「やる気を出す」って、こういうこと
子供に勉強を教えた経験は、あるでしょうか。
私は一時期、家庭教師や塾講師をしていたことがあります。
小学生から中学生の子どもたちに、いろんな科目の勉強を教えていました。
この仕事の課題は、「生徒たちに分かりやすく教えること」よりもまず、「やる気を出すように仕向けること」ですね。
理想の形を言えば、生徒の気持ちをよくリサーチして、その子が何を望み何を求めているかをキャッチする。
その望みを上手に「勉強する」という行動につなげていく。
「自分の望みを叶えるために必要な手段がこの勉強だ」
と感じることができれば、他ならぬ自分のために「勉強を頑張ろう」ということになりますね。
『ビリギャル』という映画を観たのですが、
これは学校の成績がダントツでビリだった高校2年生の女の子が、ある塾で出会った講師の影響を受けて、本気で慶応大学を目指して勉強するという話です。
その塾には、その主人公の女の子と同様、学校の勉強に全くついていけない生徒たちがいました。
それらの生徒たちに、その講師はものの見事にやる気を出させ、生徒たちはそれぞれの目標を目指して勉強していたのでした。
印象的だったのは、入塾面接に来たある金髪の男子生徒に、講師が勉強への意欲を掻き立てる場面でした。
その男の子は、父親の家系が代々弁護士をしていることから、父親から弁護士になること強く求められていたのでした。
ところが男の子はそのプレッシャーに強く反発し、
「絶対に父親の思い通りになるものか。逆に、そんな思いを押し付け続ける父親に復讐をしてやる。」
と言って、ゲームばかりをしているのでした。
そんな男の子に講師は一つの提案を持ちかけます
「ものすごい復讐の方法を思いついたよ」
と。
その言葉に男の子は強く興味を惹かれます。
「どんな方法だ?」
すると、講師は続けます。
「例えば、マリオがクッパを倒してピーチ姫を助けに行ったとして。ところがマリオはピーチ姫を助けることなく、そのまま置き去りにして帰ってしまったとしたら、これは残酷な仕打ちと思わないか?」
「…それは確かに残酷な仕打ちだな。」
「いいかい、君はこれから、受験勉強をして大学に入って、それから司法試験を受けて、合格するんだ。」
「え、それじゃあ親父の思うツボじゃないか。」
「ところが君は、司法試験に合格しておきながら、弁護士にはならない。どうだ?こんな残酷な仕打ちはないだろう?」
こんな調子で、男の子の「父親に復讐してやりたい」という気持ちを叶える手段として「勉強する」という行動を提示し、本気で勉強に取り組ませるのでした。
ところが面白いことに、勉強している間に、その男の子のモチベーションがまた別の形に変化したのでした。
ある日、男の子は講師にこんなことを言いました。
「先生、俺、新しい復讐を思いついたんだ。」
「どんなことだ?」
「こないだ親父の仕事で救われた人が、親父にとても感謝しているのを見て思ったんだ。
あんな親父も他人のためになることをしているんだなって。
だったら俺は、そんな親父よりも、もっと有能な弁護士になって、
もっと凄い仕事をして親父を悔しがらせてやるんだ。」
彼の「復讐」という願望は、やがて世のため人のために活躍したいという気持ちにつながっていくのでした。
子供の父親に対する反発心というのは、色々な思いが入り混じっています。
「怒りの心」や「恨みの心」また同時に「認められたい、認めさせたい」という気持ちもあるでしょう。
親の愛情を求める欲望だったり、「勝ってやりたい」という名誉欲だったりするかもしれません。
このような心を仏教では「煩悩」と言います。
「欲の心」「怒りの心」「妬み、嫉み、恨みの心」などに代表される人間の本質的な心のことです。
あの塾の講師は、男の子の中に渦巻いている煩悩を、上手に人間社会の活躍に適合する形に仕向けて行ったわけですね。
同じ親に対する反発心でも、その反発心でゲームばかりしていたのでは、社会で活躍する方向には進みにくいでしょう。
その「反発心」という強烈なエネルギーを源として、「勉強する」という行動を起こすことができたならば、社会で活躍するチャンスを掴み取ることができます。
同じ「反発心」、同じ「煩悩」でも、よき縁にあって、上手に方向づけられたならば、人間社会での成功の原動力にもなり得るのですね。
走り出すための出発点
煩悩が渦巻いているのは子供だけではありません。
大人にも、心には子供と同じように大人の「欲望」、大人の「怒り」、そして大人の「恨み」が渦巻いています。
子供と大人とでは色んなところで大きな違いはありますが、それでも「煩悩」が常に行動を支配しているという点では全く変わりありません。
私の行動を支配しているのは常に、「欲望」などの煩悩で、人間は「欲望」に突き動かされて行動している。
この事実を変えることは、不可能と言えるでしょう。
物が上から下へと落ちるのと同じです。
この地球上にいる限り、どうあっても、物は上から手を話せば地面に向かって落ちていきます。
たとえ上空へ放り投げても、やっぱり重力には逆らえず、下へと落ちていきます。
「物は上から下へ落ちる。」
「水は高いところから低いところへ流れる。」
この事実を「変える」ということはできないのと同じように、
「人間は欲望に突き動かされて行動する」
これは変えようのない、人間普遍の真理だと仏教では教えます。
だから、「その欲を断ち切れ」というのも、また「その欲を少なくしなさい」というのも、現実的ではないのですね。
仏教では、「欲望渦巻く自分の心を、よくよく見つめなさい」と教えます。
大切なことはこの本質をよく理解して自覚することなのですね。
「欲望」はあくまで、「自分を満たそう、自分を満たそう」とするもので、そんなに綺麗なものではありません。
だから、自分の心がそんな欲で100%支配されているなどと思いたくはありません。
それで表面上は、「他人のため」「周りのため」「世の中のため」という格好のつく心を示しています。
ですが、その心はどこから起きているのでしょうか。
その心の底を探ったならば、やはりその奥底には強烈な欲望が常に渦巻いています。
その奥底の本性から目をそらさずに見つめることが、とても大切なことだと仏教では教えます。
「大人」なりの満たし方
そうすると、私達の生活上の課題は、欲望を断つことでも、欲望を少なくすることでもなく、
自分の欲望についてよく理解して、そしてその欲望をどう現してゆけばよいか、ということになります。
子供の頃は、わりと直接的に欲望を現して、あからさまに「欲しい、欲しい」と求めてばかりいたかもしれません。
親や大人に対してダダをこねたり、ねだったり、そんな方法で満たすことも出来ていました。
それは、子供は、欲しいものは親などの保護者から貰うという形がほとんどだったからです。
大人になれば、やがては一人立ちして「社会人」となりますね。
すると私達が考えることは「社会」から如何に欲しいものを貰うかということになります。
社会は、子供の頃のように、ねだろうが、駄々をこねようが、欲しいものはくれません。
欲しいものを手に入れるには、まず私が、社会に対して何かを提供する必要があります。
お金が欲しいならば、「お金」に値する価値を私が社会に提供する必要があります。
それが「働く」ということです。
また、人からの好意や尊敬が欲しいなら、無条件で愛情を注いでくれる親とは違って、他人が私に好意を抱くような行動を、私がしなければ得られません。
それが、相手を楽しませる「エンターテインメント性」だったり「思いやり」だったり「共感力」だったり「頼りがい」だったり、要するに「人としての魅力」ということになります。
そういったものを用意して、提供した上で、「欲しい」と求めることでようやく私達の欲は満たせます。
一生懸命働くことも、自分の魅力を磨くことも、能力を磨くことも、勉強して知識をつけることも、大人としての欲の満たし方なのですね。
この社会で自分の欲が満たせる仕組みを理解して、欲を強く満たそうとすればするほど、自分を磨いて、一生懸命働こうとするのですね。
そうすれば、この社会で欲深いことが「悪い」というのは、ナンセンスと言えるでしょう。
「私を常に突き動かすものが欲望」
こういう人間の本質から目をそらしていては、不可能なこと、不自然なことにエネルギーを注ぐことになってしまいます。
仏教では欲望に対しては、「断ち切りなさい」でも「減らしなさい」でもなく、「ごまかさずに見つめなさい」と教えます。
その上でこそ、この欲望一杯を、どういう方向に向けてゆくかという、「自然な形で」努力してゆく第一歩を踏み出すことができます。
自己をごまかさずにみること。
これが、本当に望む方向へ人生をつき動かす第一歩と言えます。