「虚ろな世界」の感覚は「不安を克服する信念」になる〜刹那に滅する世界〜

刹那に消える世界

朝ごはんを食べ終わってから、流しで食器を洗っていると、
スポンジと洗剤と、ツルツルになっていく食器、生ぬるい水の感触、
やかましい虫の声と水の音、
綺麗になっていく食器の光景、
まだ口の中に少し残っている朝食の卵の味…

この時、私に広がっている「世界」というのはこんなところでしょう。

だけど今となってはもうそれは「過去」のことであり、
いま私の「意識」が認識している「過去の記憶のイメージ」に過ぎません。

「食器洗いの世界」そのものは、その瞬間にだけあったものであり、
洗剤の感触も、水の音も、汚れの落ちた食器の色形も、口のなかのほのかな味も、
今はもうどこにも存在しません。
その時だけの世界だったわけです。
まあ、明日の朝もまた同じような世界が現れることは分かっているのですが…

過ぎた「過去」は、もう存在しない。
その点では昨日見た夢と何ら変わりありません。

今は、目の前に立てたタブレット端末とキーボードが目の前にあって、
キーボードを押す感触と共に、液晶画面に文字が現れてゆく…
そんな世界が展開しています。
この作業が一段落すれば、その世界もまた消えてしまうことは明白でしょう。

五感を通して色、声、香、味、触で構成される世界…
それを仏教では「五境」といいます。
で認識する「色境」
で認識する「声境」
で認識する「香境」
で認識する「味境」
で認識する「触境」
これらによって、時々刻々と現れる「世界」は、構成されています。

そしてそれらの世界は、瞬間に現れ、そして瞬間に消えてゆく「刹那滅(せつなめつ)」のものだと説かれます。

「え、世界は瞬間に消えてしまう!?」
「だけど世界は継続し続けているんだけど…」
と思うかもしれませんが、それは、刹那で消えた次の瞬間にまた新たな「世界」が現れているからです。
「世界」は刹那で消えるけれども、間髪入れずに次の「世界」は現れる。
刹那で、現れては消え、また現れて…という「生滅」を繰り返しながら続いてゆくのが「世界」
というのが、仏教の世界観なのですね。

ちょうど、アニメ映像のようなものです。
(今のアニメ技術はもしかしたら違うのかもしれませんけど…)
「セル画」という一枚の絵を瞬間に表示して、次の瞬間に新たな「セル画」を表示して、
次の瞬間にまた次の「セル画」を表示して、
2時間のアニメ映画だと、一体何枚くらいのセル画が使用されているのか知れませんが、
何百、何千、何万(?)のセル画を、瞬間、瞬間に表示しては差し替え、表示しては差し替えを繰り返して、
ひとつのアニメ映画作品は私たちにひとつの物語を見せてくれるわけです。
見ている私たちは錯覚して、
「ひとつの映像が継続して存在し続けている」
とみてしまいますが、実態は、セル画の刹那の生滅の連続が展開しているというわけです。

「刹那で消えてしまうものが世界」
それが、因果相続し、次々と新たに新たに現れて、私の世界は展開されていっている。
それが世界の実態ですが、それを私たちは錯覚して、
「変わらない『常住のもの』がある」
と、みてしまいます。
その錯覚を破り、「私たちのイメージする固定した『常住のもの』は一切存在しない」と仏教では教えられます。

「虚ろ」の世界で何を守るのか

「そういうこと、考えたことがある」
という人もいるかも知れませんね。

「この世界って、もしかして夢のようなものなのかなあ…」
という感覚は、多くの人のもつところのようです。
実際に人生を終えてゆくときに、
夢みたいなものだったなあ…」
と言い残している有名な人は多いです。
織田信長や明智光秀や豊臣秀吉の人生観を垣間見せるこれらの言葉、
「人間五十年、外天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり」
五十五年の夢、覚め来れば、一元に帰す」
「露と落ち、露と消えにし我が身かな、難波のことも夢の又夢
そこには「人生は夢の如し」という思いがあったことが伺えます。

そんな有名人でなくても、
「過ぎた過去が、まるで夢のように思われる」
という心境は、誰の心にもふっと訪れるものでしょう。

その「夢」にも似た「世界」のしくみについて、仏教は緻密な理論で明かしているのですが、
「なんとなく」の人生に対する「虚ろ(うつろ)」感を、
明確な道理に基づく「世界観」として確立させた時、人生への向き合い方が大きく変わります。
仕事や学校での嫌な出来事、
大切な家族との生活、
友人や恋人に恵まれた現実、
自分の収入の現状
などなどの、「避けたい」現実「変えたい」現実「守りたい」現実
それらに対する向き合い方が、全く違ったものとなることでしょう。

あなたにとって「守りたいもの」って、どんなものでしょうか。
友人間で確立した今のポジションを守りたい…
職場での立場や人間関係を守りたい…
家族との生活を守りたい…
長年稼いできた財産を守りたい…
大切なもの、大切な人、守りたい様々なものが、自分の頑張る原動力となっているものですよね。

同時に、それらが恐れや不安の原因になっているのもまた事実です。
「失いたくない」「奪われたくない」「自分から離れてほしくない」
そういう「人」や「もの」があればあるほど、不安の原因は多くなり、
「思い切った一歩が踏み出せない」
「直面する問題から逃げ腰になってしまう」
「保身に走った浅ましい行動に出てしまう」
そういう「惑い」の原因にもなっています。

「幸せ」と信じて求めてもので、自分の支えとなるものであるのに、
それが恐怖や不安や惑いの原因にもなってしまうのは皮肉なものなのですが、
「守らなきゃいけない…」
という強迫観念は、どうにも拭い切れません。

だけど、
この世界が「刹那滅」で、刹那の瞬間に消えるものであるなら、夢のような虚ろなものであるなら、
一体何を守るというのでしょうか。

自分に幸せをもたらしてくれる「人」や「もの」が、
自分の眼の前に「ある」
自分の周囲に「ある」
自分の支配下に「存在している」
と、その「固定した存在」を信じて疑わないから、
それが「奪われないように」「失わないように」「離れていかないように」という脅迫観念と、
恐怖や不安や惑いとが現れてくるのですね。
仏教では、不安も恐怖も惑いもすべて、
「常住の固定したものが存在する」
という思い込みから現れるのだと教えられます。

恐怖を克服する信念の源泉

「固定した変わらない『もの』や『環境』が有る」
というのは惑いであるとお話しましたが、そうかといって、
「すべてが夢であり幻であり、本当は何も存在しない。無なのだ。
というのもまた極端な惑いなのですね。

「有」という極端からも
「無」という極端からも
離脱せしめる教えが仏教だと言えます。

じゃあ、目の前の現実を私たちはどう受け止めればよいのか
それを一言で教えられたのが
「一切法は、因縁生(いんねんしょう)なり」
とわれる「因縁生起(いんねんしょうき)」の教えです。

一瞬、一瞬に生じては滅し、また生じて…
と、展開してゆくこの世界は、
「因縁によって現れている」
というのですね。

何も無いのでもないし、
無から現れるのでもないし、
固定した独立してものが存在するのでもない。

時々刻々と、因縁が結びついて現れるという「因縁生」が、
果てしなく連続して世界は展開してゆきます。

「因」とは、「行い」のことです。
「行い」のことを「業(ごう)」と仏教で言いますから「業因(ごういん)」とも言われます。
これこそが、私の人生で無数に展開されてゆく「現実」を生み出す「種」なのですね。
無数の現実をこれからの未来に生じてゆく無数の「業因」を、
私たちは既に造っているし、今も造っているし、これからも造っていくわけです。
そういう「因」があるから、この瞬間、瞬間に五感で感じる様々な「世界」が途切れることなく現れるのです。

「因」のないところに「結果」は絶対に起きない。
この「因果」の鉄則は、いつでもどこでも揺るがない道理と言えるでしょう。

その「種」である「因」に、さまざまな「きっかけ」となる「縁」が加わると、
「幸せ」と感じる現実、「苦しい」と感じる現実、
様々な「結果」が「因」に応じて現れてゆく。
これが「因縁生起(いんねんしょうき)」ということです。

無数の因縁生の結果を、これまでも、今も、これからも生み出してゆく。
そんな因果相続が続いてゆくこの現実に、「固定した変わらない存在」など、どこにもないのですね。

この「因縁生」の道理にたってこの世界を、この人生をみたときに、
「幸せを守る」ことの意味が大きく変わるはずです。
すでに「有る」、固定した「幸せ」たちを、
奪われないよう、失わないよう、離れていかないように「守る」
という恐怖観念は、そんな固定したものの存在を信じる思い込みから出てくるのですから。

そんなものは何処にもない。
自分が造り、自分が選んでゆく「因縁」が、ただ新たな結果を生み出してゆくだけだ。
この「因縁生起」で「刹那滅」の世界観に立ったとき、
「ただ、善き因縁を求めてゆく以外に考えるべきことは何もない」
という信念が築かれます。

「固定した何か」を守り、保ち、自分のそばにとどめておこうとする
という執着に満ちた「保身」と「恐怖」と「不安」から、
「因縁を求めてゆく」という、
道理に則った思考へとシフトしてこそ、
「夢のようなもの」
「刹那で滅するもの」
という哲学チックな世界論も、惑いや恐れを克服する信念の糧となることでしょう。

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