「考え方を変えよう」といっても、なかなか…
「どうして自分は、うまく行かない行動を繰り返してしまうのかな…」
これまでの人生を振り返ってつくづく、自分の「失敗体質」「うまく行かない体質」みたいなものを感じ始めたとき、
自分の中に根深い問題が潜んでいるのではないかと思い始めることがあります。
そして、
「自分の『考え方』を根本的に変えていかないと行けないのでは…」
と、自分の「心」に向き合い始めると、
確かに「心」が自分の「行動」を生み出し、引いては「人生」そのものを造る元になっている事に、気が付きます。
「考え方」が、自分の行動を決める元となっているのであれば、
「失敗」や「うまくいかない」行動をしてしまったことをどれだけ悔いて、
「もうこんなことはしないようにしなきゃ…」と心に強く刻んでも、
「考え方」そのものが変わっていなければ、やっぱりまた同じような「行動」をしてしまい、同じような後悔を繰り返してしまいます。
だからこそ、
「自分の考え方を変えていこう」
「成功者のマインドを自分に取り入れていこう」
という思いから「成功哲学」や「自己啓発」に興味を持つ人も少なくないと思います。
「どんな『考え方』を持てばいいのか」
を説いている書籍や教材やセミナーは世の中に溢れていて、
「成功者はこういう考え方をしているのか…」
と感心する内容は、盛りだくさんです。
「何事にも感謝する」という考え方や
「何があっても『ツイてるなー』と受け止める」という考え方や
「全ては修行だと受け止める」という考え方や
「他人と比較しない」という考え方
自分にはそういう「考え方」はなかったな…ということに気付かされて、
自分の「考え方」が成功への道を切り開く行動にはとても結びつかないものだと知らされ、
「『考え方』を変えて、自分を変えて、人生を変えていこう」
と、思ってはみるものの…
それでも気がつくと、相変わらずこれまでと変わらない日常を続けている自分がいる。
そういう場合が決して少なくないのですね。
「他人の考え方を自分の中に取り入れる」
ということに、無理を感じる場合が少なくないわけです。
スマホにアプリをインストールするみたいに、自分の中に他人の「考え方」を入れるというわけにはいきません。
他人は他人なりに経験を積んで知識を入れて、その「生き様」を通してそういう「考え方」を持つに至っているわけで、
そんな他人と全然違う経験をし、全く違う「生き様」を辿ってきた私が、同じような「考え方」を身につけることは、確かに簡単ではないでしょう。
とはいえ、成功者のマインドを参考にして、
それ相応の学びと努力を積み重ねて、自分なりに「成功者の考え方」を持つに至れる人は、いると思います。
それが出来る人にとっては、「成功哲学」や「自己啓発」の学びは人生を変える縁になるのでしょう。
だけど、
「そういうのは自分に合わないなあ…」
という人の方が圧倒的に多いのではないかと思います。
「無常を観る」というシンプルな心がけを突き詰めれば…
私はよく、
「日本の人にはやはり、どこか仏教的な考え方が染み付いているなあ…」
と感じることが多いのですが、
この「仏教的な考え方」というのは、
どんな人にとっても無理なく、自然な形で一人一人が持つことのできる、
ある意味では非常に優れた「成功マインド」と言えるのですね。
仏教で説かれる「諸行無常(しょぎょうむじょう)」の教えは非常に有名だと思います。
「すべては、移り変わってゆく」
一言で言えばシンプルな内容ですが、この「無常」を観ることを、とことんまで突き詰めると、
「世界観」に大きな変化をもたらすことになります。
「すべては、移り変わっていくんだな…」
そんな「無常」を思うきっかけが、私達には色々とありますよね。
季節の変化、流行の変化、街並みの変化…
いろんなものが目まぐるしく変わっていく世の中ですから、
「諸行無常」だけは、誰も否定できない事なのですね。
それは一つの「考え方」というよりは、
私たちの「思い」や「考え」とは無関係に「厳粛な真理」として展開している事だと言えます。
その「移り変わってゆく」ことの厳粛さは、私達の「思い」を遥かに超えているのですね。
私達の思いとしては、いくら「移り変わっていく」といっても、
ある程度の「固定した変わらない状態」を、心のどこかで認めているはずです。
今、腰掛けている「椅子」や、何か作業をしている「テーブル」などが、
「今まさに変化して動いている」
なんて、とても思えません。
「しっかりと固定されて、自分の体や自分の物、そしていろいろな作業を支えてくれている」
という前提を強く抱いて、それらを拠り所として生活しています。
だけど「諸行無常」ということは、そんな「固定性」を、一切認めません。
今の瞬間の「椅子」と、次の瞬間の「椅子」は、もはや別物であり、確実に移り変わっている。
それは「椅子」だけでも「テーブル」だけでもなくて、
この世の一切は、刹那、刹那の瞬間ごとに、文字通り「すべて」が移り変わってしまっている。
そういうことを徹底してみてゆく教えが仏教です。
「ほんのちょっとの固定性」も認めないという厳粛な「無常」を仏教は説いています。
「ある程度の固定した状態や物を認める」という「考え」に基づいて生きるのと、
「一切は無常である」という「真理」に立って生きるのと、
そこには大きな違いがあります。
「ある程度」や「ほんのちょっと」の「無常」に対する例外を認めてしまうと、
その「ほんのちょっと」から、私達の「固定化していまう」思いは、どんどんと広がってしまいます。
無意識のうちに、あれも、これも、この状態も…
「大丈夫だ、変わらずにいるだろう…」
という思いを抱いてしまい、自分の都合で「無常」の例外をあちこちに作ってしまうのですね。
そういう思いを仏教では「惑い」と言うわけです。
そして、その「惑い」を徹底して破るのが「諸行は無常なり」の教えです。
誰もが開かれている「変化への道」
仏教は、
「こういう考え方を持ったならうまくいきますよ」
「こういうマインドが成功の秘訣ですよ」
というような、何か特別なマインドを提示するものというより、
シンプルだけれども、ついつい見落としてしまう大切な「真理」を、これ以上なく丁寧に説き明かしているものです。
そして、
「この『道理』をごかまさずに観てゆきなさい」
と教え勧めるものです。
そうすれば、
「こういう考え方を持たなきゃ」と力んだり
「この人みたいに考えよう」と真似ようとしたり
(もちろんそういう努力を否定するものではありませんが)
しなくても、自ずと、最も大切な「心の変化」「考え方の変化」を起こしてゆけるのですね。
「『固定した世界』の中で生きている。」
そんな思いをついつい抱いてしまっているのが私達の実態です。
そんな私達が、
「『私』も『世界』も刻一刻と、絶えることなく変化して移り変わっている。」
「目の前に展開している世界は、今の瞬間と次の瞬間とでまるで別物だ」
という厳粛な「無常」にとことん向き合ったならば、
激しく流れてゆく川のような流動性を「世界」そのものにみることになります。
そんな「移り流れてゆく世界」の世界観に立ったとき、
自分が「生きる」ということの意味そのものが、大きく変化してゆきます。
自分が「行動する」ことの意味も、自分が「誰かと出会う」ことの意味も、自分が「他者と関わる」ことの意味も、
「固定した世界」でのそれとは、全く異なったものになります。
それもこれも、「諸行無常」を徹底して観ることから、自ずと知らされてゆくことです。
経験も、知識も、性格も、年齢も、性別も、何一つ関係なく、
誰もが確実に、「生」そのものに対する根本的な「考え方」に変化を起こす道が、私達には開かれているのですね。