変わらないし、自分が被る実害が変わるわけでもないのですが、
「こういうことを私は差別的にされている」
となると、そんな「実害」とか「困る」とか、そういうのとは別次元の苦しみが生じるのですね。
それは、
自分の存在そのものを否定されているような、
私はこの場にいない方がいい、この世にいない方がいいと宣告されているような、
自分には生きている価値がないと言われているような、
私の根本に関わる部分に深刻なダメージを及ぼすと言えるでしょう。
「自分は、他人から大事にされる存在ではない」
という感覚が、「他の大事にされている人」との落差を突きつけられることで、
一層明確に深められてしまうわけです。
よく、
「親に兄弟や姉妹と比較されながら育って、ずっと傷ついていた」
ということが、悲劇的ストーリーの定番として語られるのも、そういうことなのでしょうね。
「他人から差別される」
ということがそれだけ心に深刻なダメージを及ぼすのは、
それだけ「他人」という存在に、私たちは自分の存在価値を委ねる心が強いということでもあります。
「自分の存在価値」というものが、あまりに漠然としているわけです。
それを「自分」をいう存在だけでどれだけ考えても、「価値」も何も検討がつかないのだから、
それを「他者」との関わりの中で必死に見出そうとしているのが実態なのですね。
だからこそ、そんな私たちにとって「他人から差別的に不当に扱われる」ことが、
切実に求めているものを最も明確に否定されるという残酷な仕打ちとなってしまうわけです。
「なんとなく」の差別が一番多く、一番キツい
小学生や中学生の頃に学校で「道徳の時間」という授業枠がありまして、
特に取り上げられる問題は「差別問題」というものでした。
人種差別、男女差別、社会的身分の差別、出身地による差別、障がいに対する差別…
こういう「差別」のカテゴリ分けがされて、一つ一つの問題を教師から教えられました。
他にも色んなことを教わったような気もするのですが、「差別」が一番取り上げられていたような気がします。
そんなわけで「道徳=差別問題」という印象が私の中には残っています。
それだけ人を苦しめるものが「差別的言動」だということをよく表しています。
ただ、「○○差別」と名のついた、社会問題とされる差別が問題なのはもちろんなのですが、
私たちが日常的に嫌な思いをしている「差別的扱い」は、
そういう明確にカテゴライズされている「差別」には限らないですよね。
むしろ、それらのどれにも当てはまらないようなものの方が多いかもしれません。
「なんとなく」差別的に扱われている。
そんな「なんとなく」の世界での差別が、実際のところ私たちにとって最も身近な問題かもしれません。
そしてそれが、日常的に私たちを苦しめています。
「なぜか、あの人より自分は冷遇されている気がする…」
そこに「性別」とか「社会的地位」とか「出身地」のような学校で習った明確な分類は見いだせないのだけど、
「なんとなく」自分は他人よりも大事にされていない気がする…
こういう「なんとなく」ほど現実的な問題はないってのが世の中の難しいところです。
そりゃあ、明確なカテゴリー当たるような差別的言動をしようものなら、
組織や社会から強烈に叩かれますから、よほど軽率な人でない限りそういうことはしないでしょう。
だけど、そういう「良識」によって、私たちの「差別してしまう心」を無くすことは叶わないようで、
「なんとなく」の差別的な言動をついついしてしまい、された方はそれを敏感に感じ取って、深く傷ついてしまう。
そういうことはどこでも日常的に起きていることと思います。
しかも「こういう理由で」というのが明確な差別なら、まだ「そういうもの」として理解することはできますが、
「なんとなく」で差別されてしまうと、
「ああ…私っていう存在は、ただ飯を食って息をしているだけで、悪なんだな…」
ぐらいに深く傷を負ってしまうことが、大げさでなく、あるわけです。
己の心の「慈悲」と「差別」
仏教では、こういう世の中だからこそ、「世の中」に振り回されて疲弊する前に、
「自身の心」によく目を向けて、そこに根本的な原因を見出すべきであると教えられます。
この世に起きるあらゆる事を「自身の心の渦の現れ」と観ることは、
仏教の基本的な考え方の一つと言えます。
普通は、
「どうしてこんな差別が起きるのか」
その原因を、歴史的背景、社会的背景、人々の利害関係…
などなど、「世の中」に見出そうとして追求されるものです。
もちろんそれも大事な営みには違いありませんが、
仏教では、いかに理不尽と感じられる世の中の問題でも、
いや、そういう理不尽なものであればあるほど、
その原因を自分の心の中に模索してゆくことを重視するのです。
誤解してほしくないのは、
「自分が悪いと思いなさい」
という話ではありません。
ましてや、
「自分を責める」
なんて話でもありません。
「世の中」といっても、私にとっては、私の人生の中のいち場面です。
私が「理不尽だ」と感じている以上、それは私の人生の問題であり、私の心の問題です。
だからこそ、本当の意味で状況を好転させるためには、
「自分の心のどこに、こういう状況を生み出す原因があるのだろう?」
と、自分の心の中に原因を探る視点が、重要なのですね。
「差別的な扱いが常に絶えない世の中」
があるのなら、その因果は必ず自分の中にある。
そういう視点で自分の心を観たならば、必ず気づくことがあるはずです。
自分の中にこそ「差別せずにはいられない心」が常に動いている。
この事実です。
「周りの人に優しく接するよう心がけているつもり」なのですが、
その「優しくする」という行動に、「我」がついて回ることをどうにも避けられないのですね。
他者に優しくする心を仏教では「慈悲」といいます。
他人が困っていたり、寂しそうにしていたり、辛い目にあっていたりすると、それを放っておけず、自分に出来ることは何かと模索する。
そんな心は確かに、私たちにはあります。
また、他人を喜ばせよう、楽しませようという精神から、色々なネタや情報を集め、
「こういうことを言ってあげたら」「こういうものをプレゼントしたら」「こんな所に連れて行ってあげたら」
ということを考える心が、確かに私たちにはあります。
これを仏教では「抜苦与楽」の心とか「慈悲」の心と言われます。
こういう精神が大切であることは、仏教で語らずともみんな分かっていることですし、心がけている事でもあります。
ただその「慈悲」に、どうしても「我」という差別心がついてまわって離れない。
このことを見落としてはならないのですね。
私たちが持つ「慈悲」には、どうしても
「対象を限定する心」
「対象に強弱をつけてしまう心」
が、ついて回ってしまいます。
私たちが誰かに「慈悲」を起こす以上、その裏には、
「後回しにされてしまっている相手」
「除外されている相手」
「逆に冷遇されてしまっている相手」
が出てきてしまうことを、どうしても避けられない。
そういう不完全なもの、差別的なものにならざるを得ないのが人間の慈悲であり、
悲しいことに、その差別の基準は結局のところ「自分の都合」や「自分の好き嫌い」になってしまう。
そんな「慈悲」の実態を見落としてはならないと、仏教では教えられるのですね。
自分の中のどうにも無くせない「差別心」を知ることは、
そのまま「理不尽な世の中」の本質を知ることでもあります。
理不尽な差別や残酷な仕打ちの絶えない世の中を生きる中で、
その経験の一つ一つを、「自己を知る」という大切な目的のための縁とする心がけを忘れなければ、
あらゆる経験は、大切な糧となることでしょう。