自分の内面を見すぎると「自己嫌悪」になってしまうのだろうか〜「自己の真実を知る」とは〜

自分の内面を見れば見るほどイヤな心を見てしまう

あなたは、自分の内面に、よく目を向けている方だと思いますか?

「内面」というのは、外からは分からない、「自分の心の中でどんなことを思っているのか」という事です。
「内面を磨く」というのは、いわゆる心の鍛錬の事をいいますね。

「人に好かれる行動」といっても、
「人から尊敬される振る舞い」といっても、
「危機に直面しても乗り越えられる行動」といっても、

それは、「内面」から出てくるものばかりです。
また逆に、

「嫌われる行動」も
「他人を傷つける行動」も
「危機を前にしてすぐに逃げ出す行動」も
やはり「内面」から出てきます。

だからこそ、
どれだけ綺麗な格好をしても、「人に好かれるテクニック」なんかを覚えても、
そういう表面や小手先でごまかせるのはほんの一時だけのことで、
結局、「内面」を磨かないと何事も上手くいかないと言われるのですね。

仏教でも、自分の心の内を深く見つめることをとても重視しています。
そして、万人に通ずる人間の心の内の実態を詳しく教えています。
それが「煩悩」です。
「煩悩」と聞けば、そんなにいいイメージはしないと思います。
ドロドロした感じの、自分勝手な方向に向かってしまうような心を思い浮かべると思いますが、
そのイメージ通りです。
欲望、憤慨、怨念、妬み、殺意…
おぞましいありとあらゆる心がこの「煩悩」の一つと言えます。

この「煩悩」こそが、万人に共通する「内面」の実態だと説くのが仏教なのですね。

実はここに、
「内面を見れば見るほど、自分のイヤな心を見てしまう」
となってしまう理由があります。

自分の内面を深く見つめて、
「キレイな心ばかりだな…
本当に立派な考えばかりが起きているな…」
などとは、とても思えないのが普通なのですね。
その逆です。
内面を深く掘り下げれば掘り下げるだけ、見えてくるのはむしろおぞましい心です。

誰だって、綺麗でありたいし、格好良くありたいですよね。
だから、自分が綺麗であるように、格好良くあるように、基本的に努めているはずです。
ヘアスタイルや、ファッション、そして、肉体もほどよく鍛えていれば、
スラッとした、いい感じの姿を保つことはできます。

ところが内面は、そんなヘアスタイルやファッションのように整えられるものではないのですね。
「心」というのは、コントロールできそうで、やってみるとこれが暴れ馬のように、御しがたいものがあります。
他人の心が思い通りにならないのは当たり前にしても、
自分の心なのだから、自分でコントロールできるハズと思いたいのですが、
「イヤな心、恥ずかしい心、情けない心…」
そんなものが、コントロールの外側からどんどん沸いてくるのが「心」の実態なのですね。

仏教ではそんな人間を「煩悩熾盛の衆生(ぼんのうしじょうのしゅじょう)」と言われます。
ドロドロした醜い煩悩が常に燃え盛っていて(熾盛)、止むことがないのが人間の心だということです。
「内面をしっかり整えよう」として、自分の心に向き合えば向き合うほどに、
皮肉にも「整えがたい」煩悩の有様に直面させられます。

だから、優しい人や、人柄の素敵な人ほど、逆に自分の心の醜さを感じているという事が、決して少なくありません。

私だけなのだろうか、こんな醜い心を抱えているのは…?

仏教では、この自分の心の内を直視することが大切だと説きますが、
直視して見えてくるものが、おぞましい「煩悩」だとすれば、あえて自分の中にイヤなものを見なければならないことになります。

誰だって自分は綺麗でありたいはずなのに、
逆に醜いものを自分の中に見なければならないのなら、
そんな誰も見たくないものを、どうして「見なさい」と勧められるのでしょうか。
そんなことをしたら、自信を失ってしまったり、ともすれば自己嫌悪に陥ってしまう事にならないでしょうか。

この疑問を解くために知っていただきたいことは、
仏教で教えられる「煩悩熾盛」の人間の姿というのは、
古今東西変わらない、万人に共通した姿だということです。

ということは、自分の中に知らされる「醜さ」に関しては、実は「みんなそうだ」という事なのですね。

…自分だけだと、思っていました?
こんなに醜い心を抱えているのは、自分だけじゃないかと思っていたでしょうか?

確かに、他人の心は目に見えませんから知りようがないですよね。
だから、周囲の人たち、それも親切そうな、人柄のいい人たちが、
まさか自分と同じように、おぞましく醜い心を抱えているなんて、思いもよらないかもしれません。

ですが、それこそ他人にとっても同じ事がいえるわけですね。
あなたが、自分の中の心の醜さを、そのままモロに出しているなら別でしょうけど、
そんなことはないと思います。
周囲の人たちだって、あなたの中にそんな醜い煩悩がそんなにも激しくうごめいているなどと、夢にも思えないはずです。

これは、お互いに知り得ない心の内の問題なのですね。

さらに言うなら、
自分で自覚出来ている「心の醜さ」も、実際に私が抱えている煩悩のうちの、ほんの一端なのですね。

例えるなら、この地面の奥深くに地下水が脈々と流れているとしますと、
その地面を掘り続ければ、やがてその地下水の流れている所までたどり着き、水が地上へと吹き出して来ますよね。

ちょうどその、「吹き出してきた水」が、何かしらのきっかけで「沸いてきた」私の醜い心です。

嫌いな人が、ひどい目に遭っているのをみて、それを楽しむ心が出来たとか、
大火事や災害で多くの人が悲惨な苦しみに遭っているのに、それを興味半分で見たがる心が出て来たとか、
友達が出世したり恋人が出来たと聞くと、「おめでとう」と言いながらもザワつく心が見えてくるとか、

何かをきっかけとして(仏教ではそれを「縁」と言いますが)、自分の中に醜い心が見えて来ることがあります。
これはちょうど、地下水が脈脈と流れているところへ、穴を掘り当てて、水が地上に吹き出たようなものです。

しかし、その「吹き出た水」の、何千倍、何万倍もの量の水が、地中深くには流れているのですね。
それと同じように、自分で「醜い心が出てきたなあ…」と感じているのは、本来自分の持っている醜い煩悩の、ほんの一端に過ぎないわけです。

では、自分ではふだん自覚できていない、心の奥底で燃え盛り続けている「煩悩」とは、一体どんなものなのか?
それは、私達では想像もつかないものです。
そこに光を当てて、それを明らかに教えているのが仏教です。

仏教が私達に知らせようとしている「煩悩熾盛」の私の姿とは、
他人はもちろん、自分でも未だ分かっていない、心の奥底に潜む人間の本性のことなのですね。

「自信喪失」でも「自己嫌悪」でもなく、自己を知るということは…

万人が共通して、自覚無しに心の奥底で抱えている「煩悩」
それを知るということは、
「自信を失う」とか「自分が嫌になる」とか、そんなレベルの内容ではありません。

「自信が持てなくなったり」、「自己嫌悪になったり」、というのは、いわば相対的に自己を見つめてのことです。
他人と比べたり、過去の自分と比べたり、
そんな比較の上で、
「優れている」「劣っている」「美しい」「汚い」という評価を自らに下しているわけですね。
自覚しようがしまいが、そこには必ず他人や過去の自分との比較があります。

ところが、仏教で「直視せよ」と言われている「煩悩熾盛」の人間の姿とは、
万人共通の人間の姿であり、
昔も今も変わらない人間の本性のことです。
他人と比較して、綺麗か汚いか、という問題でもなければ、
昔の自分よりも優れているか劣っているか、という問題でもありません。
ただただ、
「これが本当の私の姿なのか…」
「これが、人間の本性なのか…」
という「真実」を知るという事なのです。
そこに「他人との比較」など、持ち込む余地もありません。

私達が、生活上で抱く「自信」は、日常の様々な場面で為す「自分の行い」に対するものです。
磨いてきた仕事のスキルで、色んなイレギュラーが起きても柔軟に対応できるようになった、とか。
クレーム対応の経験を積んで、他の人では対応しきれないような相手にもばっちり対応できるようになった、とか。
ビジネスの知識や経験で、人よりはるかに多くの年収を得ることができるとか。
自分の「行い」と、
その「行い」がもたらす「自分の未来」
これらに対して、深く確信出来れば出来るだけ、それは確固たる「自信」となります。
これは、日頃の学びや経験などの努力で如実に培ってゆけるものであり、とても大切なものですね。

仏教が説く「醜い煩悩」というのは、それらの「行い」のずっと底にある人間の本性の事なのですね。
それも、万人が共通して、昔も今も変わらず抱えている「欲望」や「憎悪」や「妬み」のような「煩悩」。
その、人間の「真実」を明確に知ることを目指すのが仏教です。

「自己の真実」を知ることの価値は、とてもとても語り尽くせるものではありませんが、
ごまかそうが、避けようが、一生ついてまわる「自己」の問題です。
そこに真正面から向き合う事の大切さは、色々な所で言われている事ですね。

ともかくここでは、「醜い煩悩」という「自己の真実」を直視することと、
生活上の自信を持つ事とは、ちゃんと両立するものだということを知っていただければと思います。

生活上の「行い」を洗練させて、自分のスキルと、その行いが生み出す未来に確信を持ち、自信を深めてゆく。
これも、もちろん大切なことです。

それと同時に、その「行い」の底にどんな心が動いているのか。
自分の行動を根本的に動かす「本性」とはどのようなものなのか。
それを直視することもまた、人生を本当に実りあるものとするために、とても大切なことなのですね。

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コメント

  1. こんにちは(*´∇`*)いつも勉強に楽しく読ませてもらってます、ありがとうございます
    今日の心のお話、煩悩は最近ちょうど悩んでいるとこでした。

    外面だけしっかりした
    八方美人な自分に悩んでます

    特に大勢の場にいる時に
    いつも笑って愛想よく、輪にはいり
    あまり興味ないけど色んな人に話しかけしてる事にほんと、疲れます
    本来は人付き合い苦手で、一人で自由にいる方がどんなに気楽か、と

    それでもそう振る舞うのは、明るく良い人と思われたい、煩悩の名誉欲になるのでしょうか。

    煩悩って疲れますね、正直メンドくさいですが頑張ってこれからも自分の心をこのブログを通して見つめていきたいと思います。
    宜しくお願いしますo(^-^)o

    • takeshogo より:

      いつも読んでいただき、ありがとうございます(^-^)

      文字通り、煩わされ悩まされるものが煩悩…ホントに疲れますね(^_^;)
      そんな煩悩ばかりに動かされてしまうのは、お互い様ですね。

      けれど、そんな「煩悩の演出」でも、周囲に気遣っての素敵な演出もあるのは間違いないですね(^ー^)