哲学者・日本代表が語る「善」がスゴい〜西田幾多郎『善の研究』を読んで〜

「善」を徹底的に研究した日本の叡智

「え、まだ読んでなかったの!?」
と言われても仕方がない。
「日本の哲学」というテーマで発信しておりながら、これをまだ読んでいないのは、どうなのか…
と、長らく思っていた書籍がありました。

「日本の哲学」といえば、まず挙げられるであろう人物。
それが、西田幾多郎なのですが、
その西田氏の代表作『善の研究』を、最近ようやく読みました。

あなたは、ご存知でしょうか。哲学者・西田幾多郎
「哲学」といったら西洋のイメージが強いですよね。
ソクラテス、プラトン、アリストテレス、デカルト…
カタカナと、堀の深い顔ばかりが浮かび上がってくるのですけど、
大正から昭和の時代にかけて、日本にもついに世界的に有名となる「哲学者」が現れた。
…なんて言われるくらいの人物が、西田幾多郎なのですね。
京都大学で教授をしている間、西田氏がよく思索に耽りながら歩いた道が、
現代でも「哲学の道」と呼ばれて京都の名所となっています。
そんな多大な影響力を持ち、間違いなく世界に誇れる偉大な哲学者だというのが、世の定評です。

『善の研究』を読むことで得られた、かの人物の出会いは、私にとって大きな収穫でした。
今日はその学びを少し、シェアしたいと思います。

このタイトル
『善の研究』
個人的に、とても惹かれるタイトルなんですけど、もともとは『純粋経験と実在』というタイトルだったそうです。
それが、出版社から反対されて、このタイトルになったんだって。

ちょっとしたエピソードのようですけど、そこに色々な想像が掻き立てられますね。
西田氏としては「実在とは何か」というテーマこそが核心だったのであり、
それを解き明かすキーとなる「純粋経験」という概念を、打ち出したかった。
そんな「こだわり」が『純粋経験と実在』という、ボツとなったタイトルから感じ取れます。
だけど、
「いやー、それちょっと、何言ってんのか分かんないっすよ…」
と言われたのかどうかは分かりませんが…
「『実在』について、語るぞ。『純粋経験』について、語るぞ!」
なんて言われても多くの人にとっては、「???」ですよね。
私もたぶん、このタイトルだと惹かれなかったと思います(苦笑)
(もちろん、本を読んだ後はこの納得できるのですが)

それで、
『善の研究』
うん、出版社、いい仕事したな…なんて思っちゃいます。
それに、たしかにこの本は「善の研究」なのですね。
「善」とは何かを、本当に徹底的に研究している書物だと感じました。

そこで早速、本題なのですが、
西田幾多郎は「善」をどのように定義付けたのか。
これについて、お話していきたいと思います。
色々な言葉で説明されていますが、シンプルに述べている表現をあげると、

「善とは自己の内面的要求の実現である」

と言われているのですが、
やー、これはシンプルですよね。

自己の内側から湧き出る要求を実現してゆくことが「善」だ、と。

言葉は、シンプルです。
だけど、あなたはこの言葉から何を感じたでしょうか。

きっと哲学を深める事は、
この言葉の感じ方を、ぐっと奥深いものにしてゆく事なのでしょう。
そしてこの言葉の実践を、より「厳しい」ものとしてゆく事なのでしょう。
『善の研究』を読んで強く感じたことでした。

「わたし」の正体が思いもよらないところに…?

問題は、「自己の内面的要求」って、何なのかということです。
「自分の内側から湧き出る要求」って…
「美味しいものが食べたいなあ…」とか
「彼女が欲しいなあ…」とか
「彼氏が欲しいなあ…」とか
「もっと稼ぎたいなあ…」とか
自己の内側から沸いてくるものって、そういうものなのでしょうか。

ただ、西田氏がここで言う「自己」とは何なのか。
これが、実に奥深い意味を持っています。
というより「自己」ってものをどう理解するのかって、まさに哲学のメインテーマといってもいいものですよね。

では西田氏は「自己」を、どう定義したのか。
これについても色々な表現で語られていたのですが、私が特に目を引いた一文は、これでした。

「自己は、無限の統一者である。」

…さすがにこれはちょっと、何言ってんのか分からんっていう表現ですよね。
順を追って、お話していきたいと思います。

哲学ってのは、ある意味、「どこどこまでも疑う」学問なのですね。
「目の前に机がある。」
「私の座っている椅子がある。」
そんなことにさえも、「本当に存在するのか…?」と疑うわけです。
それは、ただ「見えている」だけ。
それは、ただ「触れている」だけ。
それがイコール「存在する」なんて、言えるのか?
…そんな調子です。

「なにそれ、面倒くさい」
と思う人もいるかもしれませんが、
「自己」とは何か?
の問いに迫るためには、この態度は「ものすごく」重要と言えます。

西田氏もまた、徹底的に疑うという姿勢を持った上で、
「疑うにも疑いようのない直接の知識とは何であるか」
と問題提起をしています。
そして、
「それはただ、我々の直覚的経験の事実のみである」
と、ズバリ答えています。
実はこれが、あのボツになったタイトルの中にもあった「純粋経験」という概念なのですね。
キーワードは「経験」です。

「今、何事かを経験している」

「今、このブログを読んでいる」
「今、椅子に座っている」
「今、雨の音を聞いている」
「今、昔の出来事を思い出している」
「今、理想の彼女のことを妄想している」
などなど、常に「経験」が溢れています。

(ただ「経験」と言われずに「直覚的経験」とか「純粋経験」などと言われているのがまた奥深くて、上記のように「言語化」されてしまう以前のもっとダイレクトな「経験」が「純粋経験」なのですが…話が複雑になりすぎるので、詳しい説明はここでは割愛します。)

いま直面する「経験」

これだけが、唯一、疑っても疑いようのない確かな存在だというわけです。
そしてこれが、あらゆる探求の出発点となります。

ところで、「昨日の経験」と「今日の経験」って、全く違う経験ですよね。
「昨日は休日で、一日中ベットの上でゴロゴロしていた経験」
「今日は出勤日で、会社で死ぬほど働いた経験」
もちろん細かく言えば、もっともっと多くの「異なる経験」の連続ってことになるのですが…

昨日は、ものすごい気が緩んでダラダラモードの私の姿があったわけで、
今日は、やる気満々で、昨日とは別人のストイックな姿があったわけで、
ある意味、日によって「まるで別人の経験」がなされていると言えるのですね。

だけどもちろん、「別人の経験」ではないですよね。
どっちも、「私の経験」に間違いありません。
だけど、その根拠は?と問われると難しいかもしれません。
だって、ただ「経験」ってやつだけを見ていたら、まるで別物なわけですよ。
だけど私達は何の躊躇もなく「どっちも私の経験」と言い張ります。
これは、
「昨日のダラダラ経験」と「今日のストイック経験」を、無意識に「統一」している
ということなのですね。

突き詰めて言えば、一日にいくつもの「異なった経験」が存在するわけです。
「歯を磨いた」「買い物をした」「カラオケに行った」「勉強してた」…
こんな調子で、経験A、経験B、経験C、経験D…と続いてゆく。
これら全部、別物の経験です。
だけど、私達はそれらを何の躊躇もなく「私の経験だよ」と言って「統一」してしまいます。

そしてその「統一」が無限になされて、その結果、無限の時間の流れが現れてくる。

この、無数の「経験」の背後にある「絶えざる統一力」の存在を西田氏は指摘して、
実にこの「統一させる働き」こそが「自己」そのものである。

「自己とは、無限の統一者である」

と、語るわけですね。

「いま、為すべきことが見える」視点を持つために

「自己とは、無限の統一者」
一昨日の経験、昨日の経験、今日の経験…
ちょっと前の経験、ついさっきの経験、今の経験…
それら一切を「我が事」としてしまう、「無限の統一」が常になされているのですが、
この「統一」は、時間的なことだけではないと、西田氏は言います。

例えば「仕事をしている経験」と言っても、
隣に座っている同僚
向こうの席に座っている上司
パソコンの回線を通じた先にいる顧客
そういった、様々な「関わり」が含まれています。
そんな「関わり」があってこそ、「仕事をする経験」というものは、成り立ちます。

「経験」は、必ず「何かとの関わり」あっての事です。
人でも物でも記憶の対象でも、
「何かとの関わり」あってこそ、「経験」というものは成り立つのですね。

そんな、周囲に存在する様々な対象にも、例の「統一力」は及んでいるということです。
「無限の統一者」からすれば、
「わたし」と「あの人」との区別も、
「わたし」と「この職場」との区別も、
「わたし」と「この社会」との区別も、
いわゆる「主体」と「客体」との区別が、なくなってしまいます。
全部、「統一」されてしまいますから。

「無限の統一者」という真の「自己」を自覚する時、
関わりのある「他人事」が、もはや「他人事」では無くなってきます。
「我が事」の範囲が、無限に広がってゆくのですね。
そんな、「無限に広がってゆくもの」が「自己」ですから、まさに「無限の統一者」です。
(このような他者との合一を、西田氏は「愛」とも述べています。)

さて、それが「自己」だとすれば…
ここで話を「善」に戻しましょう。
「自己の内面的要求の実現」「善」だと西田氏は述べますが、
いわゆる「利己的」な、「自己中心的」な、願望は「自己」の理解を深めれば深めるほど、淘汰されてゆきます。
「自分さえ楽できれば…」
「自分さえチヤホヤされれば…」
「自分さえ儲かれば…」
と言っているような「自分」とは、余りに狭い視野でみた「自分」なのですね。

そんな「この身」だけの「自分」なんて、狭きに失すると言わざるを得ません。
それだけで「自分」は成り立たない。
無限に広がる「統一力」に目を向ければ向けるほど、
「我が事」の範囲は、どんどん広がってゆき、
「自己の内面的要求の実現」たる「善」は、より重く厳しいものとなります。

「自己」を、より厳密に、より徹底して観てこそ、
「自己」の本当の願いが見えて来て、その願いを実現させる「善」も見えてくる。
「いま、何を為すべきなのか」
の指針が、確立されてゆきます。
ここにまた、哲学の価値があると言えるのでしょう。

※なお、今日お話した「善」は、あくまで「西田哲学」で語る「善」です。
仏教で説かれる「善」と、どれくらい一致するかは分かりませんが、通ずるところがあるなと感じました。