「煩悩は悪いものではない」という「大人の意見」
「『煩悩』ってのは、悪いものでは無いと思います。」
「大人の意見」として、これはありますよね。
「煩悩」というのは、仏教で教えられる私達の心の本質を表した言葉ですが、
どこどこまでも「欲しい」と求める、底の知れない「欲望」
「許せない…」と、吹き上がってくる「怒りの心」
「アイツなんて…」と、妬ましく、恨めしく思う「妬みの心」
などなどの、決して綺麗とは言われない心の数々で全部で108つありますが、
これを108の煩悩と言われます。
「欲」なんて…汚らわしい。
「怒り」に燃えるなんて…恐ろしい。
「妬み」なんて…いやらしい。
それらは「悪」で、世の中を汚し、蝕むもので、排斥せねばならないもの。
…というのは、ちょっと純粋に過ぎる考え方であって、
そりゃあ「綺麗」とは言えないかもしれないけれど、それらは生きるに必要なものだし、無ければ何も面白くない。
「煩悩」が無いなんて、そもそも人間じゃない。
「煩悩」を否定するのは、人間を否定するようなもの。
だから、「悪」だと決めつけて否定するものではないのでは…?
そういう「大人な意見」を、私達は持つようになってゆくものかもしれません。
確かに、煩悩を否定してしまったらその時点で「生きる」ことが成立しません。
「食べる」のも、「寝る」のも煩悩のなせるわざですから、生命を維持することに不可欠なものです。
「尊敬されたい」「モテたい」「稼ぎたい」という気持ちは、あらゆる努力の原動力になってしまいますから、
それらが無い人生なんて、ただただ無気力な人生となることでしょう。
「怒り」は、自分や愛する人に害を及ぼすものに対する強烈な敵意であって、それが実際に身を守ることもあるでしょう。
「煩悩は生きるために必要なもの」
これは、確かに否定できない現実です。
ならば、煩悩は「善いもの」なのか。
…というと、これまた難しいですよね。
確かに生きるためには必要な煩悩ですが、
「欲」の心は、時には他人から奪ってでも手に入れようと、他人を傷つけたり、時には殺人にも発展して、
社会問題や犯罪の原因にもなっています。
一時の怒りで、とりかえしのつかないことを言ったりやったりして、家庭崩壊を引き起こしたり社会的立場を失ったり、
自分も他人も苦しめる原因となります。
妬みの心から、他人に嫌がらせをしたり、陰湿な言動をとったりして、毒を撒き散らし続けることも、この社会には絶えることがありません。
一概に「善い」とも「悪い」とも言えないものなのかな…?
という感じがしてきますね。
「善いもの」という時、何かに目をつぶっている
ただ、私達が煩悩に対して「善いもの」とか「悪いもの」とか言っているのは、私達人間の「都合」が基準となっているのですね。
「煩悩は、善いものでしょう」
というのも、それは「私達人間の生活にとって都合がいい」という事に他ならないでしょう。
「食べたい」という欲
そんな欲があるから、私達人間は、生きてゆけるわけですが、それは私達人間の「都合」ですね。
そんな欲の餌食となって、命を奪われたり環境を奪われたりしている多くの動物にとっては、「この上なく恐ろしいもの」です。
ですが、人間にとっては「それは仕方がない」として、そういう実態には目をつぶっているわけですね。
だけどその欲があまりに激しく、必要以上に贅沢しようとする人が増えて、人間同士で富と貧困の格差が開いてゆくという問題が出てくると、
「それは貪り過ぎじゃないか」
「独りよがりに過ぎるのじゃないか」
というように、その欲という煩悩に対して、醜く、汚く、悪いもの、という評価が加えられ始めます。
これは、欲が「人間の都合」に抵触し始めてくるからですね。
ただそれも、遠くのよく知らない国々の都合だからと、それにも目をつぶって、
「豊かな生活は素晴らしい」
として、そういう欲をも「善いもの」としているのも現実かもしれません。
自分が身近に感じられる人間だけの「都合」で、善し悪しを決めてしまう…そんな私達の実態が見えてきます。
さすがに、欲のために盗みを働いたり、他人を傷つけたり騙したりして奪ったりしたら、
「それは間違いなく悪だ」
と言われるようになるでしょう。
だけど、
「奪っている」
という事から言えば、
その奪っている相手が「人間以外の生き物」なのか「遠い国のよく知らない人々」なのか「身近な人々」なのか、
の違いがあるだけなのですね。
どの範囲の「都合」を善し悪しの基準にするかによって、煩悩は善いものになったり悪いものになったりしています。
その基準が変われば、「善い」も「悪い」も変わってしまう。
なんとも勝手な判断をしていると言わざるを得ません。
最大の戒めは「我利我利」を知ること
歎異抄という有名な仏教書には、
「善悪の二つ、総じてもって存知せざるなり。」
と、人間の善悪の判断の限界を言われています。
「何が善なのか、何が悪なのか、全く分からない」
これが、どうしても自分の都合を離れて善も悪も考えることのできない人間の限界なのでしょう。
「煩悩は善いものなのか悪いものなのか」
それを私達が論じたところで、それは「都合」の範囲の線引きをしているだけの話にならざるを得ないわけですね。
仏教では、そんな煩悩の本質を「我利我利(がりがり)」と教えられます。
「我利我利」とは、「我の利益、我の利益…」と、自分が満たされることばかりを考えている心のことです。
煩悩の代表格が「欲望」なのですが、これが「我利我利」というのは分かりやすいと思います。
「欲」というのは、そういうものですよね。
どれだけ綺麗に見せても、「欲は、自分を満たすもの」という本質はごまかしようがありません。
自分の生活を守りたい、評価を守りたい、体裁を守りたい、家族との関係を守りたい…
「とにかく自分の身を守りたい」の気持ちが「欲」の心の本音です。
そのためには、
一生懸命仕事をしたり、周囲の人たちに気遣ったり、誰かを楽しませたりすることもあるでしょう。
だけど同時に、誰かが傷ついたり、ひもじい思いをしたりすることに目をつぶることもあるでしょう。
それを私達は「善い」というのか、「悪い」というのか…
その「善し悪し」の思いの実態がそもそも「我利我利」です。
「善い」も「悪い」も、「自分の都合」によって分けているのであって、
「自分の都合」中心で考えている「我利我利」の心のなせる判断と言わざるを得ません。
「善悪の二つ、総じてもって存知せざるなり」
この歎異抄の言葉は、
「善悪ぐらいは判断できる」
という、私達の思考の大前提を覆してしまう、強烈な人間観なのですね。
仏教では、そんな私達の思いや評価や判断はさておき、
煩悩の「本質」を徹底して説かれます。
それはそのまま「人間」の本質とも言えるものです。
それが「我利我利」なのですね。
「大切な人のために、仲間のために、社会のために…」
「他人のため」だと口では言いますし、自分でもそうだと信じています。
そんな表面上の言葉や思考の底にこそ本性は潜んでいるのであり、
そんな自分でも自覚し得ずにいる本性を、仏教はごまかすことなく説くのですね。
私達が「善い」と言おうが「悪い」と言おうが、どこどこまでも「我利我利」の本性から離れきれない。
そんな人間の実態をごまかさずに観ることこそが、大切だと教えるのが仏教です。
自己の本性を決して忘れないことが、何よりも道を誤らない戒めとなることでしょう。