「俺の時はもっと厳しかったのだ」
他人に厳しい事を言ったり、キツイ事を強いる時によく
「自分はもっともっと厳しい中、キツイ中をやってきたのだ」
という事を言うのを聞きますよね。
あからさまに言わないまでも、心の中ではそう思っている、という事も多いと思います。
「自分はもっと苦労している。」
「自分はもっと厳しい中を耐えてきている。」
この事実が、他人に対する厳しい態度を正当化しているかのように思えるのですね。
そういう気持ちって、多かれ少なかれ、誰にでもあるんじゃないかなと思います。
自分が大きな苦労をしてきたのなら、
他人に少々の苦労を強いても、それは正当な主張だろう。
それが「公平」というものだ、と。
とにかく不公平なのが嫌で、
自分だけが損していると感じるのが嫌で、
自分が頑張れば頑張るほど、苦労すれば苦労するほど、
どうしてもそれだけで完結させられず、
「それにひきかえ、周囲の人たちはどうか…」
という気持ちで周りを見てしまうのですね。
本当は、自分が精一杯苦労したならば、精一杯頑張ったならば、その結果は頑張った自分に現れるのだから、
その自分の「因果応報」だけを見ていればよいわけです。
そこに、
「それに引き換え他人は…」
などと他人の問題に干渉する必要など何処にもないはずなのですね。
自分には自分の「因果応報」があって、
他人には他人の「因果応報」があって、
人それぞれが、自分の行い(因)に応じた結果の報いを受けてゆくのが道理です。
「自分がこれだけの苦労をしている」という自分の「因」の問題と、
「それに引き換え他人はどうか」という他人の「因」の問題とは、
全く関係はありません。
それを、どうしても関係づけてしまうのですね。
自分の「因」が大きく、そのこだわりが強ければ強いだけ、
他人の「因」がどうしても気になって、自分と比べてお粗末だと感じればなおのこと気になって、
ついつい干渉したくなる。
しかも、自分の「因」をひけらかしながら…
相手にとってみたらそんなものは、「拒絶」の一択のみとなってしまいます。
隣の人は、自分の知らないどんな努力をしているだろうか…
私達が他人の行いをみるときに、どうしてもやってしまうのが、
「自分のこだわりで作った物差しで他人の行動の優劣を計ってしまう」
ということです。
一人ひとりの努力には、その人なりの「こだわり」が必ずあるのですね。
「正確、迅速に仕事を進めるように…」
「一緒に仕事する人が心地よく楽しくいられるように…」
「時間は必ず守るように…」
「目の前の人の気持ちが楽になるように…」
自分が得意としていること、自分が大事に思っていること、
そんな「こだわり」は必ず一人一人異なったものを持っていますから、
一口に「努力している」「苦労している」といっても、それは実に多岐に渡るものとなります。
だからこそ、自分の努力と他人の努力とを関連付けようとすると、
「自分のこだわりを押し付ける」
という構図がどうしても出来てしまいます。
自分がいつも重視している「こだわり」であれば、他人の行動に対しても、
その「こだわり」を通して見てしまうものですよね。
そして、他人が持っている自分と違う「こだわり」には、なかなか気が付きにくいものです。
「あの人は、仕事が遅いな…もっと早く出来ないのかな…」
「仕事の速さ」にこだわりをもっていれば、他人のそういうところが目に付きます。
だけどその人はもしかしたら、
自分の隣のデスクの人の事を気遣ったり、
自分の仕事と連携する人のために、色々と工夫を凝らしたりして、
時間をかけているのかもしれません。
「周囲の人が気持ちいいように」
という「こだわり」がものすごく光っていても、そこに気がつけないのかもしれません。
「他人は、自分の知らないどんな努力をしているとも知れない」
本当はこの視点、すごく大切なのですね。
私が認識できる「努力」の範囲なんて、本当に限られていますから。
そんな限られた視点で、
「自分はこんなに苦労して、こんなに頑張っている」
という自負をかかげて他人に行動に難癖をつけるのは、恐ろしく的外れなことになりかねません。
努力が「自信と魅力」になるか「自慢とウザさ」になるか
人一倍苦労して、努力を積み重ねてゆくこと自体は立派なことで、素晴らしいことですよね。
またその事に自信を持つことだって、大切なことです。
そういう努力を積み重ねてゆく自分の未来は、どんどん良くなっていくと希望を持てば、
精神的なコンディションも良くなってゆくことうけあいです。
ところが、その自分の苦労や努力を、「他人に対して誇る」ことをし始めると、おかしなことになってゆきます。
他人にしてみれば、そりゃあ「すごいね」というぐらいの感想は持ってくれるでしょうけど、
あくまでそれは他人事です。
あまつさえ、そんな自分の苦労や努力を背景に、他人の行動に干渉をし始めるとこれはもう、
「ウザい」としか思われない可能性が高いですよね。
他人の、他人のこだわりによる、他人のための苦労や努力のために、
どうして自分の努力をあれこれ言われなければならないのかと、反発を招くのがオチでしょう。
自分の苦労や努力を、
ただ自分の未来への自信につなげるのか、
他人に対して誇示し、他人の行動への干渉の材料にしてしまうのか、
ここで、せっかくの苦労や努力が「魅力」として輝くか、「ウザい」として嫌がられるか、分かれるのですね。
人間の心は「煩悩」と言われる色んな煩い、悩み、惑いを引き起こすもので溢れていると言われます。
そんな「煩悩」の一つに「慢」と呼ばれるものがあります。
文字通り「慢心」であり、「自惚れ心」です。
自分の優れている点、苦労している点、努力している点を、
ただ、自分の明るい未来への種とだけ見ればよいものを、
ついつい「他人」に対して誇らしげに自慢し、あまつさえ他人を見下してしまう心のことです。
この「慢」が煩悩の一つであるという事は、そんな心は誰だって持っているという事なのですね。
この「慢」で、「因果応報の道理」をただ「あきらかに、みる」という事を妨げてしまいます。
自分の苦労や努力は、それに応じた報いを自分にもたらす、というのが「因果応報の道理」です。
その「自分の報い」をより良いものにするには、
より、自分の努力を洗練させ、継続させてゆく他ありません。
ただそのことに一点集中してゆくのが、「因果応報の道理」に則った思考であり行動です。
ところがその苦労や努力を、どうしても「他人」と比較して価値を高めよう、という気持ちが起きてくるのですね。
その「比較しよう」という気持ちから、直接的に他人へ誇示したり、他人の行動へ干渉するという方向へ、
行動がズレていってしまいます。
そんなことをしても、自分の努力の価値は高まりません。
蒔いた種は、ただ、淡々と自分の未来の結果を引き起こしてゆくのみです。
もっと結果がほしければ、より自分の行動を洗練させ、継続させてゆくしかないのですね。
そして、そんな種まきが造り出す明るい未来に、ただ自信を持てばよいのです。
そんな姿こそが、真の「影響力」と言えるでしょう。
それこそが「魅力」ですよね。
わざわざ「誇示」するよりも、よほど周囲は評価してくれるでしょうし、刺激を受けて頑張れることでしょう。
そんな「因果応報の道理」は明らかであっても、
「これだけ苦労しているのだから…」
という所から起きる「慢」の心は、いつ惑いを起こして、「因果応報の道理」に則った行動を逸脱させてしまうとも知れません。
まさに「煩悩」ですね。
今、自分は「慢心」に動かされて、因果応報の道理から逸脱しかけているかもしれない…
そこに防衛ラインを張り巡らせて、
あくまで、自分の未来を生み出す自分の「因」を信じ、自信に溢れた人生を切り拓いてゆきたいものです。