「お金」の力を真に活かす道を見つけるには〜地獄の沙汰も金次第…?〜

「お金」が叶えてくれること

「地獄の沙汰も金次第」
っていいますよね。
最近ちょっとこの言葉が気になって、調べてみたら、
「地獄での裁きさえ金があれば有利にできるという意味から、何事も金の力さえあればどうにでもなるということ」
という、まさにそのまんまの意味でした。
清々しいほどに、「金の力」を深く信じている気持ちが現れていますが、改めて凄い表現だなと思います。

「死んで堕ちる地獄をどうにかしたい…」
なんてどれだけ願っても、人間の力ではコントロールどころか想像すらも出来ない事ですよね。
そんな事柄さえもお金の力で有利に運べるという事ですから、もはや「この世の事」を完全に超えてしまっています。
もし「地獄の沙汰」が、本当に金の力でとうにかなるのであれば、この世の事は、楽勝でしょう。

だけど、そう思いたくなる気持ちも分かります。
流通がめざましく発達し、インターネットで自在に買い物が出来るようになって、
注文したものは一週間もしない内に自宅へと宅配で届けられる。
手元のスマートフォンで検索すれば、画面上には商品リストがズラーっと出てきます。
金さえあれば指先一つで、欲しいものをどんどん自宅へ届けさせることができます。
私もすっかりAmazonユーザーになってしまっていますが、店を回って探して…という手間がすっかり省けるので、本当に重宝しますね。

もちろんそれは、買えるだけのお金があることが前提です。
どれだけ流通が便利になっても、お金がなければどうしようもありません。
スマホ画面の商品リストも文字通り「絵に描いた餅」です。
それがすべて、「実物との対面」に直結するかどうかは、まさに「金次第」です。

インターネットを通じた、商品やサービスの流通が発達すればするほど、お金の万能性はますます強力になっていきます。
そんな中、お金が枯渇してくると、
「いま、金さえあったなら…」
という欲求がますます強力になり、ローンやキャッシングのサービスに引き寄せられてしまうと、もう大変ですね。
「手元にお金がないのだから、どうしようもない」
が、歯止めとならないのですから、恐ろしい世の中です。

私達の「欲望」を、こんなにも即座に「お金」が叶えてくれる世の中になれば、ますます
「地獄の沙汰も金次第」
と思うのも無理はありません。

「欲」が生み出した「お金がモノを言う世界」

「お金は人間の本性を引き出してしまう」
などと言われますが、仏教で教えられる人間の本性は「煩悩具足(ぼんのうぐそく)」と言われるものです。
「煩悩がムラムラと起きてきて…」などと言われる「煩悩」は、たいてい「欲望」のことを言っていますが、
仏教で教えられる「煩悩」は、欲望に限らず、私達を煩わせ、悩ませる心であり、全部で108つあります。
「欲望」はその一つということなのですが、「欲望」はその中でも代表格の煩悩なので、「欲望」のイメージで、だいたいはあっているでしょう。

「煩悩具足の凡夫」ということは、欲望に代表される煩悩に満ちあふれているのが人間、ということです。
人間の考えることや望むことは、つまるところは「欲望」に尽きると言っても言い過ぎではありません。
私達が見ている「世界」は、「色」や「音」や「臭い」や「味」や「触感」など、色々な情報で出来上がっていますが、
それらすべてを「欲」というフィルターを通して感知しているため、キャッチする情報は「欲を満たしてくれるもの」中心となっています。
まさに私の世界は、欲で回っている…というのが実態なのですね。

一口に「欲」といっても、色々な種類の欲望があります。
いわゆる「まとめサイト」は、その欲望カテゴリーごとに、如何に効率よく満たせるかをガイドしてくれるサイトと言えます。
「食べログ」「じゃらん」「リクナビ」…などなど
美味しいものを食べたい、良い所に泊まりたい、安く旅行したい、給料のいい仕事に就きたい…
様々な欲を効率よく満たすシステムが編みの目のようにサイバー空間に張り巡らされているのも、
多種多様な私達の欲に応える為にほかなりません。

それらの欲のほとんどを叶えられる力を持つのが「金」というわけです。
欲望に満ちた人間の価値観において「金」がいかに絶対的であるか、
人間の性質を知れば知るほど、そしてそんな人間によって作られた世の中を知れば知るほど思い知らされます。
「欲」のフィルターを通して展開されてゆく世界のすべては、「金」でどうにでもなるように映る。
「地獄の沙汰も金次第」
というのは、人間の「欲」を通して展開される世界を見事に言い当てているといえるでしょう。

だから、そんな「金」をふんだんに持つと、人間の欲望は一気に引き出されてしまいます。
「金」の有る・無しのみで、私達のほとんどの「欲」の叶う・叶わないが決まっているわけですから、
「大金」を持った瞬間に「欲望」が一気に「叶わない→叶う」のスイッチオン状態に切り替わる。
それが一体どれほどの変化であるか、想像もつかないぐらいです。
「金を持つと人が変わる」なんて、当たり前ですよね。

お金があれば、もはや無縁ではいられない

欲望が求める様々な対象、
食べ物、家、車、服、恋人、名声…
これらは私にとっては「縁」と呼ぶべきものです。
「お金」があれば、これらの「縁」に、ふんだんに恵まれる状態になれるわけですね。
確かにこれは凄い状態です。

「お金」がなければ、
高級車の店も、旅行代理店も、マンションのモデルルームも、宝石店も、
いわば私にとって「縁のないもの」となっているわけです。
だから、たとえそんな店がひしめき合うような街を歩いていても、それらの店は「壁」も同然です。

「お金」を持つということは、
それまで縁のなかった様々な対象との縁が出来てしまう事です。
これまで素通りできてた店の数々が、もう素通りできなくなるということです。
あの店も、この店も、あのサイトの商品も、このサイトのサービスも、もはや「無縁」ではいられません。

それは確かに凄いことですが、果たして自分に、それらの無数の縁を、うまく活かすことが出来るだろうか…
考えてみるとなかなか大変なことです。
下手をすれば、
「あれも、これも…」と、目に映る様々な「欲を満たしてくれる縁」に心が振り回されて、
自分が本当に何を望んでいて、この人生で何をしたいのか、
そんなことは完全に置き去りとなって、ただ欲の振り回されるままに、時間もお金もどんどん消耗してゆく…
そんな行動に出てしまうこともあり得るわけです。

確かに「お金」「縁」をつなぐ強力な手段となりますが、私にとっての結果は「縁」だけでは成り立ちません。
「因」と「縁」とが揃って、「結果」は引きこる。
これが「因縁生」と言われる仏教の教える道理です。

「因」とは、私の「行い」ということです。
お金があって、様々な対象との「縁」が出来た。
それはもちろん凄いことですが、そこから私のどんな「結果」が引き起こるかは、「因」次第で大きく変わります。
これらおびただしい「縁」の中にあって、私がどんな「因」を造ることができるのか。
つまり、どんな「行動」を出来るのか。
これこそが、私の結果にとって最も大切なことです。
どれほど「縁」に恵まれても、そんな「縁」の中で、それらの「縁」を活かせるような行動(因)が、自分に出来るのか。
結局のところ、それが問題となるわけです。

すべての結果は「因縁」次第。
この道理の前では、「地獄の沙汰」どころか、この世の「結果」さえも「金」だけではどうにもなりません。
「お金」は、あくまでこの世の様々な「縁」をつなぐ手段である。
そして、それらの「手段」を活かせる行動が自分に出来なければ、本物の結果は望めない。
これが、因縁生の道理からみた「お金」の実態です。
「お金」の力でも、この「因縁生」の道理だけは、曲げられません。
どんな大金の力もすべて、この「因縁生」の道理の枠組みの中でのみ機能するものです。
「道理」に立って、お金の力をも活かす、そんな視点を築くことが最も大切なことなのですね。

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