ただ「頑張り」ばかり要求されるのが人生なのか…?
これまでずっと頑張って、頑張って生きてきたのに、
どこにも「ようやくその頑張りが報われた」と思える時がなくて、
「もっと頑張らなきゃ。もっと…」
そんな風に、いつまで経っても次から次へと「頑張り」は求められ続けている。
ある程度生きていれば、そのようなうんざりするような感覚に陥ることがあるかも知れません。
何だか人生というのが、「常に頑張りを強要される場」のように感じる人は決して少なくないことでしょう。
そりゃあ、いわゆる「意識の高い人」は、それでいいかも知れない。
一度きりの人生、成功者になりたい、大きなことを成し遂げたい。
だから常に努力し続けるのは当然で、それでこそ「生きてる」と感じられる。
そんな精神論で生きられるならば、「頑張り続けざるを得ない現実」であっても問題ないかも知れません。
けれど、決してそんな大それたことを人生に求めてなんかいない。
平穏無事な日常と、ほんのささやかな楽しみがあれば、それ以上は望まないのに、
現実はそんなささやかな願いさえも許してはくれず、いろんな困難や苦難の壁が立ちはだかり、
それを乗り越えるための「頑張り」が要求される。
このように、
「願いは、叶わない」
それどころか、その思いに反して
「苦しい」「しんどい」「頑張らなきゃいけない」
のオンパレードが人生。
こんな風に感じてしまうと、“生きること”そのものが耐え難いほど過酷なものとなってしまいます。
この、
「願いに反して頑張りばかりが要求される」という人生観は、どうにかできないものでしょうか。
「過酷な現実」の正体を解明すると
ここで質問なのですが、“苦しみ”って、どういうことを言うと思うでしょうか?
しんどいこと?
痛いこと?
寂しいこと?
満たされない事?
腹立たしい事?
妬ましい事?
それとも…
あげればキリがないですね。
色んな形の“苦しみ”があり過ぎて、「ズバリこれ」というものがなかなか思いつきませんが…
あえてズバリ、“苦しみ”そのものをいい表すならばそれは、
「思い通りにならないこと」
です。
しんどいことが苦しいのではない。痛いのが苦しいのでもない。寂しいことでもない。
「思い通りにならない」
という事が、すなわち“苦しみ”なのですね。
私たちにとって“楽しい”も“苦しい”も、
それは“現実”と、その現実に向き合う“思い”とで出来ています。
人生で起こる色んな現実がありますよね。
仕事上の現実、人間関係上の現実、財産がらみの現実、健康上の現実…
それらを「辛い現実」とか「過酷な現実」などと言うこともありますが、
それは“ある現実”だけが独立して存在しているのでなく、それに対しての私たちの“思い”がすでにそこに含まれているのですね。
現実に対する“思い”とは、言い換えれば現実に対して、“願っている事”であり“期待している事”であり、
“「こうあって然るべき」と思い込んでいる事”と言ってもいいかも知れません。
しかし、もしその“思い”が全く道理に反したものであったらどうでしょうか。
たとえば、ある会社の部署のリーダーになった人の“思い”がもし、
この部署のみんなが自分の言うことにいつも同意してくれて、
社員たちはみんな仲良しで常に一致団結してくれていて、
もちろん自分のことを嫌いな人など一人もいなくて、
ミスしたり問題を起こすような事は一切なくて、
滞りなく、示した方針に一直線に進んでくれる。
「そういうものであって当然だ」
なんていう“思い”を持っていたらどうでしょうか。
そのリーダーは間違いなく“苦しむ”ことになりますよね。
絶対に“思い通りにはならない”からです。
これは別に、
「あんまり現実に期待するな」
と言う話ではありません。
目指すべき希望を持つこと、何かを願うこと自体が問題なのではありません。
問題は“道理”を見失っていると言うことです。
「どんな願いでも、それを達成する道はある。」
そういう“無限の可能性”が人生にはあることは否定されるべき事ではないでしょう。
ですが、私たちが何を願うと願わないとに関わらず、誰にも曲げることができない“道理”があることも事実です。
私たちが願いをも叶えてゆくのは、あくまで、その道理に従う限りにおいてというわけなのです。
極端な話、
「お金が欲しいならば、たとえ目の前に大金が積まれてあっても、勝手に懐に入れてはいけない」
ということであり、
「好きな人と結婚したいのなら、たとえ目の前にその人がいても、無理矢理に婚姻届を書かせるようなことをしてはいけない」
ということです。
お金を手に入れるには、そのためにふむべき手順があるのだし、
好きな人と結婚するには、そのためにふむべきステップがあるという、至極当然のことです。
それが「道理に従った上で願いを叶える」ということです。
何を願うにしても、何を期待するにしても、“絶対に忘れてはならない道理”というものがあります。
それを忘れ、それを見失った時点で、「思い通りにならない」という“苦しみ”がもはや始まってしまいます。
先ほど挙げた、会社の部署のリーダーの“思い”はまさに、“道理”を見失った思いと言わざるを得ません。
一つには、
“因果応報の道理を見失っている心”
です。
すなわち、自分が然るべき“行動(因)”をして初めて、自分にその“報い(果)”が現れる。
行動に応じた報いが結果として現れるというのが“因果応報”と言うことですが、
そんな行動を何もしなくても、メンバーは従ってくれて、事業は進んでくれることを期待しているのは、
原因なしに結果が起こることを信じているようなもので、“因果応報の道理を見失った心”と言わざるを得ません。
また一つには、
“諸行無常の真理を見失っている心”
です。
たとえ自分に都合のいい結果が今現れているとしても、特定の因縁が揃って一時的に生じた結果である以上、
因縁の変化に応じて必ずその結果も変化してゆくのであり、決して“固定した結果”などありません。
「あらゆる現実は必ず変化してゆく」という“諸行無常”という真理も誰も抗うことはできません。
「チームのメンバーの人間関係が良好で、仕事の調子がいい」という現実は、
そのようになる特定の因縁があっての一時的な結果ですから、善き因縁を保つ努力によって、
その“結果”を造り続けるように努めなければ、たちまち変転してしまう無常のものです。
無条件で、都合のいい現実が続いてくれるように思うのは、“固定した現実があり続ける”と信じているようなもので、“諸行無常の真理を見失った心”と言わざるを得ません。
“因果応報”も“諸行無常”も、ともに仏教で「決して曲げることのできない道理」と教えられる事です。
この世で何を願うにしても、何を果たそうとするにしても、
この“道理”をユメ忘れる事なく、この“道理”に従った上で、願い、そして成さなければならない。
その事を守る限りにおいて、「どんな願いも、叶わないことはない」と言うことが出来るのですね。
逆にその“道理”を見失い、それに反する思いを抱いた時から、何を願おうとも“思い通りにならない”という苦しみにしかならないのは必然なのです。
つまりは、仏教において“苦しみ”とは、“道理を忘れ、見失い、反する心”で現実を生きる事で必然的に起きる、
「思い通りにならない」という憂い嘆きに他なりません。
“現実”が過酷なのか、“思い”が迷いなのか
高い意識を持って大きな成功を願うのも、大きな事を望む事なく平穏無事を愛し、満足して生きようとするのも、それぞれの生き方です。
しかし何を望み、どんな生き方をするにせよ、“道理”を忘れ、見失ってしまうと苦しまざるを得ません。
「平穏無事」だって、決して無条件に与えられているものではありません。
“因果応報”の道理に則って現れている結果ですから、それ相応の行動や努力の結果、現れているのですね。
ですから当然、“諸行無常”の真理に洩れる事なく、“一時的な結果”に違いありません。
その結果をこの先も継続させたいならば、新たに新たに“因”を造り続けるしかありません。
因果応報、諸行無常の真理の中で平穏無事を願うとは、そういう事なのですね。
それを「ずっと頑張り続けなきゃいけない」と言えば、確かにそのようにも言えるでしょう。
ですがそのことを「理不尽なこと」、「酷なこと」のように思うのは、
「安心できる現実が無条件に保たれていて然るべき」
という、因果応報、諸行無常の道理に反した心がそのように感じさせるとも言えるわけです。
これこそ、
「“道理に反した心”が、“思い通りにならない”と言う憂いを引き起こしている」
という“苦しみ”の実態です。
果たして“現実”が過酷なのか、“思い”が迷いなのか…
仏教では、
“因無しに結果は現れない”ことも、
“現れた結果は一時的で、無条件に保たれることはない”ことも、
因果応報、諸行無常の道理そのままに現れている現実と教えます。
それを私たちが「過酷」と思おうとも「不合理」と思おうとも、変えようのない道理です。
だからこそ、その“道理そのままの現実”を嘆くことも呪うことも詮ないことなのですね。
“迷い”という言葉は厳しいかもしれませんが、“道理”から目を背ける心のままで、現実を願い通りに帰ることは決してできません。
だからこそ、
「道理をありのままに観よ」
という教えが出てくるのです。
仏教で教えられる実践の一つに「精進」と言われるものがあります。
“怠ることなく、励み続けなさい”
ということですが、“因果応報の道理”そして“諸行無常の真理”から出てくる当然の帰結であることが、よく分かると思います。
「酷な現実だ」「報われない現実だ」と嘆くのも人情ではありますが、
一度、“道理”に向き合って、
「道理に則った実践に努めよう」
と言う覚悟を決められたならば、案外「精進」の実践は、自然に出来るようになってゆくものです。
“怠ることなく、励み続ける”
これは、無理な精神論でもなければ、顔をしかめながら息絶え絶えの苦悶に喘ぐようなものでもありません。
別に、人と比べて優れなきゃいけないと言ってるわけではありません。
世間に認められるレベルに達しいなきゃいけないと言われているわけでもありません。
一人一人が、因果応報、諸行無常の道理に目を背けることなく、道理に則って自分の願いを叶える覚悟をすること一つです。
そういう“道理に依って立つ”という土台ができたならば、“自然と精進の道を歩んでいる”という人生は開かれてゆくでしょう。