幼子の頃はどんな風に世の中を見てたっけ…
「そうか、世の中ってこうなっているのか…」
というように、「世の中を知る」瞬間というものがあります。
初めて「学校」へ通い始めて、「先生」やら「クラスメイト」との関わりが始まって、
最初の「社会の縮図」を見たときに、これが「世の中」か…と実感する時。
「部活動」に参加し始めて、「先輩」と「後輩」というかなりシビアな「上下関係」を見て、
「世の中」って、こういうもんなのかな…と改めて感じる時。
会社へ入って、「お金をもらって仕事をするという現実」や「多少の理不尽を甘んじて受け入れる大切さ」などを学び、
「世の中」って、こうなっていたのか…と知らされる時。
初めて「課長」という管理職について、最初に課長以上の集まりに参加した時に、
「お前もこっち側の人間になったのだから…」
と語り始めた先輩たちとの会話を通じて、経営側の視点を始めて知り、愕然として、
これが「世の中」だったのか…と思い知らされる時。
そんな「世の中とは…!」みたいなことを感じた時に、
「これまで自分は、子供だったな…」
と感じたり、
「大人になったんだな…」
と実感したりして、世界が「広がった」ような気分になるものですね。
だけどそれは、そのインパクトが強ければ強いほど、
「世の中はこうなっている」
という「世界の固定化」が自分の中で起きている瞬間でもあります。
その「世の中こうなっている」ってのは、一体、誰の視点なのでしょうか。
現代の大人たち大多数が持っている常識的な視点だったり、
その中の一握りの「経営者」層が持っている視点だったり、
いずれにしても、「そこそこ権威のある立場の視点」でみた「世の中こうなっている」というものです。
それに感銘を受けて、納得したというのは、
ただ、その視点を自分は受け入れて採用したという事に過ぎません。
その「世の中」観は、その価値観を受け入れている間だけ持続するもので、それを覆すきっかけがあれば、
いつ崩壊してもおかしくないものなのですね。
もしかしたら今度は、
「脱サラして起業しようぜセミナー」
みたいなのに参加して、目から鱗で、
「これまで、なんと狭い価値観で生きてきたのか…」
という衝撃と共に、「世の中」観はまた変化するかもしれません。
年齢や知識や経験を重ねて、
私達は色んな「世の中こういうもの」観を、色々な立場の人間たちから植え付けられて大人になっているとも言えます。
ちょっと、考えてみて欲しいのは、
そういうものが植え付けられる以前(おそらくは幼子の時代)は、私は「世界」をどのように観ていたのだろうか?
ということです。
「世の中、こういうもんだぞ」
というのが、まだ定着していない頃に見た世界は、今見ている世界とは、きっと全然違っていることでしょう。
そして、そんな「固定化」が起きていないからこそ「見えていたもの」がきっとあるはずです。
そんな状態だからこそ考えていた、とても大切なことがあるかもしれません。
「世間とは…」という固定化が積み重ねられて、いつしか見えなくなってきたもの、考えなくなってきたこと。
そういうものが意外と、本当は見失ってはいけないとても大切なものだったりするのですね。
「世の中」も「世界」も根本から揺らぎ始める
「国」があって、「街」があって、「会社」があって、「家族」があって…
その中で自分の役割はこういうもので…
そうやっていつの間にか自分の中に、「世の中」と「自分のポジショニング」というものが確立していきます。
それによって、私達は一定の「安心」を獲得しているとも言えます。
そういうものがなかったら、不安じゃないですか。
「自分の居場所はここ」で、「自分の役割はこういう事」という一定の固定化をすることで、
「なんとなくこれで大丈夫かな…」という安心を得ることができます。
その安心が心地よいものであればあるだけ、その固定化をさらに強めてゆきます。
そんな、
「国がある」も
「街がある」も
「会社がある」も
「家族がある」も
そんな「世間」という器の中に存在している「私がいる」というのも、
人間の「固定化せずにいられない」という心の習性が生み出している「錯覚」であると、仏教では教えられます。
「諸法無我(しょほうむが)」という仏教の言葉があります。
「諸法」とは、「あらゆるもの」という事です。
そして「我」とは、「固定した変わらないもの」という事です。
「国がある」「街がある」「会社がある」「家族がある」そして、そんな器の中に確固として存在する「私がいる」
これら全部が「我」です。
「いや、別に『固定している』とも『変わらない』とも思っていないよ」
と思われるかもしれません。
そりゃ、確かにそれらが1ミリも動くことのない凍結したような存在だとまでは思っていないでしょう。
だけど、「○○がある」と認識している時点でそれは、「固定化」なのですね。
何もかもが混沌としていた世界を見ている幼子だった頃から、大人たちに、
「これが家族だ」「これが社会だ」「これが世の中だ」「世間とはこういうもんだ…」
と植え付けられた様々なイメージがすでに「我」以外の何者でもないわけです。
人間は、そういう「我」にとらわれ、それで安心を得て生きようとする存在なのですね。
だけどそれは、人間が勝手にそう「決めて」「固定化して」「共通認識として」「安心材料として」…
そうやって作り出した「思い込み」の産物だということです。
本当は、そんな固定した「我」は、無いのだと説くのが仏教です。
そして、そんな「家族」「街」「国」「社会」などなどによって構成されている、固定した確固たる「世界」なるものも、存在しない。
さらに、そんな「世界」という「器」の中に配置された「私」なんてものもまた存在しない。
…無茶苦茶なことを言っているように思うでしょうか。
それとも、どこかで「そうなのかな…」という思いもあったりするでしょうか。
あなたは、朝に目が覚めた時に、
「あれ?」
という違和感を感じたことってあるでしょうか。
たとえば、旅行へ行って、日が暮れるまで楽しく過ごして、ホテルや旅館の床について休んだその翌日、
目を覚ますと、「あれっ…?」て、なりませんか?
いつもと違う環境で目を覚ますって、まあまあ刺激的な経験なのですよね。
なんというか、不思議な感覚で、「世界そのもの」が揺らぐといったら大げさかもしれませんが、
ちょっと混沌とした感じがするのですね。
或いは、かなりリアルな夢を見ている最中に夢から覚めた時なんかも、
目の覚めた「現実」が、「夢の世界」から急に変化して現れた「世界」なだけに、ちょっとした断絶感があります。
「確固とした世界が初めから存在していて、それが途切れる事なく続いている」
そう信じて生きている私達が、その世界に「断絶」や「ゆらぎ」や「おぼろげさ」を感じて、
その存在が揺らぐ事は、そんなに少なくないはずです。
「昨日までの『あった』と信じている現実が、『実は夢だった』と言われても、それを否定しきれるだろうか?」
「いま生きている『現実』と信じているものだって、それが夢じゃないと言い切れるだろうか?」
この世界は、整然と秩序立てられたストーリーの連続のように存在してるもの…
ではなくて、本当はもっと混沌としたもので、私達の心がそれに「秩序」や「理論」を付加しているだけなのではないか?
これは、「私」の存在以前に確固として存在する、固定した「世界」の存在が揺らぎ始めて、別の世界観を垣間見る瞬間なのかもしれません。
不確かな世の中にあってだた一つ「確か」なこと
仏教では、「私」の存在以前に、「器」として存在している固定した「世界」は無いと説きます。
そして、そんな固定した「世界」の中に置かれている「私」もまた無いと説きます。
「世界」は、私達一人ひとりの「業」が生み出しているもので、
私達は、そんな自分の「業」によって生み出された一人一人の世界で、それぞれ生きていると言われます。
そんな世界のことを「業界(ごうかい)」といいます。
「業」とは、私達の「行い」のことです。
「行い」のことを仏教では「業(ごう)」とか「業因(ごういん)」とか「業種子(ごうしゅうじ)」とも言われます。
「行い」は、「原因」であり「種」であるということです。
そして、自分に引き起こってゆく未来の現実はすべて、その「行い」を「種」として現れる「結果」である。
これを「自業自得」と言うのですね。
自分の「業」が、自分が受けてゆく未来の結果を生み出してゆく。
ということは、自分が生きる「世界」は、自分の業が生み出している「業界」なのですね。
「私」というのは、そんな「業界」を生みだす主体であって、
まず世界という器があって、その中に存在しているもの、などではないという事です。
「地球がある」
「国がある」
「社会がある」
そんな、「世の中」と呼ばれる存在は、実に不確かなものと言わざるを得ません。
どんな事で変化してゆくとも知れない。
どんな事でその存在を否定されてもおかしくない。
「この世は浮世」と言われるように、「浮いた」ような、どこへ流れてゆくとも知れない不確かなものばかり。
そんな世の中にあって、確かなものがあるとすれば、「因果」という道理だけ。
どんな結果にも必ず原因がある。
そんな「原因」と「結果」という法則だけは、この世がどんなに不確かであっても曲げられない真理です。
私達一人一人が「業因」という「原因」を造り続けており、「業界」という「結果」を生み出している。
この「因果」は、何があっても揺るがない確かなものなのですね。
大切なことは、その揺るがない道理に立脚した「世界」観を自分の中に確立するということです。
それは「道理」に立脚している以上、
「これが世の中なのか…!」
という衝撃だどれだけ走ろうとも、変わることのない「世界」観です。
まず、自分の中にそんな道理に則った世界観を持つこと。
その上で、世の中の様々な人の様々な視点を知り、採用できるものを採用することは、世の中を渡るための必要な手段と言えます。
ただ、何の世界観も持たないおぼろげないままで、他人からの「世間というものは…」にとらわれていては、
自分の生きる指針は築きようがありません。
「諸法無我」と「自業自得」という真理は、「我」にとらわれ過ぎて大切なものを見失いそうな私達を是正してくれる、とても大切な教えなのですね。