心が危機に瀕した時、自ら救う術を持て

精神的に嫌な流れを断ち切りたい

精神的に危機を感じるような時は、誰しも訪れるものでしょう。

「そんなことには縁がない」

と言い切れるような、よほどメンタルがタフか、環境に恵まれているという人もいるかも知れませんが、どんなにタフさを自負していても限界はありますよね。

恵まれた環境に支えられている場合はなおさら、変化の激しい昨今では、予想だにもしないタイミングで状況が一変してしまいますから、突如ハードモードの人生が始まることは珍しくありません。

「あ、まずい…気持ちがどんどん沈んでしまいそう…」

先の見えない暗いトンネルに入っていきそうな危機感・絶望感に苛まれることがどうしても起きてきてしまいます。

「心の動き」というものは、自分の心であっても扱いの難しいところがあります。

心の沈んでゆく流れがどうしても止められない。自分の心でありながら、抗いようもなく悪い方向へと動いていってしまうということがあるのです。

この心の流動性は、悪い方向が与えられた時には何とも酷な性質ですが、しかしこの流動性が救いになることもあります。

何かのきっかけでまた方向転換することができれば、元来の心の流動性は大いに私に味方してくれるでしょう。良い流れは良い流れを生んでゆき、気持ちをどんどん上げてゆくことも可能なのですね。

「心が動き出す」

という、漫画やドラマで語られるような場面は、現実にも普通にあるものです。

良くも悪くも、きっかけ次第で心は動き出すものです。

ただ、悪い流れの中にある時は、どうしても良くなる気がしないものです。

こんな気持ちが上向きになるなんて、考えられない。

どうしようもなく強い流れが、悪い方向へどんどん押し進めていくのを自分でもどうしようもないことが嫌というほど分かる。

これこそ、精神的な危機なのですね。

いろいろな条件が重なってこのような危機に陥ることが、きっと誰にでもあることでしょう。

能力があるとか、仲間がいるとか、家族がいるとか、そういう強みや支えがあったとしても、それでも縁というものは変化してゆきます。無限の変化の様相をなしているのが縁によって作られた環境であり、気持ちであり、そして私自身なのです。

最後の依り所は自己にあり

悪い流れの渦中にある時に、何か助けとなってくれる縁があって、救われるような気持ちになれるということも、あるかも知れません。

そういうタイミングをただ待つということで、最終的に持ち直すこともあるかも知れません。

「ひたすら耐えて待つしかない。明けない夜は無いから。」

こういうところに望みを繋ぐのも一つだとは思います。

ですがそれだけではあまりにも、救いが不確定に過ぎますよね。

そんな好転するタイミングが「いつか」来ると言っても、それがいつなのか分からないですよね。いつ来るとも知れない救いの縁を期待して、いつ終わるとも知れない暗いトンネルにただ耐えるしかない、というのも酷な話です。

不確定な「誰か」「何か」に頼ることなく、自ら持ち直す術を持つこと。

やはりこれは、大事なことだと思います。

逆境の流れに入った時に、自ら流れを持ち直す確固たる術を、自分は持っている。

家族がいようと、仲間がいようと、親友がいようとも、それでもこのことは大切なのです。

ブッダの有名な言葉に、「自己に依れ、法に依れ」というものがあります。

家族愛や仲間の絆に何よりも価値をおくようなヒューマニズムに比べると、仏教のこのような教えはちょっとドライに感じるかも知れません。

仏教は、決して他人との絆を軽視するわけではありませんが、最後の依り所は「自己」であるべきであり、「法」であるべきであるというところはしっかりと押さえているのです。

最後に依り所とするところは、自己の中にあること。

そうであってこそ、人との絆を大切にし、お互いを尊重し合いながら生きてゆくこともまた健全に保たれるのだというのが仏教の価値観なのですね。

ですから、あくまでも確固たる依り所は自己の中にあることを仏教は説き明かすのです。

それを「自己に依れ、法に依れ」とシンプルな言葉で表されています。

まずは「捨」に入る

さてこの「自ら流れを持ち直す」ということですが、これは、何かコツがあるとか、奇跡的な技があるということではなくて、

“自己という存在を成り立たせている道理を深く知っている”

ということが、何よりの依り所となるということなのです。

これが、仏教が目指すところと言えます。

ここに「自己」と「道理」という言葉が入っていますが、道理のことを「法」と言いますので、「自己に依れ、法に依れ」という教えがここに入っています。

そんなことで、本当に沈んだ気持ちが上向きになるのか?

と思われるかも知れませんね。

実のところ、それだけで気持ちが好転するというと、正確ではありません。

「好転する」と言うよりも、

「気持ちをニュートラルに置くことができる。」

と言う方が適切と言えるでしょう。

ニュートラル、すなわち中立的な状態で、良いとも悪いとも言えないような状況です。

まずはそこに持ってゆくこと。これが実に現実的なことなのです。

「心の持ちよう一つで気持ちが好転する」なんていう話はとても聞こえはいいですが、最初から「好転させよう」というところに狙いを置いてしまうと、無理のある試みになってしまいます。

下手をすれば、「好転させなきゃ」と言うことがさらに自分に圧をかけて、ますます苦しくなってしまうかも知れません。

そんな、直接的に「好転」に持っていかなくてもいいのです。

まずはニュートラルに置くことができれば、十分なのです。

「良くも無いけど、悪くも無い。」

そう言う状況にまず持っていくことが出来ればいいのです。

それが一瞬であっても、その瞬間ニュートラルに戻れたら、「ここぞ」とばかりにギアを入れて、好転させてゆくことができます。

その際に、このワンステップを踏むことを、見落としてはならないのですね。

洪水のように悪い方向へと気持ちが流れているとしても、その洪水の中で、一瞬のニュートラルを作り出す。

それさえ出来れば、十分でしょう。

その状態に、自ら持っていくことができる。

この強みは、仏教が説き明かす「自己という存在を成り立たせる道理」を知っていることで得られるものです。

仏教に「捨(しゃ)」という言葉があります。

「心が平等で苦楽に傾かないこと」を意味します。

先ほど述べたニュートラルはまさにこれのことです。

「捨」に入ることができる。

このことが、地味なようで大きな強みとなるのですね。

そのための確かな道が、

「自己に依れ、法に依れ」

の実践であり、それは道理を知り、道理に立って現実に向き合うことです。

その「道理」というのが、仏教が一貫して説いている「縁起」という道理です。

心の流れも、それによって構成される自己そのものも、縁によって起きる存在であるということを普遍の道理として教えるのが仏教なのです。

これはこのブログで一貫してテーマとしている内容で、ぜひ他の記事も参照して欲しいのですが、今回の記事の中でも縁起については随所に触れてきました。

私たちの心が、良し悪しさまざまな方向へ絶えず動く流動性こそが、縁起の道理のままに自己が成り立っていることの表れなのです。

「心」という言葉はあれども、その言葉に対応する固定した実体は存在しない。ただ縁によって動いてゆく「流れ」がある。

それはあたかも川の流れが実体を持たない存在であるようなものです。

このことを仏教の言葉で「無常」とか「無我」などと言われます。

それらはいずれも「縁起」という道理から導き出される帰結なのです。

いかなる時も自己という存在は、このような縁起の道理によって成り立っているのです。

そのような普遍の道理に立ち返って、改めて自己や現実に向き合ってみて下さい。

一時的とはいえ、心は平静を取り戻すことでしょう。

普段は縁起という道理を忘れて生きていても、思い出せば良いのです。

思い出して、その道理に立って現実に向き合おうと努めるのです。

それこそが、縁によって常に流されてしまう心が、自由自在を獲得する確固とした足がかりになるのです。

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