「他人の人生」を思い通りにしたい心は「悪い」のか?
あの人が、ああしてくれたら…
この人が、こうなってくれたら…
こんな風に他人の事をあれこれ考えることが、私たちにはありますね。
特に、自分と関わりの深い、子供や、恋人や、夫婦や、親友など
「他人」であってもとても「他人事」とは思えない、その人の人生はとても気になります。
「ああなったらいいのに」
「こうなったらいいのに」
「ああしてくれたらいいのに…」
他人の人生に対して、そんな思いがどうしても起きてきます。
そして自分の意に沿わない行動を始め、自分の思っているのと違う人生を歩み始めると、
「そんな風になって欲しくない…」
他人の人生ながら、その先行きに自分の思いを強く入れてしまう事もあります。
時にはそれを口に出して反対したり、その歩みを妨げようとしたりすることもあります。
他人の人生を、自分の思い通りにしようとする心が、確かに私たちにはあるのですね。
これって、悪いことだと思いますか?
「その人の人生に、あれこれ干渉するものではない」
などと言われますし、
「その人にはその人の価値観があるのだから」
とも言われます。
そういうのは良くないと、一般的に言われると思います。
ただ、実はこれは「善い」「悪い」以前に、
「他人の人生を自分の思い通りにするというのは、不可能」
というのが現実なのですね。
これは経験上、そう感じる人が多いと思います。
他人って本当に、思い通りにならないものですよね。
いや、中には自分の思い通りに動いてくれている、という時もあるかもしれません。
だけど実際には、その人が何を思って、どんな風に感じているのかまでは分かりません。
思い通りになっているように見えて、実は自分の思っているのとは全く違う状態なのかもしれません。
表面上、強制してコントロールできているように見えても、
現実はきっと、自分が本当に望むような事にはなっていないはずです。
空回り感、徒労感に苛まれるか、
「よしよし、これでこの人も幸せな人生になるはず。」
などと勝手にこちらで自己満足しているだけ。
他人の人生なんて全くコントロール出来ていない、というのが現実なのですね。
あくまでコントロールできるのは、自分の人生だけ。
これを仏教では、「自業自得(じごうじとく)」と言います。
自分の望みも、言葉も、行いも、それはすべて「自分の結果」にしかならない。
自分の行いは、全部、自分の結果を生み出すことはあっても、他人の人生の結果を造る種にはならないのですね。
他人の人生の結果はあくまで、その他人にしか造ってゆくことはできません。
代わりに他人の種を蒔くことは、どうあっても叶わないということです。
「他人」は、私がコントロールできる存在ではない。
これが現実なのですね。
その現実に反して、他人の人生をなんとかコントロールしようとするのは、
コントロールできないものをコントロールしようと努めることなので、
ただストレスにしかならない。
ただ疲弊してしまうことになる。
つまり、それによって自らが苦しむことになってしまうということです。
限られたエネルギーを、そういう所に注ぐよりも、
唯一コントロール可能な、「自分の行い」のために注ぐ方がよほど現実的な実りのある事だと言えるわけです。
「自業自得」は「自己完結」なのか?
このような「自業自得」の道理を聞くと、
結局人生は、自己完結せざるを得ないものなのだろうか?
というような気持ちになるかもしれません。
他者と積極的に関わることなく、自分の中だけで何もかも片付いてしまう。
お互い、そうせざるを得ないものなのでしょうか?
もしそうなら、あまりに寂しいような気がしますね。
「自業自得」という道理から、
「他人の人生を自分の思い通りになんて出来ない」
という事は、確かに言えます。
だけどそれは、
「だから他人と関わることは無意味」
だという話ではありません。
というより、「他者と関わらない」という事自体、これまた不可能なのですね。
「他人」を含め、他者の存在を仏教では「縁」と言います。
そして、
私がこの人生で受ける結果はすべて「他者」という「縁」があってのことです。
「縁」なしに起きている結果など、この人生に一つもありません。
植物の「種」が、土も水も空気も温度も、何の環境もないところでは決して芽を出すことがないように、
私の「行い」は、ただ「行い」だけでは決して「私の結果」とはなり得ません。
その「行い」が他者たる「縁」と結びついて初めて「私の結果」が成立します。
仕事をするのも、遊ぶのも、それは他者という「縁」があって成立することです。
中でも「他人」という「縁」は重要な縁でしょう。
仏教で大切にされている行いの一つに「布施(ふせ)」というものがあります。
「布施」とは他人に何か施して喜ばせる行いのことです。
これも「他人」という縁があって成り立つ行いです。
だから決して、「自己完結せざるを得ないのが人生」という事ではありません。
むしろ、自分の行いだけで人生を完結させるのは不可能。
私たちの人生は、他者という「縁」と関わってゆくことが前提として成立しているのですね。
「人を動かす」の真の意味
「他人の人生をコントロールしようとする」
ということと
「他人の為に、精一杯の行いをする」
ということとは、違うのですね。
「他人の人生を私の思い通りにしたい」
というのと、
「他人のために、私の出来ることを精一杯考えて、してあげたい」
というのは、全く違うことです。
「他人」という「縁」のことを大切に思い、一生懸命考えてあげる
その上で、その人のために自分のできるベストを模索して、その「行動」を実践する。
これは「布施」という、「私の行い」なのですね。
あくまで自分の人生における「自分の行い」として、「布施」の種まきを精一杯実践することです。
そしてそんな私の「布施」の行いが、他人にとっては、その人の「縁」となります。
私が他人のために出来ることは、他人にとっての「良き縁となってあげる」ことなのですね。
大切な人相手に、私が最高の善い縁となってあげて、その人を包み込んであげることは出来ます。
だけど、その「縁」を生かすのか拒むのか、どのように生かすのか、
それはあくまで、その人の行い次第であり、その人の自業自得です。
その「他人の業」までも私がコントロールすることは出来ない、ということです。
「私」という縁がその人のそばにあっても、
あくまでその人が「種」を蒔いて、その人が収穫を得るのですね。
私はただ、その人にとっての「環境」になっているだけです。
その、他人の自業自得を、私はどうコントロールすることもできません。
だけど、私にとって「縁」が大切なように、他人にとっても、私という「縁」はとても大切な存在となります。
だからこそ、精一杯、人のための良き「縁」と、私がなれるように努力することが、
道理に叶う意味での、「人と関わって生きる」という生き様なのですね。
お互いを、自分にとってのかけがえのない「縁」であると理解し、
コントロールするでもなく、
無関心でいるでもなく、
他人の存在を「縁」として、自分の「行い」に焦点を当てて、精一杯の実践をすることで、
結果的に他人が感化されて動いてゆくこともあります。
これが本当に「人を動かす」ということなのですね。