隣に居る人は、私と同じ情景を見ているのだろうか
私はいま、このブログをおなじみのカフェで書いているのですが、
目の前には見慣れた風景が広がっています。
丸いテーブルがいくつも並んでいて、
赤い電灯が等間隔にぶら下がっていて、
黄色い長細い絵が壁には掛かっていて、
床は板張りのフローリングになっていて…
そして、そのカフェには私以外にも何人もの人がいて、
きっと同じ情景を見ているのだろう。
…と、本当に言えるのでしょうか?
本当に彼らも、私が見ているのと同じ情景を見ているのだろうか?
ふとそんな疑問が浮かぶことはないでしょうか。
物理的には、私とは異なる位置から見ている情景なので、若干角度は違うだろうけれど…
そんな位置や角度だけの違いではなくて、
もしかしたら、私とは全く違う情景を、隣の人が見ていてもおかしくないのではなかろうか、という話です。
「こういう事を考えてことがある」っていう人は、けっこういるのですね。
「私の見ている情景と、隣の人の見ている情景、本当は全然違うんじゃないだろうか…」
という想像です。
じゃあ、試しに隣の人に話しかけて聞いてみるといいかもしれません。
「正面に等間隔にならんでいるあの電灯、何色に見えますか?」
「え?赤いですけど。」
「そうですよね、赤ですよね。」
尋ねてみると、自分が思っているのと同じ答えが返ってきたとします。
じゃあ、やっぱり同じ情景を見ているんだ。
…と、これで本当に言えるでしょうか。
確かに「言葉上」では、同じ「赤い電灯」を見ていると言えるわけですが、
では、私の言う「赤」と、隣の人の言う「赤」は、本当に「同じ色」を指しているのだろうか?
もしかしたら、私が見ている「赤」と、隣の人が見ている「赤」とは、全く違うのかもしれない。
…と、そこまで考えたら、どうでしょうか。
実際に、これを確かめる方法も証明する方法も、ないのですね。
もちろん科学や生物学の見地から、
「私は赤い電灯が見えている」
という現象を解明することはできますよね。
「ある一定の波長が私の眼球のレンズを通って、その眼球の奥にある「網膜」へ届き、
その網膜で受け取った「波長」の情報を神経を伝って脳へ送られて、脳内でその信号が処理されてゆく。」
こんな風に説明できるでしょう。
確かに、
「眼球の中の網膜ではこういうことが起きていて」、
「脳の中ではこんな化学反応が起きていて」、
という具合に、科学や生物学で解明できる範囲の説明をすることはできます。
だけどそれはあくまで「肉体上」の現象の話です。
その「肉体上」の現象が、
「私のみている『世界』にどう反映されるのか」
これは、やはり「謎」なのですね。
共通する「肉体上」の反応が私と隣の人とに起きているのだとしても、
その「肉体上」の変化を、「私」はどのように受け取るのか。
そして、「私」はどのような世界を展開させるのか。
これに関しては、私と隣の人とが本当に「同じ」なのかどうなのか、科学でも生物学でも解明することはできません。
私の「人生の情景」は何で出来ているのか
仏教では、物理学的に、生物学的に、たとえ共通した現象が起きているのだとしても、
私達一人一人にとっては、それらの現象は「縁」の一つであって、
私達が持っている目に見えない「因」がそれぞれ違うために、全く異なる情景を生み出しているのだと教えられます。
私達に展開されてゆく「人生の情景」は、「因」と「縁」とが揃って生み出されてゆくのですね。
「因」だけでも、「縁」だけでも、私の「人生の結果」には成らない。
「因」と「縁」とが揃って初めて、私の「人生の結果」となります。
「因」というのは、私達一人一人が持っている、それぞれ異なるものです。
仏教では、それが「業(ごう)」だと教えられます。
「業(ごう)」は、ずーっと過去からやってきた「行い」のことですから、
私達一人一人、それぞれ違った「業」をずっと造り続けていると言えます。
私には私が過去から造り続けていた「業」があって、
あなたには、あなたが過去からずっと造り続けてきた「業」があるということです。
今日は、どんな「業」を造りましたか?
そう聞かれると、「いや、今日の業はちょっと…」と自信がなくなる事もあるかもしれません。
じゃあ、昨日の業は?
先週の業は?
先月の業は?
去年は、どんな業を造ったのか?
過去の日々は、過ぎさればもう夢のようなもので、飛ぶように過ぎ去ってゆきます。
特急列車の窓から流れる情景は、瞬間、瞬間に過ぎ去ってゆくように、
人生の情景もまた、飛ぶように過ぎ去ってゆき、次々と新たな情景が現れてゆきます。
そんな「情景」は過ぎ去ってでも、唯一消えること無く残り続けるものがその時その時、私自身が造った「業(行為)」なのですね。
それが、私達の未来の現実を生み出す「因」となるからです。
そんな「因」を、私もあなたも紛れもなく持っています。
だからこそ、私とあなたの人生の結果は異なるのですね。
そんな「因」が、周囲の様々な「人」や「物」や「環境」などの「縁」と結びついて、
私たちの人生の情景は次々と現れているというわけです。
これを「因縁が揃う」と言われます。
「同じカフェにいる」というのは、ただ「縁」が共通しているだけです。
たとえ同じ「縁」に触れてでも、自分の持っている「因」が、私もあなたも他の誰もがそれぞれ違いますので、
決して「同じ情景」にはなり得ないのですね。
「私の行為」の真の価値は
科学的には「同じ現象」と説明できるような事でも、私達にとってそれは「縁」の説明であって、
「そんな縁に触れた時に、私の人生の情景はどのようになるのか」
については、科学では毛頭説明のしようがありません。
それは、私達一人一人の「因」に関して、科学では未だ解明のしようがないからです。
だけど間違いなく言えることは、それぞれ違った「業」という「因」を持っている故に、
全く異なる人生の情景を、一人一人がみているという事です。
そう考えると少し、寂しくなるかもしれませんね。
たとえ恋人同士、綺麗な夕日を見ながら
「綺麗だね」
「うん、本当に綺麗だね」
(ネタがベタすぎてアレですけど…(汗))
などと囁き合っていても、
本当は違う情景をそれぞれが見ているのが実態なのだから。
私は、私だけの「人生の情景」をみている。
ということは、私は、私だけの世界を生きているという事です。
そして、その世界を生み出す決定的な「因」となるのが「業」でしたね。
だから仏教では、私達が生きる世界は「業界(ごうかい)」だと教えられるのですね。
自分の「世界」は、自分の「業」が生み出した世界だから、まさに「業界」です。
そしてこの「業界を生きている」という理解からますます、
「自分の行い」がいかに決定的で重要なのかが分かります。
「私の行いなんて、大した価値はないよ」
「私が何かをしたところで、大勢に影響は及ぼさないよ」
と、「自分なんか」の行いがとてもちっぽけな事のように思う人も多いと思います。
確かに「他人」にとっては、私が何をやるか、何を言うかは、「縁」という事になります。
これは、「他人にとっては」ですよ。
そして、影響力によっては、多くの他人にとっての「縁」となる場合もあれば、
ごくわずかの人にとっての「縁」でしかないという場合もあります。
私の「ブログを書く」行いも、他人にとってはネット上に構築される「縁」という事になりますね。
アクセス数が多ければ、それは多くの人にとっての「縁」になっているという事が言えるでしょうし、
あまりアクセスされていなければ、わずな人にとっての「縁」でしかないという事になります。
自分の行いの価値を、「他人にとっての縁」という視点でのみ見ていたなら、
影響力の差によって、行いの価値も変わる事でしょう。
だけど、自分の行いは、私にとっては「因」です。
私の世界を造る決定的な要因なのですね。
その「行い」がたとえ、誰一人にも影響を与えないものであったとしても、
それは私にとっては紛れもなく「因」です。
その「因」ひとつで、私の人生の情景は大きく変わります。
「業界」に生きる私達にとっては、どんな小さな「行為」でも、決定的に重要な意味を持つということなのですね。
これから私はどんな「業」を造るのか。
ここにこそ、注目すべきなのですね。
常に「因」と「縁」との双方を観る。
この視点こそが、何よりも「自分の行い」を大切にする信念の源となるのです。