言葉を超えた伝達手段を持つ人間の不思議〜ごまかせない「生き様」〜

自分の顔に「生き様」が現れる

一定以上の年齢を重ねると、顔に「自分の生き様」が現れてくる
なんて言われます。
「40歳を過ぎたら、自分の顔に責任を持て」
などと言われるのも、そのことなのでしょうね。

「生き様」というのは、
どんな「行動」を積み重ねてきたかという事ですね。

どんな人生観をベースとして、
何を思い、
どんな言葉を使って、
どんな行動をして、
どんな人と一緒に過ごしてきたか。

仏教ではこれらの「行動」「業」とか「業因」と言われます。私達は様々な「業」を日々積み重ねていっています。
それがそのまま、私達の「生き様」と言うことができます。
そしてその「生き様」だけは、ごまかすことは決して出来ないと仏教では教えられます。
過去からずっと、積み重ねてきた「生き様」(業)は、私達の心の奥底に全て残っているからです。

1日1日を過ごしては、過ぎ去り、また過ごしては、過ぎ去り…
過ぎ去ってしまうと、まるで夢のように消えてしまうのが、私達が「生きる」1日1日です。
遠い過去の日々になればなる程、そんな日々があったのやら、なかったのやらと、おぼろげな感じがします。

私の場合、中学3年間、高校3年間、ずっとサッカー部でサッカーの練習やら試合やらに一生懸命になって生きていました。
早朝に起きて、近所の広場で自主練習をしたり、ダンベルを持って筋トレをしたり、プロテインを飲んで筋肉をつけようとしたり。
バリバリの体育会系の日々を過ごしていた時期が何年もありました。

それが今となっては、サッカーはおろか、スポーツそのものをする機会もほとんどないような生活を送っていて、
上記のような過去を人に話しても、みんな意外に思います。
たまに私自身も、あの日々がまるで夢のような感じがして、「実感」としては、あったのやら、なかったのやら…という感じです。
あんなにも一生懸命に生きていたはずなのに、過ぎ去ってしまうとそんなものなのですね。

それが年齢を重ねるとますます、時間の流れは早くて、
あっという間に過ぎ去る、1週間、1ヶ月、1年間
それらの「過去」に対して、本当に「夢のような感覚」は増すばかりです。
本当に自分にとっての「現実」は「今」しかないのだなという事を感じるようになってきます。

そうやって、生きた「日々」そのものは、過ぎ去って夢のように消えてゆきます。
ところが、その日々の中で積み重ねた「行動」(業)は、全て、消えることなく残り続けるのですね。
そしてその業の積み重ねが、「今の私」を形成しているというわけです。
今の私は、遠い過去からの「業」の「結果」という事が言えます。

「業の集積」たる「私」

私の心の中に、これまでの「業」が全て残っている。
それはもちろん「全て記憶している」という意味ではありません。
記憶を司る「意識」よりもっと奥深くの心の中に、
自分の未来の結果を生み出す原因として残っているということです。

「過去」は夢のごとく過ぎ去っても、過去に造った「業」は、消えること無く私の中に残り続けるのですね。
そしてそれが、「これから」を生み出してゆく原因となります。
そうでなければ、
夢のように過ぎ去った「過去」の私と、
「今」の私と、
まだ見ぬ「未来」の私とが、
連続性のない無関係なものとなってしまいます。
「過去」も「今」も「未来」も、私の現実は一貫して因果の連鎖でつながっている。
それは、たとえ「過去」が夢の如く過ぎ去っても、過去の造った「業」が消えないからです。

遠い過去から消えることなく残っている数知れない「業」
それら全てを奥底に抱えた、膨大な「業」をすべて含めて、「現在の私」と言うことができるのですね。
だから、今この瞬間の「私」とは、なんとも奥深いものなのです。

そういう目で「人間」をみるとまた、興味深いものですよね。
あなたの周囲に今、何人の人がいるか分かりませんが(もしかしたら部屋で一人かも知れませんが)、
それらの人たち一人一人が、遠い過去からの「業」が積み重なっての「今のその人」だということです。
人間は一人一人、個性があります。癖があります。
いま私の周りには、後ろ頭をポリポリ掻きながら本を読んでいる人、
右肘をテーブルについて、頭を机に埋めるようにして勉強している人、
足を組んで座っている人、足を伸ばして座っている人、
色んな人が、色んな姿をそれぞれに現しています。
そんな、人それぞれに現れている「今の姿」が、いずれもその人たちの過去からの因縁の現れなのですね。

「原因は必ず、結果となって現れる」
これが曲げられない「因果の道理」というものです。
過去に造ってきた業は、たとえ夢のごとく過ぎ去ってからも、必ず私の結果となって現れます。
もちろん今、
何を思っているか、
どんな言葉を発しているか、
どんな行動をしているか、
その「業」が、これからの私の結果となって、必ず現れます。

言葉を超えた伝達手段

他人と接していると、
理由は分からないのだけど、
なんだか接していて気持ちがいい、
なんだか嫌な感じがする、
なぜか緊張する、
なぜかちょっと怖い、
どうもつまらない感じがする、
そんな、原因不明の「印象」というものが必ずあります。
「印象が全く無い」という場合もあるかもしれませんが、その「印象が無かった」もまた一つの「印象」ですよね。

これは、その人の話している「言葉」だけでは説明できないはずです。
対面して
「初めまして。どうぞよろしくお願いします。」
という言葉を交わした。
そのわずか一言、そして数秒。
その間にお互いに色んな「印象」を受けたり、与えたり、しているわけです。
それも、明確に「意識」で認識している印象もあれば、「無意識」に受け取っている印象もあります。
いやむしろ、「言葉を超えた印象」というものは表面上の「意識」よりも、もっと深い「無意識」に届いているモノの方が圧倒的に多いものです。
そしてそういう「印象」のやりとりが、その後の両者の関係を大きく左右していくものです。

「意識」が発達し、「意識」に頼って生活している現代人は、つい「言葉」に意識が向きがちです。
いい印象を受けてもらうには、
「どんな自己紹介をしたらいいか」
「どんな挨拶をしたらいいか」
「どんな褒め方をしたらいいか」
そういう「どんな言葉を使えば好印象を持ってもらえるか」という事ばかりに意識が向きがちなのですね。

ところがそんな「言葉」にばかり気を配っている間に、「言葉」とは全く関係のない別の要素によって、
相手の「意識」の底の「無意識」に、「私」の印象は否応なしに届いてしまっているのが実態なのですね。

それは、
ちょっとした視線の変化だったり、
上体の姿勢だったり、
声のトーンだったり、
身振り手振りのジェスチャーの有様だったり、
服装だったり、
清潔感だったり、
実に様々な要素が、「言葉」とはまた別の形で相手に伝わっています。

その「視線」一つとっても、
「目が泳いでいる」とか言いますよね。
これは基本的にいい印象になりにくいと思いますが…
その「泳ぎっぷり」も実に様々で、それによって、悪い印象がさらに拍車をかけたり、影響は単純ではありません。
「強い目力(めぢから)を感じる」なんていいます。
まっすぐに、力強さを湛えた視線を向けてくるという事なのでしょうが、
その「まっすぐ向けられる視線」と一言でいっても、そこに、
威圧感がこもってたり、頼もしさがこもっていたり、慈愛がこもっていたり、
実に色んな印象の違いが、「目」一つで生じるのですね。

「ジェスチャー」と言っても、
そわそわした、変に素早いジェスチャーや、
ゆったりした、余裕を感じさせるジェスチャーなど、
手の動き、肩の動き、足の動き…さまざまな微妙な動きから
「自信」「焦り」「恐怖」「疑惑」…などなどの印象を相手に与えているはずです。

「声のトーン」にしても「姿勢」にしても、その微妙な変化は、その人その人によって、複雑多岐に渡ります。

こういったものを総括して「ボディーランゲージ」と言われますが、
これは「言葉を超えた言語」であって、「言葉」以上に、相手の心の深い部分にまで影響を及ぼす「伝達手段」です。
そしてこの「ボディーランゲージ」がまさに、その人の「生き様」の現れです。
過去から日々積み重ねてきたその人の「業」が、ボディーランゲージに現れているのですね。

だからこそ、「生き様はごまかせない」と言えるのですね。
「業は消えることなく必ず結果を引き起こす」
この因果の道理に向き合って、着実に堅実に、善き因縁を求めてゆきたいものです。