無分別の智慧—「正しさ」と「割り切れなさ」—

無分別の智慧という仏教の言葉があります。

「分別が無い智慧」という、不思議な言葉ですね。

私たちが智慧を働かせると言ったら、普通はむしろ分別を隅々まで行き渡らせて考えることをイメージしますよね。

「この人にはこのような対処を、あの人にはあのような対処を。」

「この案件は、この人が処理して、あの件はあの人に任せて。」

「今日はこれをして、明日はこのようにして。」

こんな具合に、人や仕事や時間や日にちをしっかり分別をして、その分別されたものをベースに思考を働かせてゆく。

そういう分別のできる人、そして分別に応じた思考ができる人、そういう人が「できる人」だと評価されると思います。

「無分別の智慧」と聞くと、そのような分別を働かせる努力を否定するのかと思われるかもしれませんが、決してそういうわけではありません。

大体、仏教という教えが言葉を用いて物事の道理を解明しているのであり、言葉による説明を決して放棄しないのです。

最後の最後には言葉を離れてゆく境地があるとしても、その境地に至るまでの言葉による道理の解明には決して手を抜かないのが仏教なのですね。ですから、分別を働かせる努力そのものを否定したり無意味とされるわけではありません。

分別を働かせないと、人間社会において意思疎通することも、思考を働かせることさえもできませんから必要な努力には違いありません。

ですが一方で、

「分別は、あくまで仮にしかできない」

という厳粛な事実を決して見落とさない視点が仏教にはあるのです。

例えば、分別の最たる例は「自分は自分、他人は他人」という分別ですね。

この分別はしっかりしていなきゃいけないというのが常識だと思います。

この分別をいい加減にして、他人の問題に過度に干渉し過ぎるのは良くないし、自分の問題を他人に依存するのも良くない。

「自分の課題」と「他人の課題」との分別を乱しては、自分も他人も害することになりかねない。

まあ、正論ですよね。

基本的にはそれで間違いないのだと思います。

だけど同時に、そんな風に割り切れないのが人間だというのも本当じゃないですか。

分別を働かせて状況を分析すれば、苦しんでいる目の前の人が抱えている問題は、紛れもなくその人自身が解決せねばならない、その人自身の課題である。

理屈としてそれは明らかにわかる。

その人が自分で考えて、自分で解決方法を見つけ出して、自分で解決するのが正しい。

その「正しさ」は嫌というほど分かる。

けれど一方でそれを「その人の問題だ」と割り切れない思いが捨てられない。

そういうところが人間にはありますよね。

それは、感情的になり過ぎて、理性が弱いからなのでしょうか。

人間の未熟さ故なのでしょうか。

その「割り切れなさ」もまた、ある種の正しさだと見る視点が、仏教にはあるのです。

これは仏教が「縁」という視点を持っており、「一切は縁によって作られている」という縁起という教えがあるからなのです。

「縁」という言葉は日本人としては馴染み深いものですが、どうも日本独特のニュアンスのある言葉だそうですね。

知人がフランス人に「縁」という言葉の意味を説明しようとすると、非常に説明に苦慮したという話を最近聞きました。

「縁の説明にピッタリくるフランスの単語が見当たらない」

と言われるのです。

「縁」というそのたった一文字の中には、論理や分析をどれだけしても捉えきれない奥深さが含まれているのかも知れません。

少なくとも仏教が教える「縁」とはそういうものです。

あえて「縁」を分析すれば、「関わり」とも言い換えられますから、「関わる側」と「関わられる側」と分けることが一応はできます。

そして、自分の立場で語れば、「関わる側」が「自分」で、「関わられる側」が「他人」ということもできます。

ですが、現実世界で考えた時、その「関わる側」と「関わられる側」を、どこで線を引いて区別できるのかと考えると、どこにも線の引きようがないことに気づくのですね。

この文章を読んでくださっているあなたは、私からすれば「関わられる側」であり「他人」ということになりますね。そして、「関わる側」である「私」は、こうして文章を書いています。

だけど、その「文章を書く」という行為自体がすでに「文章を読む」という他人の存在を前提としているのです。書きながらも「読まれる」という他人の存在がすでにその中に含まれているのです。

そんな「他人」の存在を分離して、ただ「書く」という独立した行為が成り立ってはいないのです。

そんな風に、「関わる側」と「関わられる側」とは一体不離であり、線を引いて明確に分離のできないものなのです。そんな分けようのないものを、あえて説明の便宜上、仮に分けたに過ぎないのです。

縁を分析して分けられた「関わる側」と「関わられる側」の区別は、あくまでも「仮」でしかありません。

これが仏教で教える縁の大切な特徴なのです。

そのような縁ということを考えれば考えるほど、自分と他人という言葉上の区別は、あくまでも「仮」と言わざるを得ないのだなと知らされます。

そして、このような縁の本質を見極める智慧のことを「無分別の智慧」と仏教では言われます。

分別を働かせて状況を正しく分析して、正しい判断をしているはずなのに、なぜかうまくいかない、悩みやトラブルが尽きない。

こういうことは決して珍しくはありません。

それはもしかしたら、「縁」という本質を見抜く無分別の智慧を軽視して、分別だけで自己と世界を把握しようとした結果の「理論だおれ」に陥っているのかも知れません。

仏教を学ぶことは、「縁起」という道理を学ぶことであり、「縁」の本質の理解を深めることでもあります。

その学びは、情報や言葉が氾濫し、乱暴な分別が暴走に域に達しているようにさえ思えるこの現代に、最も必要なものなのかも知れません。

こちらに
いいねして頂ければ、Facebookで最新記事をチェックできます。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする