私とあなたとは同じ世界にいない
仏教では、
他人は違う世界に生きている
と教えられます。
そう、異世界の住人なのです。
…というと、ファンタジーチックですが、ファンタジーの話ではありません。
ちょっとこれを見て欲しいのですけど。
これは私の使っているペンです。
きっとあなたも
「そうですね、ペンですね。」
と見ていると思います。
私もあなたも、同じペンを見ているようなのですけど…
本当は、同じペンを見てはいないのですね。
実はこのペンは、私が人に仏教の話をする時に、紙に文字や図を書くために使っているペンです。
もっと言えば、そのことだけに使っているペンです。
仏教の話をする専用のペンというわけです。
よほど他のペンが無いという状況でない限り、このペンをそれ以外では使いません。
仏教の話をする時だけにこのペンを使う。
そうすることで、気持ちが切り替わり、引き締まると思って、そのようこだわっています。
なので、それなりの「いいペン」なのですね。
文房具屋の棚に普通に並んでて誰でも手に取れる物ではなく、ガラスのショーケースに入ってて、店員さんに言って出してもらわないと手に取ることもできない。
そういう類のペンです。
「仏教の話をする為だけのペンを持とう」
と決めて、それにふさわしそうなペンを探して、選んで、買った。
そして、そのためだけに使っている。
そういうペンです。
さてこういう情報が入ると、またこのペンの見方が変わってきたでしょうか。
さっき見たペンと、また違うペンが見えているのではないかと思います。
こういう情報を私とあなたとで共有しましたが、それでもやっぱり、同じペンを見ているとは言えないでしょうね。
ペンについての情報は共有していますが、それでも私とあなたとで、決定的な違いがあります。
何か、分かりますでしょうか。
私は、
このペンを「買った」
このペンを「使っている」
この行動をしているのは、私だけです。
そんな私と、写真を見て情報を聞いただけのあなたとでは、やはりこのペンは全く違うペンとなってしまうでしょう。
こういうことが、あらゆる物について言えます。
私が、私の行きつけのカフェで誰かと会う時、
そしてテーブルを挟んで向かい合って座った時、
私とその人は、
同じカフェにいるようで、実は同じカフェを見てはいない
同じテーブルを見ているようで、実は同じテーブルを見てはいない。
それは、私とその人とでそれまで行動が違うからです。
私とあなたとでは、同じ物を見ているようで、実は同じ物を見ていない。
ということは、同じ世界を見ているようで、実は同じ世界を見ていない。
私とあなたとでは、違う世界を見ているということです。
もう一つ例を挙げたいのですが、
私は、「塾に通う」ということを一度もしたことがありませんでした。
(1年目の大学受験に不合格となって1年間の浪人生活で予備校には通いましたが。いわゆる「塾」というより、学校みたいな感じでしたね。)
そのため、「塾」という存在は私にとっては、話にだけ聞く、得体の知れない「何か学校以外で勉強している所」という認識だったのですね。
私の世界に「塾」という生々しい教室の存在は、無かったと言えます。
ところが、やがて私は「塾講師をする」という経験をする機会に恵まれました。
塾に「先生」として行って、塾に通う子供たちに数学や算数や理科を教えるという仕事をしたのでした。
それからというもの、町を歩くとやたらと「塾」が目に付くのですね。
これが意外にけっこう、あるんですよね。少子化とはいえ、子供を塾に通わせる率は近年かなり高いそうで、この業界では色々な大手の塾を中心にそれぞれ競って生徒を集めています。
そんな業界に足を踏み入れ、塾で生徒と接する日々を過ごすこととなったのですね。
すると私の世界に、急に「塾」があちこちに現れたのです。
そして、生徒を出迎えている塾の先生、見送っている先生、その先生に挨拶をして別れる子供たち、そんな生々しい光景が私の世界に如実に現れ始めたのです。
そんな仕事をするまでは、同じ町を歩いていても、そんな光景、記憶にないのですね。
それまでの私の世界には、そんな光景は無かったということです。
それが、私の行動が変化すると、それに応じた世界の変化が如実に現れたということです。
行いが生み出す「業界」
さて、「ペン」の存在にしろ「塾」の存在にしろ、共通して鍵となっているものがあります。
それは、私の「行い」です。
なぜ、私とあなたとで、全く違うペンになるのか。
それは、私とあなたの「行い」が違うからです。
私はペンを「買う」という行いをし、またペンを「使って話をする」という行いをしています。
あなたはこのペンについてはそういう行いはしていません。
この行いの違いが、そのままペンの違いとなっているということです。
ということは、「行い」の違いがそのまま、私とあなたの世界の違いになるということです。
なぜ私の世界になかった「塾」が、突然現れ始めたのか。
それは私が塾で「生徒に勉強を教える」という行いをし始めたからです。
それまでは、「教える」どころか、塾で「勉強する」という行いも私にはありませんでした。
だから、私の世界に「塾」はありませんでした。
それが、塾で「教える」という行いをした途端、私の世界に数多くの塾が現れ始めたのです。
私の「行い」が変われば、私の「世界」も変わるということです。
「行い」が世界を造っている。
これが仏教が教える世界観です。
一人一人の違った行いが、一人一人の違った世界を造っているということです。
「行い」のことを仏教では「業(ごう)」と言いますので、「行い」が造る一人一人の世界のことを「業界(ごうかい)」と言います。
私は私の「業界」に生きている。
あなたはあなたの「業界」に生きている。
そして、私とあなたの業(行い)は当然違っているので、私の「業界」とあなたの「業界」は全く違う、ということです。
先ほど、「私の世界に塾が現れた」という話をしましたけど、このように聞くと
「いや、塾はもともとあったけど、あなたが見てなかっただけでしょ?それが目に付くようになっただけでしょ?」
と、思うかと思います。
この「塾はもともとあった」という発想。
実はこの発想が、仏教と根本的に異なる発想なのですね。
「もともと塾は存在していた」
「だけどそれを見ていなかっただけ。そして見えるようになっただけ。」
私が見ようが見まいが、「塾」というものは客観的に存在している。
ということは、私が見る、見ないに関わらず、客観的に変わらない世界がある、
という考え方です。
この考え方を突き詰めるとそれは、
「万人にとって共通した一つの絶対的な世界が存在する」
という考え方なのですね。
宇宙があって、地球があって、日本があって…
その日本のある場所に私がいて、またある場所にあなたがいて…
こういう「まず万人に共通した絶対的な世界ありき」という考え方が、一般的に根付いていると思います。
ある意味この考え方は、キリスト教の世界観に近いと言えます。
キリスト教ではまさに、「まず世界が造られた」と説いています。
聖書の有名な、「神が世界を創造した」という話ですよね。
それから、神はその世界に、自分に似せた「人間」を造ってそこに住まわせた。
神→世界→そして人間
こういう順番ですよね。
確かにこれは自然な考え方と言えます。
ところが仏教では、根本的に違います。
神が造った絶対的・客観的な世界というものは、そもそも存在しない。
私たち一人一人の業が、一人一人の業界を生み出している。
私たちが共有している絶対的な世界があるというのがそもそも幻想だということです。
そんなものはなく、一人一人、違った業が生み出す違った業界に生きているということです。
異なる世界の他人に対して…
だから、私たちは他人がどんな世界に生きているのか、それをチラッと覗き見ることすら、できないということです。
その人は、その人だけの世界で生きているのだから。
そういう世界観で他人を見てみたら、また違って見えるはずです。
もし私が誰かを
「楽しそう」「幸せそう」「悩みなんて無さそう」
と、羨むような目で見ていたとしたら、それは、私の世界の中で作り上げた他人のイメージに過ぎません。
その人がどんな世界で生きているか、というのは、これとは全く異なります。
その人はその人だけのこれまでの業が生み出した、その人だけの業界に生きているのです。
もちろんその人のこれまでの業など、私が知る由もありません。
だから間違いなく、私の想像とかけ離れた世界に生きています。
いったいこの人はどんな世界を生きているか。
どれだけ私の中で想像をたくましくしても、伺い知ることはできません。
他人に対する安易な決めつけは、全くの誤りだということが、非常によく分かります。
「他人の世界は絶対に知り得ない」
この前提で他人に接すると、また違った接し方になると思います。
もちろんこれは、他人を理解しようとする努力を否定するものではありません。
分からないなりに、精一杯想像をめぐらして、その人の立場にできるだけ立って理解しようとする努力は大切です。
その努力を、
「一緒に過ごしているのだから、この人のことは分かっている」という前提でやるのか、
「全く違う世界で生きているのだから、基本的には全く分かっていない」という前提でやるのかで、
全く違ってくるということです。
私はその人のために何をすべきか、何ができるのか、それもまた、変わってくるはずです。