世にも理不尽な叱られ方
「叱られる」ってのが好きって人はそんなにいないと思いますけど、
中でも「我慢ならない叱られ方」ってのがありますね。
「あえて人前で叱られる」
とか
「人格否定するような叱られ方をする」
とか
「必要以上に怒鳴られたり小突かれたりする」
とか
まあ、こういうのは「パワハラ」として社会問題になるようなレベルですよね。
そんな社会問題を招くようなレベルとは違うかも知れませんが、
「勝手に決めつけられて、その前提でクドクドと注意される」
こういうことをされると、これまた、たまらないですよね。
例えば、仕事中にどうしても上司に相談が必要と思われる案件が発生した。
悩んだ結果、自分なりに状況をまとめて、上司のところへ持っていくと、
単なる自分の調べ落としで、自分の権限内で判断できる問題であることが分かった。
「ああ、うっかり見落としてしまったか…」
と反省していると、すかさず上司から、
「そうやって、ちょっと分からないことがあると何も考えずに上司に持ってくる。
そんなことをしていたら、いつまで経っても成長できず、いつまでも他人に聞かなきゃいけなくなるぞ。
まず自分で解決できないかを、よく考えないといけない。だいたい昔の時代は、周りに助けてくれる人なんて…」
こんな風に、さも
「自分で判断することを放棄して、何も考えずに他人に聞くことばかりしている」
かのように「決めつけ」られて、その「決めつけ」の前提で、ひたすら注意が続くと、
反発心ばかりがムクムクと出てきますよね。
「いやいや…普段から精一杯自分で考えて、調べるだけ調べて判断してますよ。」
「今回はその上で、どうしても相談しなきゃいけない内容だと思って持っていった結果、『見落とし』というミスが発覚したわけで。」
「なんでそんな『自分で判断できない人』みたいな評価をされなきゃいかんのか…」
自分に反省すべき点があっても、もはやそんなことも吹っ飛んでしまいます。
その人の「思い込み」で「勝手に決めつけ」られた挙げ句、クドクドと注意が続くと、
その「注意」の時間が全部、ただただ反発心の募らせる一方という時間になってしまいます。
もちろん、もっと深く反省したならば、
「見落とし」というミスをする所に、「いざとなったら上司に頼ればいい」という「甘え」があったのかもしれない。
そういう点で、決して的外れな注意をされているわけではないんだ。
と、思おうと思ったら思えるかもしれませんが、どうしても反発心が勝ってしまいます。
「勝手に決めつけられる」という所にひどく理不尽を感じてしまうのは、どうしようもないですよね。
だけど考えてみると、「思い込み」と「決めつけ」で人と接しているのは、決して他人事ではないのかもしれません。
「他人」も「自分」も心の中に造られる「人物像」
「嫌な人」
といったら、真っ先に思い浮かぶ人ってのが、大抵いると思います。
「その理由は?」
と聞けば、その「嫌な人」の特徴を挙げるのに、そんなに苦労はないと思います。
それらの特徴から構成されて「嫌な人」像が造られてゆきます。
だけど、その「嫌な人」像は、あくまで自分の心の中で造り上げられた「その人」の人物像ですよね。
これは別に、「実際は違うかもしれないですよ」ということを言いたいわけではありません。
自分にとっては、自分の心の中にいる「嫌な人」が、「その人」の全てであって、「実際はどうか」も何もありません。
もし自分が「実際は違うかも知れない…」と思ったなら、ただそう「思う」ことで、自分の心の中の人物像が変化するだけです。
どこまで行っても「他人」は、自分の心の中で作り上げられた「人物像」でしかありません。
私がとても苦手意識を持っている人がいても、
別の人はその人に深く親しみを感じて仲良くしていたりします。
きっと、仲良くしている人の心の中には、「親しみ深いあの人」という人物像があって、
私の心の中の「苦手な人」とは、まるで別人なのでしょう。
「じゃあ、どっちが本物のその人なのか」
という議論など無意味なことですよね。
私のこれまで生きてきた経験や、その人と接した印象が、
私の心の中に「苦手な人」という人物像を造り上げてしまっているわけです。
もし、私が抱いているその人物像を、本人に対して率直に詳しく述べたとしたら、おそらく猛反発を食らうことでしょう。
「あなたの思い込みで、勝手に私のことを決めつけないで欲しい」
と言われるに違いありません。
そんな猛反発しているその人の心の中にもまた、自分の経験で造り上げた「自分の人物像」があります。
その「自分の人物像」と、私が抱いているその人の人物像が、あまりにも食い違っているから、猛反発が起こることでしょう。
そうすると、結局、お互いの心の中にいる「人物像」の食い違いでなされる応酬だというわけです。
では、どちらの言い分が正しいのでしょうか。
「そりゃあ、本人の言い分の方が正しいでしょう」
と、言えるでしょうか。
本人としては、自分の経験から自分の「人物像」を心の中で造り上げているわけです。
情報量は本人のほうが多いのだから本人の心の中の「人物像」の方が正しいと、一概には言えません。
「思い込み」の危うさという点では、自分と他人とで、どれほどの差があるでしょうか。
「自分の方が自分のことを誰よりも長く見ているんだ」といっても、
ずーっと「思い込み」を通して自分を見ていて、その「思い込み」を長い間固め続けてきた
というのが本当のところでしょう。
「どちらも思い込みの産物である」
と、言わざるを得ないのですね。
「自分の人物像」が通用しない人がいるだけ
最初の「思い込み前提に、クドクド注意された」という例では、
上司の心の中に経験から造り上げられている私の「人物像」があるわけですね。
上司自身のこれまで生きてきた経験と、私を見た印象を通して、
「自分で判断できずにすぐ他人の判断に頼る人」
という私の「人物像」が出来上がっているというわけです。
私の心の中にもまた、私自身の経験から造り上げられた私の「人物像」があります。
「与えられた情報の中で自分で考え、決断することが大切だとよく理解していて、
普段からもそういう努力に心が得けている。だけど時々、勘違いやミスもしてしまう。」
そういう人物像を、自分の中に抱いているということです。
これもまた、数十年の経験に「自分はこういう人間のはず」という思い込みを加え続けて、
念入りに造り上げた「これが私」という人物像です。
私にとってみれば、
私が数十年間の経験で築き上げた「これが私」というイメージを、
他人の経験で造られたイメージによって、思いっきり否定されてしまったのですね。
そして我慢ならない反発心がムクムクと湧き上がっているのですが、
その前提は、
「自分の中で築いた人物像が正しくて、上司の抱いている人物像は間違いだ」
という思いです。
そして、
「勝手な思い込みで、見当違いの注意を聞かされている」
という被害意識がとめどなく湧いてくるわけです。
本当のところは、
「他人が、私にとっては不本意極まりない『私の人物像』を抱いてしまっている」
という事実があるのみです。
そして、そういうことは常にどこでも起きているのが実態です。
仏教では、
「一人一人が自分の経験で生み出している『自分だけの世界』に生きている」
と言われます。
そんな一人一人の「自分だけの世界」を「業界(ごうかい)」と言います。
「業(ごう)」とは行いのことで、
「思い」や「発言」や「行動」の一切の経験が私の「業」となります。
そんな「業」によって、
心の中に「他人」やら「会社」やら「社会」やら「国」やら「私自身」やら…
様々なものを生み出して、楽しんだり苦しんだりして生きていますから、
そんな一人一人の世界を「業界」というわけです。
先ほどから述べている事例を一言で言えば「一人一人の業界は違う」の一言に尽きてしまいます。
他人の業界の中にいる「私」なぞ、私の業界で見ている「私」とは、まったく別人でいて当たり前です。
別に「どちらが正しい」でも「どちらが間違い」でもありません。
だからこそ、決めつけ口調で他人のことを言ってしまうと、人間関係ですごい摩擦が起きてしまうのですが、
自分のみている「他人」も「自分」も、自分だけの世界の存在であるという認識はとても大切です。
「自分」についても「他人」についても、「思い込み」はお互い様。
この理解が、あらゆる場面で冷静になれる助けになることでしょう。
「うわあ…この人には私の中の『私』は、ぜんぜん通用しないのか…」
ぐらいに思える心の準備を、出来るだけしておきたいものです。