「私」がいなくても問題なく回ってゆく世の中…
異動やら退職やらで、会社の部署の人の入れ替わりはしょっちゅう起こります。
これは会社によって違いはあるでしょうけれど、
基本的に会社は、「人の入れ替わり」が生じながら存続してゆくものですね。
会社に限らず、人間社会というのはそういうものです。
学校の部活も、
大学のサークルも、
会社の部署も、
政治も、
芸能界も、
サッカーの日本代表チームも、
同じメンバーがいつまでもずっといる、という事はありません。
無数の人が登場しては、やがて去ってゆく。
その中には「逸材」と呼ばれる人がまれに現れます。
「この人が去ったら、この業界はどうなるのか!?」
そんな、その業界の「顔」みたいな人もいます。
会社の部署にも、特にデキる人で、ムードメーカーでもあり、とても面倒見もよくて、
「この人がいなかったら、この部署は回っていかないだろうな」
と思えるような人がいます。
だけどそんな「逸材」も、やはりやがてはそこを去っていきます。
そして、去った後もその業界はなんだかんだで存続していきます。
「ちゃんと」回っていくのですね。
他のメンバーが、しっかり役割を果たして、その業界はしっかり成り立ちます。
そしてやがてその「逸材」の存在さえも、
「そういえばそんな人、いたなあ…」
ということになってしまいます。
会社でも、どんな頼りがいのある社員が去っても、
「この人の代わりなんていないだろう」
という人がいなくなっても、
なんだかんだで、業務は問題なく回ってゆきます。
こういう時、「人材」っていうのは相対的なものなのだなと感じます。
「その人」がいる時は、
その人が唯一無二で、ずば抜けた人で、その人がいないとこの世界は成り立たないと、思えます。
他の人材はどう頑張ってもその人の役割など果たせないように思います。
だけどそれは、「その人」がいるからなのですね。
本当は、他にも「その人」ぐらいの可能性を秘めた人はいるのですね。
もちろん、まったく同等のパフォーマンスとまではいかないでしょう。
だけど、同じくらいにいい仕事をしたり、人と惹きつけたり、すばらしい可能性をもった人材は、
他のメンバーの中にもいるのですね。
ただ、今は「その人」がいるから、「エース」とはならずに他の役割を果たしているだけです。
「エース」枠が空いてしまうと、誰かしらその可能性を秘めていた人が、その役割を果たしだします。
「いやいや、従来のエースよりはずっと見劣りするよ」
と評価する人が多くいたとしても、新エースならではの要素は必ず持っているでしょうし、
「ただの劣化版」という事にはならないでしょう。
人は「縁」次第でどうにでも代わります。
旧エースがいる環境という「縁」と、旧エースがいなくなって、新たなエースが求められる環境という「縁」とは、全く違います。
そんな風に「縁」が変われば、そこにいるメンバーにも変化が起こり、必然的に新たなエースは誕生します。
そして、やがてはその状況がスタンダードとなり、コミュニティは何の問題もなく回ってゆくきます。
世の中は、無数の人が現れては去り、現れては去り、そうやって存続しているのですね。
「私は代替可能な歯車」は「他人の世界」の話に過ぎない
「私」という人間は、そんな世の中のいち登場人物です。
そう考えると、ちょっと虚しくなりますね。
だから、誰もが時にふと思います。
「どうせ、私がいなくても、このコミュニティもこの世の中も、何の問題もなく回ってゆくのだろう。」
「私は、その中の取替可能な一歯車に過ぎないのだろうな」
と。
これは、「他人視点」ではその通り、と言わざるを得ないでしょう。
あなたが会社務めしているとして、その会社の後輩にとって、あなたは先輩となります。
あなたがとてもいい先輩として、よく後輩の面倒を見ているとすれば、そんなあなたが去れば、もちろん寂しいでしょう。
だけどやがて別の先輩が引き継いで、その後輩の面倒を見るかもしれませんし、
もしかしたらその後輩があなたの役割を引き継いで、別の後輩の面倒を見る「先輩」となっているかもしれません。
つまり、その後輩にとってのあなたは、その時の「縁」であったという事です。
そしてその「縁」が変われば、それに応じたその後輩の世界がまた始まってゆくのですね。
会社の後輩であれ、先輩であれ、親友であれ、恋人であれ、家族であれ、
その人たちにとってのあなたはその人の「縁」です。
親友や恋人や家族であればもちろん、大切な「縁」となっていることでしょう。
ですが、どんなに大切な「縁」でも、その「縁」は変化しながら続いていく。
一人一人の人生はそんな風に出来ています。
「あなたがいなくなる」、というのはその人にとっては大きな「縁の変化」ですが、
それでもその変化した「縁」の中で、その人の人生は続いていきます。
他人視点で「私」というものを見たならば、どうしても「私自身」の存在は、
「代替可能」というよりも、「代替が前提となっている」存在ということになります。
…ますます、虚しくなります(涙)
「他人視点」というのは、言葉を変えると「他人の世界」ということになります。
仏教では、
他人には他人の世界があり
自分には自分の世界があり
一人一人、それぞれ違った世界で生きている、と説かれます。
神か誰かが創造した、絶対的な一つの「世界」というものは始めから存在していなくて、
一人一人が自らの世界を造っているという事です。
私たちは毎日毎日、色々な「行い」を積み重ねて生きています。
朝起きて、
着替えて、
顔を洗って、
朝食をとって、
会社へ行って、
いつもの仕事をして…
そんな毎日代わり映えのないルーティンな行動から、
予期せぬトラブルを前に、決断をしてとる行動、
大きなチャンスが舞い込んで、新たなチャレンジとしてする行動、
いずれもいずれも、私が独自に積み重ねている、私だけの「行い」です。
仏教ではこのようのな一人一人の「行い」を「因」と言います。
また同時に、様々な「縁」と触れて生きています。
家族との「縁」
親友との「縁」
同僚との「縁」
そんな、比較的継続して伴い続けている「縁」もあれば、
クレームの電話でやりとりをするお客さんとの「縁」
初めて行くレストランの店員さんとの「縁」
ネット上の動画に出てくる人との「縁」
このブログを通しての私との「縁」
一回キリだったり、ネットを通しての関わりだったり、
これまた様々な、自分だけの「縁」を独自に積み重ねています。
「因(行い)」と「縁」
これが、私の世界を構成していると言えるのですね。
一人一人の「因」と「縁」とで、一人一人の世界は造られています。
私の積み重ねてきた「因縁」と、あなたの積み重ねてきた「因縁」とは、当然ながら全く違うはずです。
私とあなたがもし、どこかの街の通りを並んで歩いていたとしても、決して同じ「景色」は見ていないでしょう。
私の積み重ねてきた「因縁」が生み出す世界の景色と、
あなたの積み重ねてきた「因縁」が生み出す世界の景色と、
同じである道理がないのです。
私は、あなたの見ている「景色」を見る事は、決して叶わないでしょう。
私とあなたとは、全く違う世界を生きていると言えます。
これが、仏教で説かれる「世界観」です。
だから、私たちにとっては、
「私の生きている世界」
と
「他人の生きている世界」
とを、ちゃんと区別して認識することがとても大切です。
「私はただの歯車」が一転する視点
「私がいなくても、世の中は何の問題もなく回っていくのだろう」
「私など、代替可能な世の中の歯車の一つに過ぎないのだろう」
「私が何か行動したところで、大勢への影響など無きに等しいだろう」
これはあくまで、「他人の世界」において、
という前提でのみ、当てはまります。
「他人の世界」では、私は、一つの「縁」に過ぎません。
その「縁」を選ぶかどうか、どれほど大切にするかどうかは、その他人が決める事ですし、
私という「縁」が仮にその人から離れようと、別の「縁」で構成されるその人の人生が、続いていきます。
もちろん、他人にとって私はどれほどの「縁」になれるのか。
これは私たち一人一人にとってとても大切なテーマには違いありません。
その人の人生が良くなるような、素晴らしくなるような、そんな素晴らしい「縁」でありたい。
私だってそう思うからこそ、こういうブログを書いているわけですね。
ですが、他人に世界を舞台にした「自分」は、
「しばらくの縁」であり、
「取捨選択はその他人に委ねられた縁」であり、
「主体」はあくまでその他人で、その主体をコントロールなどできない、「限られた相対的な存在」です。
ところが「私の世界」においては、まるっきり変わります。
私の行動の一つ一つは、そのまま「因」となり、私の世界を構成してゆきます。
その世界に「影響のない行動」など、一つもありません。
どんな小さな行動でも、たとえ他人から見えない心の中で「思う」という「行い」であれ、
私の世界では全て、重要な「因」です。
「私の行動なんて、この世界の大勢に何の影響もないだろう」
なんてどころではありません。
それは、どこぞの他人の世界を語ってるに過ぎません。
私の生きる世界では、重要でない「行い」など何一つありません。
私が触れる「縁」も同様です。
私がどんな「縁」を選ぶかは、そのまま私の世界を構成する「縁」を選ぶ事に他なりません。
私が関わると決めた「人」も、
私が入ると決めた「会社」も、
私がブックマークした「サイト」も、
私が購入した「家具」も、
すべて私の世界を構成する大切な「縁」の集まりとなります。
私の生きる世界において、私の因縁は「重要か重要でないか」という段の問題ではありません。
「それが世界を造るのだ」
ということなのですから。
全く異なる、「私の生きる世界」と「他人の生きる世界」の区別がなく、
この両者をごっちゃにする事から、自分の因と縁に対する様々な「惑い」が起きてきます。
それらを区別する視点を持つ事こそが、
自分の人生
他人の人生
共に大切に扱うことができる為の第一歩となるでしょう。