「絶望」知らずの生き様を実現させるためには〜果てのない「海」にどう挑むか〜

美しくもゾッとする光景

大学に入る前の春休みの時期に、私は初めての海外旅行をしました。
中国への一人旅を計画して、大阪の港から上海に向けて出る船に乗り込んだのでした。
「船」で海を渡って旅行がしかったので、時間はかかるのですが、この手段を選んだのでした。
飛行機なら、ものの数時間で着くのでしょうが、船だと一泊して、翌朝に上海に到着するというゆっくりした旅となります。

だけど、そんな船旅をした事で、私は貴重な風景を見渡すことが出来ました。
それは、船が大阪の港を出て、岸を離れて沖へ沖へと進んでゆき、やがて陸地が全く見えなくなるに至った時、
360°全てがただ「水」と「空」のみ。
果ても知れない「水」が、ただどこまでも続いていて、その先には「空」があるだけ。
そんなシンプル極まる光景が、どの方向を見ても広がっている。
そんな風景を目の当たりにしたのでした。
こんな船旅でもしない限り、この状況にはなれないだろうなと思いました。

船の甲板の上で、ずっとそんな風景を見ていると、さすがに怖くなって来ました。
「どの方向が陸なのやら、全く分からない」
そんな状況は、世にも恐ろしいものなのだと思い知りました。
もちろん、船の進んでいる方向から、この先に中国大陸があるのだろうという予測はつきます。
船の中にあるレーダーにも、ちゃんと船の現在地が表示されて、日本海のどの辺りにいるのかは分かります。
だけど、それもあくまで船の機能を信頼できてこそ成り立つ安心です。
この「目」に見える風景は、「全く方角の立たない、波打つ海に完全に包囲された状況」に他なりません。
もしも、このままうっかり船から海に落ちて、船が私を置き去りに進んで行ってしまい、完全にただ一人、ここに取り残されたら…
そう考えるともう、「絶望」の他ないですよね。
そんな光景に出会えたことは、一人旅の大きな収穫の一つだったと言えるかもしれません。

やがて私は仏教を学び、
あの光景は、私の人生そのものだったのだ」
という事を知るのでした。

「生きてる」ってだけで、それは凄いこと

仏教では、私達が人として生まれ、生きているこの状況が、果てのない海の中を漂っているようなものと教えられます。

「今、悩んでいることは何ですか?」
と聞かれたとき、もしかしたらすぐには具体的な「悩み」は思いつかないかもしれません。
だけど本当に「何も悩みもない」状態というのは、ないはずです。
「生きて」いれば必ず、どうしても乗り越えなきゃいけないこと、耐えなきゃいけないこと、不安に感じていること、不満に思っていること、などなど何かしらの悩みや煩いが伴っているはずです。
他に考えなきゃいけないことが多すぎて忘れていたり、心の底に押し込めていたりして、「意識」に上っていないだけで、
人間の心には絶えず、様々な悩みや煩いが渦巻いていて、私達はそれを乗り越え、乗り越えて日々を生きています。

それはちょうど、大小様々な波が押し寄せる海を、精一杯手足を動かして泳いでいるようなものです。
学校に通って勉強している子供でも、
会社に通って働いている大人でも、
子育てに奮闘している親も、
退職して後の生活を送っている人も、
病気のためにベッドで寝たきり状態になっている人も、
悩みや煩いの中で精一杯それを乗り越えて過ごしている。
それが「生きている」ということであり、さながらそれは海を精一杯泳いでいるようなものです。

「悩んでいる、煩っていること、それは生きている証拠」
…と、そこまで前向きには思えないかもしれませんが、だけど事実はそうです。
「生きる」ことは、必ずさまざまな悩みと煩いと付き合ってゆく事にならざるを得ません。
だから私達は常に、一生懸命、波を乗り越えて泳いでいるのですね。
この事実は、古今東西、老若男女、みな変わらない共通した姿です。
そう考えると、「生きている」というだけで本当は凄いことなのかもしれません。

水鳥がスーッと水面を滑るように泳いでいる姿には、いかにも楽ちん状態に見えますが、
その水面下の見えないところで、水鳥は精一杯足をバタつかせている…
よく言われる喩えですが、私達がみる多くの「他人」は、そんな水鳥のようなものです。
パッと見、楽そうに泳いでいる人はいくらでもいます。
だけど本当は、誰一人として、心から気楽に泳げている人はいないのが実態なのですね。
「泳ぐ」というのは、他からどんな風に見えていても、やっぱり手足は常に動かしていなければならないように、
「生きる」というのは、他人からは分からなくても、自ら意識していなくても、
本当は誰もが手足をバタつかせるように、煩いや悩みや不安や不満と戦って日々を過ごしているのですね。
だから、自分も、他人も、お互い様で、「精一杯泳いでいる人」同士だと言えます。

人生に「詰み」はあるのか

「海」は、果てしなく広がっていて端っこが見えないほどに巨大なものですね。
これはそのまま、私達の悩みや煩いには果てがないことを表しています。
「これで、悩みはオールクリア!」
なんて状態はありえないということです。
そんな状況はきっと、これまで何年生きてきていても一度もなかったはずです。
必ず常に、何かしらの煩いがあって、やがてまた新しい悩みが現れて、どんどんと立て込んでくる。
順番待ちをしていたかのように、「ご新規」の悩み煩いはきっちりと押し寄せてくるのが人生で、
この営みが絶えることは死ぬまでないことでしょう。

だからこそ、
「乗り越えるための『手』を打ち続ける」
このことに卒業はないのですね。
「悩み・煩い」があるのなら、それに対処する「行動」も必ず存在します。
自分にできる、その「悩み」に対する「行動」が必ずあって、
その「行動」を、この心で、この口で、この体で、起こし続ける他ありませんし、それが出来るのがまた人間です。

「あ、詰んだ…」
と、思わずつぶやきたくなる状況もありますね。
「これはもう、打つ手無し」で、まさに「詰み」状態。
将棋ならば、そんな詰み状態はあります。
スポーツの試合でも、さすがに「もう勝敗は明らか」という状況はあるでしょう。
サッカーの試合で、残り時間5分で10点差をつけられていたら、さすがに勝機は無さそうですね。

けれど、「将棋」も「スポーツ」も「仕事」も「プロジェクト」も、それらは人生の「いち場面」に過ぎません。
そういった特定の場面における「詰み状態」はあってでも、
「人生」そのものには、命のある限り「詰み」はありません。
何を失っても、どんなに汚名を背負っても、病気で体がどれだけ不自由になっても、
生きている限りは「幸せ」を求めての「手」を打つ余地は、どれだけでもあるということです。
「心で何を思うか」
「口で何を言うか」
「動かせる限りの体で何をするか」
必ずどこかに「行動」の余地があり、その精一杯の行動が、幸せへ向かう「道」となり続けます。
どんな状況に陥っても、そんな人生の「活路」を見つけ出せる事こそが、
人間としての本当の「強さ」と言えるでしょう。

果てのない海のような「悩みや煩い」の絶えない「人生」を前にすれば、私達にはちょっとした絶望感が漂ってきます。
けれど、
「必ず『自分に出来ること』がある」
あらゆる苦難に対して、それを乗り越えられる「因果」があり、「行動」と「結果」がある。
私達はただ、それを見つけるかどうかであり、それをやるかどうか、なのですね。
どんな荒れ狂う海を前にしても、自らの「行動」の力を信じて、たくましく泳ぎぬく一生にしたいものです。