祖母とルノワールがくれた教訓
こないだ年末に、実家へ帰る途中に、祖母の入っている施設へ立ち寄って会ってきました。
去年で90歳になった祖母。
表情は元気そうだったけれど、口が不自由で、うまく言葉を発することが難しい状態でした。
今日はこれまでに増して、僕に何かを伝えたい様子が伝わってきて、祖母も一生懸命言葉を発しようとしていました。
だけど、何を言っているのかは、断片的にしか分からず、十分に祖母の言いたいことが汲み取れないのがなんとももどかしいことでした。
だけど、祖母はもっと、もどかしい気持ちだと思います。
孫に、言いたいことがあるのに思うように言葉が出てこない。
孫を持ったこともないし、言葉が発せなくなったこともないので、その辛さは想像に余りあるものです。
手も筆記具を持てる状況ではなかったので筆談もできず、出来ることは、全神経を逆立てて、表情や口の動きと話の流れ、共通している情報を総動員して理解しようと努めてみる。
たまに、
「『お父さん』…?」
とか
「『大阪』…?
とか
「『ふくろう』…?」
とか、確認した時に祖母が「うん」と頷くと、
お互い「伝わった!」という、なんとも言えない達成感が起きてくる。
こういう時、祖母の気持ちを、自由に言葉を発せていた頃よりもずっと大きく受け取ることが出来たような気がします。
手段が限られた状態で、全力で伝えようとしてくれていることを、こちらも全力で受け取る。
こういう状況の方が、相手に大切なことがしっかりと伝わるものなのかもしれないですね。
手段がとても限定されてしまっている。
だからこそ余計に「伝えたい」と強く心に思うし、「受け取りたい」と思う。
そのお互いの強い思いが、ごく限られた手段を通してぶつかった時に、お互いに何かを深く受け取ることができる。
もし、
いつでも会える。
いつでも話せる。
いつでも伝えられる。
いつでも聞ける。
お互いにそんな思いでいたら、これほどにお互いに何かが強く伝わるということは無かったかもしれません。
そんなに頻繁に会えるわけじゃなく、
この先どれくらいあるか分からない、
そして言葉も十分に発せられない。
こういう「限られた」手段の中にあるからこそ、全力で伝え、受け取ることができるのかもしれません。
ここで思い出すのが、フランスの印象派の巨匠「ルノワール」の晩年の話です。
数々の名作を残した世界的に有名な画家ですね。
そんなルノワールは晩年にリューマチを患い、手が不自由になってしまいました。
やがて道具を持てないほど手が変形してしまった。
ところが彼はそんな腕に包帯で筆を縛り付けて、絵を描いていたそうです。
その後さらに容態は悪くなっていき、また年も重ねて、まともに歩くことも難しくなってゆきます。
それでもルノワールの絵画への意欲は衰えることなく燃え上がっていたそうです。
そんな状態でなおも名作を描き続け、亡くなる当日まで絵を描いていたと言われます。
そうやって描き続けた絵と彼の生き様は、多くの人の胸を打ち続けています。
限られた手段の中で、全力を果たす。
何かを為し遂げるというのは、そういうことなのだろうなと思います。
「手段が無制限にどれだけでもある」
こんな状況はありえません。
最低ラインはあっても万全はない
ついつい、
これがあれば、あれがあれば…
もっとお金が豊富にあれば…
もっと時間がたっぷりあれば…
もっと体力があれば…
この病気さえ良くなったら…
人間関係がもっと上手くいっていたら…
と、手段の不足を嘆いて、手段の豊富な状態を夢見てしまいがちですよね。
「そうなれば、成し遂げたいことが果たせるのに…」と。
だけど、どうでしょう。
これまでの人生のどこかで、そんな「万全な状態」などあったでしょうか。
常に「何かが足りない」ものです。
もちろん、「最低限これがなければ」というものはあるでしょうし、準備が必要なことはあるでしょう。
だけど、「まだ足りない、まだ足りない…」を言い続けていたらキリがありません。
「最低ライン」はあってでも「万全」は無い。
人生という舞台は、どうやらこんな風になっているようです。
いや、仮に「万全状態」があったとしても、一時的でしょう。
それが仏教で教える「無常」ということです。
「常」なる、変わらないものは無いということですね。
経済面、健康面、時間面、人材面…
「手段」となる要素はいくつもありますが、全て移り変わってゆく無常の世で、全てが万全に整った状態を維持するのは困難を極めるでしょう。
それでも、最低ラインで整えられるだけ整えて、今ある状況・手段の中で精一杯を尽くす。
誰だって、そうせざるを得ないのですね。
加えて、仏教では私達の「欲」に限りがないと教えます。
手段として、これを整えたい、あれを揃えたい、この状態なら安心できそう…
なんて、私達が心から納得できる状態を求めても、私達の安心を求める心にはキリがありません。
「無常」の世界と、「無限」の欲
そんな現実の中で私は何かを為そうとしている。
この認識を持ったならば、「万全状態の追求」こそ現実的ではないと知らされます。
不足だらけの現実を嘆いても詮無いことですよね。
その現実で、「私は何が出来るか」
このことを全力で考えて、精一杯のベストを尽くしかないのですね。
同時に大切なことは、今自分に与えられている手段が無常であることを深く認識することです。
「いつでも使える」
「いつまでも使える」
そんな認識では、本当に生かすことはできないということですね。
何を為すにせよ、根本的に大切なことは「無常」をごまかさずにみるということ。
だからこそ仏教では、「無常」を懇切に教えるのです。
無常の中にあって貫けること
ところで、使える言葉が限られている中で、祖母の口からこの言葉だけはハッキリと聞き取れました。
それは、
「ありがとう」
の言葉でした。
この言葉だけは、何度でも、祖母の口からハッキリ聞き取れるのです。
他の言葉が言えなくても、この言葉だけはハッキリ言える。
このことに驚かされました。
どうしてなのでしょうね。
それは、想像するしかないのですが、きっとこの言葉をこれまでの人生で何度も何度も使ってきているのでしょうね。
確かに、少なくとも私は祖母からその言葉を何度も聞いた記憶があります。
口が不自由になっても、何度も何度も口にしてきたその言葉は、しっかり相手に届けられる。
行動の積み重ね、種を蒔き続けてきた積み重ねの力の偉大さを感じます。
私はどうかな、と振り返らずにいられませんでした。
私が、口が不自由になって、言葉が発することが困難になった時にも残される言葉は何だろうか。
感謝の言葉をその時にもハッキリと言えるだろうか。
そんな人生を送っているだろうか。
まさに人生が問われる瞬間なのかもしれないなと思いました。
誰もが避けられない「衰え」。
私にも確実にそれはやってくる。
一つ、一つと手段を失っていかなければなりません。
それが「無常」ということです。
そんな中にあって、私が最後まで残せる手段は何だろうか。
最後まで何を残したいだろうか。
ルノワールは、「絵を描く」ということだったのでしょうね。
手が不自由になったら、真っ先に出来なくなることだと思うことですが、彼は執念で、亡くなる当日までそれをやり続けた。
他の身体機能をフルに総動員して「絵を描く」ための手段を最後の最後までの残し続けたのでした。
ずっと、情熱を持って描き続けていたから、その種蒔きの積み重ねがあったから、そんな状態になっても出来たことなのでしょうね。
無常の中にあって、今ある手段で精一杯を尽くす。
そのお手本のような姿だと思います。
私もそうありたいなと、憧れる姿です。
身体が動く限り、頭が回る限り、まだ心がこの世界と繋ぎ止められている限り、最後の最後まで自分が最も価値を感じることを、貫ける人生を歩みたいものです。